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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
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061 夢に想うその人のぬくもり

 「また喧嘩してきたな」

 擦り傷だらけのフェイリットを呆れたように一瞥して、サミュンは言った。〝また〟とは心外だったが、確かに無傷で村から戻ってきたことはなかったような気がして、何も言えない。


「でも、ちゃんとおつかいしてきたよ」

 はい、といって背に背負っていた麻袋をサミュンの目の前で下ろして見せる。中にはこがね色の蜂蜜がたっぷり染み込んだ、蜂の巣を切り分けたものが三枚ほど入っていた。


「偉かったな。さあ風呂だ、消毒はそれから」

「ええー」

 頭の後ろをぽんと叩かれて、フェイリットは僅かによろめいた。何度もしていることだが、傷を負ったまま風呂に入るのは一向に慣れない。


 フェイリットの抗議の声を無視したまま下ろした麻袋を拾うと、サミュンは家の中で一番気温の低い、窓際の梁にそれを結わえて吊した。そうするとひと冬、腐らせることなく蜂蜜が保存できるのだ。


「温めた山羊の乳に蜂蜜を入れてやろう。早く入ってこい」

「本当? やった、忘れないでねサミュン!」

 風呂は、まるで喧嘩をして帰るのを予期していたかのように、ほかほかに焚かれていた。熱すぎるのを嫌うフェイリットが、じっと首まで浸かって我慢できる温度で。


 風呂は古くなった木材をサミュンが組んで造ったものだ。家のように四方を囲んであるため、外の吹きさらしの冷たい風を直接浴びなくて済む。小屋の裏手で焚き場所は土間とつながっていて、おこした火もそのまま料理に使えた。

 今頃この火を使って、サミュンが山羊乳を温めているだろう。そうしていると、本当に甘く芳ばしい乳の香りが流れてきて、フェイリットは微笑んだ。


「晩飯だぞ、さっさと出てこい」

 湯船に浸かってぼうっと匂いを嗅いでいると、土間のほうからサミュンの太い声が響く。

 はい、と返事を返しながら、フェイリットは慌てて湯船から立ち上がった。


 体を拭いて服を着代え小屋に戻ると、薬の入った深緑色の壷を持ったサミュンに迎えられた。

 彼がメルトローから持ってきた数少ないものの一つで、擦り傷や刀剣での切り傷にとてもよく効く薬だ。とはいえ中身はとうの昔に使いきり、サミュンが自ら山麓を歩き集めた薬草を煎じたものが入っているのだが。効能は全く衰えていない。


「沁みたか」

 フェイリットの前に膝をついて身長を合わせると、サミュンは顔から足の先まで薬を塗り始めた。薬は壷の色に似て、少し気味の悪い緑色をしている。

「平気」

「痩せ我慢ができるようになったな」


 サミュンが小さく笑って、壷に蓋を差し込む。調味料を並べてある棚にそれを戻すと、今度は炉にかけていた鍋から木椀に乳をすくって入れてくれた。自分のもすくうと、彼はそれに胡椒を潰して入れている。

「で、誰とやりあったんだ?」

 丸太を組んで造った食卓につくと、サミュンは自らの椀に口をつけながらフェイリットを見やった。


「コレジさんとこのルチャだよ。あいつ、いっつもケチつけてくるから」

「それで取っ組み合いか」

「……うん」


 ルチャに、サミュンの悪口を言われて殴りかかったとは、言わないでおくことにした。

 片目が無いのは罪を犯したからだなんて、ばかばかしい。何より庇ったとばれるのは恥ずかしいし、喧嘩をしてくるのはいつものこと。きっとサミュンにもわからないはずだ。


「我ながら、男の子を育てるのがうまいものだ。麦パンを焼いたが、乳を漬けて食うか?」

 苦笑しながら立ち上がったサミュンを睨んで、フェイリットは「食べる」と答える。

「わたしだって、取っ組み合いなんかしたくないよ。村の女の子たちと遊びたいのに」


 新しい織物を織ったのだと、フィフィンとは見せてもらう約束までしたのに。サミュンのため、繕い物やちょっとした料理などは出来るようにはしている。が、それで収入を得られるほどのもの――村の人たちがしているような織物や刺し子など――は、やはり教えて貰わねば出きるものではない。

