064 面影
「よお、暇か」
診療所の灯りを消して火の始末をしていると、背中に声が降りかかった。
アンは手に持った燭台にそそぐ油の瓶を、棚に戻して息をつく。
「……はい、というのが嫌な質問ですね――ワルター大佐」
振り返った先に大きな体躯を見上げて、アンは苦笑した。軍衣のまま酒瓶なんか掲げて、誘いに来るような人はこの人しかいない。
「何言ってんだ。終わったんだろ、ちょっとくらい付き合え」
「いいですけど、ここで宜しいんですか。肴ぐらいなら出せますが」
一度棚に戻した油を再び手にとって、アンは燭台に細く拠った油紙を乗せた。もう閉めようとしていたが、それほど片付けるものもないため、準備ならすぐにできる。
「いや、医者の棲家を酒臭くしたりはせんさ。久しぶりに城下へ降りないか、露天で肴でも買って」
大口で笑顔を作るワルターの顔を見上げて、アンは頷く。
「感心しませんよ、軍衣で外に出たりして」
「いいんだ、どうせ顔は知れてるしな。お前もそのままでいいぞ」
外套を羽織りながら、アンは小さく笑った。〝軍衣のままでいい〟だなんて、気を遣ってくれたのだろう。何だかんだ言いながらも横柄なわけではなく、考えているのだと思う。こちらの解釈次第なのは否めないけれど。
診療所の片づけを終え二人で外に出ると、空にはすっかり星が浮かんでいた。伸びをするように腕をかるく振ってから、ワルターが上を見て「おう」と歓心したような声を出す。
アンもその視線を辿って、綺麗に丸まった月が頭上に昇るのに気がつく。
「ああ、もうすっかり丸くなりましたね」
「不思議なもんだ。浮かんでるもんは同じなのに、空の調子で、あんなにも色が変わるんだからな」
ワルターの言葉を耳にしながら、じっと満月を見上げていた。けれどアンには、いつの満月も「丸かったな」としか思い出せない。
「……そうなんですか」
しばらく考えた後に応えると、おかしそうにワルターが笑う。
「お前もテリゼアシダ様に似てきたな。まあ元から気性は似てたが」
美しいものは美しいな、とは思うけれど。色合いがどうだとか形が繊細だとか、そういう考えを持つことはあまりなかった。成る程、ずっと側にいて見て来た師が、そういうものに無頓着だったことが大きいのだろう。
「ずっと、綺麗なものを綺麗だとは思わない生活をしていましたからね。あの人の放浪癖に付き合っていたら、虹さえ灰色に見えるほどになりますよ」
城下の門をくぐりながら、その下に連なる露店の明かりを見渡した。きっとこういう光景も「綺麗だ」と表わすのかもしれない。
露店の一つで鳥の包み焼きを買い渡され、その軒先に腰を下ろす。客用に敷かれた絨毯には、他に何人か手酌をしている客がいる。
包み焼きは細切れの鳥肉を、薄く伸したイムで包み網の上で炙ったものだ。両手で持てるほどの大きさがある。
噛り付くと塩味のきいた鶏肉の甘さが、肉汁とともに口に広がった。
「美味しい」と呟いて、ようやくこれまで無言だったことに気がつく。包み焼きから目を上げると、酒瓶をゆっくりと口元から離すワルターが目に入った。
「あいつ、行っちまったよ」
ふと漏らした彼の呟きに、最初、何を言っているのか理解することができなかった。けれどしばらく沈黙を置いて、ワルターが「行っちまった」と言う人が、一人しか思い当たらないことに気がつく。
アンははっとして隣を伺い、ワルターの横顔に苦いものを見つける。
「なに、けりつけてすぐにでも帰ってくるだろう。心配することはない」
どう見ても、自分の責任だと思い込んでいる顔。
「……いつ頃ですか、コンツェが向こうに渡ったのは」
「この月が、まだ半分も欠けてた辺りだ。〝鷹〟がいやに多く海を飛ぶもんでな、胸騒ぎがして海に行ったら、案の定だ。随分前から奴は、テナン王太子への打診をされていた。竜狩りの頃、テナン公が息子に会いたいと言ってきてたのは覚えてるだろう。おそらくはその頃からだ。きっともう、俺たちが考えていた以上にあいつは、色んなもんに雁字搦めだった」
「優しい子ですからね……。けれど、今まで貴方に守られてきて、自由だったのは確かです。帝国と祖国、どちらにも寄ることがなく、真っ直ぐに成長して」