 ここでずっと暮らすわけではない。それでも家計を助けることが出来れば、サミュンを休ませてあげられるのに。


「お前はそれでいい」

 サミュンの声を聞きながら、目の前に出されたパンをじっと見つめた。

 表面がかりかりに焼けているが、腹持ちのするように重く練られているパン。スープか何かに漬けないと、噛み砕くのに難儀するものだ。ふわふわのパンなど食べたことはないが、フェイリットはサミュンが焼くこの重いパンが、世界一おいしいと思っていた。


「女の子らしく育てた覚えはないが、お前は十分女の子だ。そのせいで、苦しむことも必ずある。なぜならその手に持つのは機織の器具や針糸ではなく、剣や執政や外交だからだ。――わかるな?」


 どの国でも、男の生業とされているそれらを、ずっと教え込まれて育ってきた。言葉だけならもう、この大陸に暮らすほとんどの民族の言語を凌駕できている。

 そうして各国の歴史から、自分の国の政治体制から、すべてを覚えさせられた。


「……うん」

「お前はよくやっている。それ以上のことを俺は望まない。俺の役に立とうとしてくれているのは嬉しいが、俺はお前が強く、賢くなってくれるほうが、何よりも誇りなのだぞ」

 いつの間にか、サミュンの膝の上で、彼の首にしがみ付いていた。彼の役に立ちたい。そう思うのに、自分の幼さがそれを阻む。もう少し大人になれたら、力が強くなったら、もっと沢山のことが手伝えるのに。


「しかし……この甘え癖は、治さねばな」

 フェイリットを抱えながら、ぽんぽんと背中を叩く優しい手の平に安堵する。

 彼が甘えることを許してくれるのは、そうそう無いことだ。この機会にいっぱい甘えてしまおうと、回した腕に力を込めた。

 「ぐ……があぁぁ!!」

 激痛とともに目を開けると、自分の身体が何者かの手に押さえつけられているのに気づいた。

「もう少し我慢なさい……! いかん、麻酔が効いていないのだ。口を開けさせてズィヤの葉を噛ませるんだ。――聞こえるな?! 大丈夫だ、痛みはすぐに消える。だから動いてはだめた。腹の牙が、よけい傷を広げるぞ――!!」


 まるで焼けるようだった。腹の辺りが、ごうごうと燃えている。

 鼻をつく自分の血の臭いと、血管を焼くすえた臭い。吐き気とともに、意識がますます冴えてくる。

 今までサミュンの側にいたのに。どうして自分はこんなところで、寝転がっているのだろう?

 サミュンがここにいて、傷の手当てをしてくれていたのではなかったか――。


「動くのをやめるんだ!」

 誰かに両腕を掴まれて、頭の上に引き上げられる。

「がああ――!!!」

 サミュン、助けて、サミュン。

 血に混じった、きつい消毒薬の臭い。ああ、自分はあの頃の、あの幼い〝フェイリット〟ではないのだ。


 気づいてみれば現実は一気に押し寄せてくる。サミュエル・ハンスは死に、自分はメルトローから逃げて〝ここ〟にいる。

 あまりの痛みに叫んでいると、不意に口の中に何かが詰め込まれる。噛みなさい、と言われて思い切り顎を閉じさせられた。歯ですり潰されたそれは、何かの薬草なのだろうか……舌がしびれて、意識が朦朧としてくる。


 このまま死ぬのだろうか。沈んでゆく意識の中で、ずっと考えないようにしていた疑問が頭をよぎった。

 ――自分に残された寿命は、あとどれくらいなのかと。





 * * *


 医師の背を見送ってから、スリサファンは仕切りの幕を捲った。

 大量の麻酔で強制的に眠らされた、サディアナの寝顔を見て安堵する。よほど辛い顔で寝ているかと思ったが、思いの外安らかだ。

 治癒の力が高すぎるのか、それとも身体が順応してしまったのか。彼女は麻酔をまったく受け付けなかった。毒薬に近いそれを投与して初めて、眠りについたらしい。


「サディアナ様……お守りできず、」

 寝台のわきに膝をつき、彼女の(ひたい)を優しく撫でる。汗ばんで張り付く髪を除けてやって、スリサファンは溜め息をついた。

「メルトローに流れたわたくしには、貴女と、貴女のお母様しかいなかったのですよ」

 独り言のように呟いて、サディアナを見つめる。こうして力なく目を閉じる姿を見ていると、晩年のリエダを思い出してしまう。


 ――あの人がついているなら大丈夫よ、スリサ。きっと生きていけるわ。それよりも、アシュのことを頼んだわね。カランヌにもお願いしたけど……彼、奔放すぎるでしょう?