この頃嫌な噂ばかり耳にする。メルトローからの船が、ちらほらテナンへ向かうのを見かける人が増えたり、沿岸に居ては危険だからとイリアスの南部に移住する者が出始めたり。
まるで災厄を予見する小鳥のように、民たちは落ち着きがなくなっていた。
「ですが、コンツェももう子供ではありません。行き先を決めてやって、進めという時期ではないでしょう。彼が何を選んで、どこへ行くのかは……見守ってあげてよいのではないですか」
「そうだな」
しみじみと呟いて、ワルターは息を吐いて笑った。
「また俺は、何も出来ない。あいつを信じてやるしかないわけだ」
冗談のように軽く言って、彼が酒を一つ口に含む。その言葉の端々に、〝昔〟を思い出しているのは痛いほどによくわかった。
八年前――何も知らず、恋だけに泣いていたあの夏の日々を。
「大佐は私の知る限り、何も出来なくはなかったじゃありませんか」
ワルターはコンツェをテナン公王から引き剥がし、彼に〝簒奪のための教育〟を施させなかった。
それはこの国に猶予をもたらし、イクパル帝国というひとつのまとまりを守ったことにもなる。表沙汰にはされないが、大きな功績にはちがいない。
「……お前はあの頃、何を考えていたか思い出せるか?」
「あの頃……」
「そうだ。中身も外側も、たいして変わっちゃいねえつもりなんだがな。よくよく頭を捻ってみると、何を考えていたかなんざ、さっぱり思い出せんもんだ」
ほんの八年前のこと。けれど八年というのは、口に出すほどあっという間ではなかった。十八だった自分が、何を想い何を感じていたのか……もうおぼろげにしか、思い出すことができない。
「そんな頃のことを、俺はずっと引きずってる」
そっと呟いた彼の言葉が、重みを増して胸の底に沈んでいく。抜け出そう、抜け出そうともがいているのに、そのせいで深く絡まる水底の蔦のように。
「……私だってそうです。先帝が亡くなり〝もういい〟と言われても、未だに髪を伸ばして皇籍に戻ることができない。引きずっているのは、あなただけじゃありません。私も……おそらくは、兄も陛下も」
そうしてウズは薔薇を育て続け、ディアスは死の影に追われ続ける。
コンツェが追われているのは、国か血か……いや、恋かもしれないな。そこまで考えて、ようやく笑みが浮かんでくる。
「いっそ、」
自嘲のような笑みを口元に浮かべて包み焼きをほおばりながら、ワルターの声を耳にしていた。
「いっそ俺が貰ってやろうか? ――お前を」
「は?!」
息を吸い込んだら、その拍子に気管へ鶏肉が下ってきた。激しく咳き込んでから、アンは背を叩く人の顔をじっと睨み付けた。
「真面目な話をしていたと思ったら……、」
またいつもの冗談だったのか。けれどいい加減にしてくださいと、言おうとして見上げた顔には、困ったような笑顔があった。
「八年だぞ。ずいぶん長く待ったんだがな。お前はトスカルナを継げる、俺はサプリズを継げる。考えてみろ、悪いことなんざ何も無いだろう」
慌てて酒を飲み込んで、アンはさらに喉をつまらせる。
「そんな、」
「ああ、お前の気持ちか? それはまあ、これから努力する」
「な、何言ってるんです、私は」
「お前、ファラマ様を覚えてるか」
ファラマ・ファタ――八年前、〝アンジャハティ姫〟が皇帝のハレムにいた頃、その頂点に君臨していた妾妃だった。
「……ええ」
「あの方はサプリズの血筋の本家の方だ。あの方が生んだ姫君がバッソスに嫁いで、最近孫姫が生まれたらしくてな。養子にどうかと話が来てる。まあ、また婿捜しになっちまうだろうが……」
養子にすれば、確かにトスカルナを継がせることができるだろう。少し時間を置いてしまうが、そのまた子供に継がせることが可能だった。けれどまさか自分が、トスカルナの存続に関わろうだなんて。ウズルダンが養子をつれて来るはずと、長年そう考えていたのだ。
「忘れないでください、私には兄がいるんですよ。あの人がトスカルナを離すわけがないでしょう」
あれほどトスカルナを継ぎたいと固執していた権力の亡者に、まさかは無い。
「どうだろうな。……最近の奴らは、何を考えているかさっぱりわからなくなっちまった」
何故だろう。まるで置き去りにされたような寂しい声で、彼は笑った。