 だが奔放は奔放なりに、構ってやっているのは見えていた。歳を経るごとにアシュケナシシムが懐いているのは、傍目にも彼だけだったから。


「ジル……ヤンター……タ」

「サディアナ様、お目覚めですか!」

 驚いて、スリサファンは眼を開いた。あれだけの麻酔でもなお、こんなにも目覚めが早いというのか。

「ジル、わたしの、知って……?」

 サディアナは痛みにむせて、ちからの無い咳をこぼした。鎖骨のあたりに手をおいてさすりながら、スリサファンは柔らかく笑む。


「わたくしは……お味方いたします。いざという時は、貴女の盾にもなりましょう」

 ぼんやりした目でこちらを見つめた後、サディアナは苦笑するように口元を綻ばせ、ゆっくりと瞼を閉じた。

 黙っていたことへの侘びや、その他に言わねばならぬこともあっただろうが、口から出たのはその言葉だけだった。全てを省略したにも関わらず、彼女は納得したように一つ、かすかに頷いた。


「でも、」

「サディアナ様?」

「誰かが死ぬなら、わたしが……一番最初がいい。……死の扉の、前にいて……大切な人たちを、追い返……すから」

 スリサファンは、瞳を閉じたままのサディアナの額に、そっと手をおいた。


「語ったことがございましたね、わたくしにも子供がいたと」

 柔らかな声で囁くと、サディアナはゆっくりと水色の瞳を現した。こちらを見つめるその瞳に微笑んで、スリサファンは続ける。

「その我が子を三つで失い、わたくしはそれから何年も国を流れたのです――物乞いに近いことも、娼婦のようなことも致しました。果てにメルトローに辿り着き、あなたのお母様に出会うまで……何度死のうと思ったかしれません」


 サディアナは、何を言おうとしたのか、唇をわずかに振るわせた。けれど擦れた吐息と力の無い咳が、彼女の言葉を奪ってしまう。


「……流れ者のわたくしに、あなたのお母様はあろうことか乳母役をお命じになった。こんな、どこの者とも知れぬ女にですよ」

 あれは、運命としかいいようのない出会いだった。

 目頭を赤く晴らした少女が宮殿から逃げてきたところに、そうとは知らぬスリサファンが近づいたのだ。――金を持っていそうな少女の、身包みを剥がしてしまおうと企んだがゆえに。



 ――この子を、どうしても産みたいの。



 彼女の言葉によみがえる、我が子の笑顔……。

 独り言のように呟くまま。膝をついて泣きはじめた少女の身包みを、結局剥がすことは出来なかった。

 そうして彼女(リエダ)はそのまま、スリサファンを盗賊のような日々から引き上げてしまう。


「色々な事態が重なってしまい、結果あなたをお育てすることは叶いませんでしたが――こうしてお側にいられるなどと、当時は思いもしなかったことです。サミュエル殿下とて、あなたに門番役を押し付けることなどなさらぬはず。今はまだ、精一杯、自らの選択に生きることをお考えください……フェイリット。それが逝った者への手向けです」


 サディアナ――いいやフェイリットは、はっとしたように口を開くと、ゆっくりと微笑んだ。

「ご安心ください。あの馬鹿……カランヌが現れたら、わたくしが張り飛ばしてやります」

 疲れたのか、安堵したのか。フェイリットはようやく、まどろみに瞳を揺らしはじめる。


「さて。もう一人の馬鹿が何を企んでいるのか、つきとめて参りましょうかね……」

 眠り始めた安らかな寝顔を確認して、スリサファンは立ち上がる。


 リエダ様――願わくば門番役は、貴女がしてくださることを。いいえ、わたくしでも構いません。

 どうかこの子の辛い選択が、少しでも軽くなりますように。




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