060 夢に呼ぶ憧憬
夕闇が夜の帳を落としつつある頃、オフデ侯爵ルクゾールは城の回廊を走っていた。
薄い灰色の砂岩で組まれた城は、雲間にかくれた微妙な頃合いの夕陽で、美しいすみれ色に塗られている。
バッソスは、砂漠にぽつんと建つ城から丘のように盛上がった台地を駆け下りると、民草の生活する城下の街がとつぜん群れで現れる。
城の東側につくられたその街並みは、砂漠の風を台地に阻むことができるため、幾分人が住める環境になっていた。そしてそこから見上げる夕闇のバッソス城は、とても優しい色をして彼らを見下ろしているのだ。
砦とさえ謂われているバッソス城だが、四角い土台の一、二階の上に半球状の三階部分が乗る、イクパル古来の建築に倣って建てられている。長い歴史をもつイクパル帝城よりも古い形だ。
時の移ろいで色を変える城の美しさは、なにより民から好まれていた。
「オフデ侯爵閣下、こちらです」
回廊を走り抜けた後ろ背に呼び止められ、ルクゾールは足を止めて振り返った。
「案内しろ」
小姓について早足になりながら、ちらちらと回廊に続く壁越しに外を眺める。
切り取られるように並ぶ小さな窓は、歩きながら覗くには視界が狭すぎた。覗き見たい人物の姿はついぞ確認することなく、小姓の足取りがとまる。
無理もない。本来この小さな窓は、敵を矢で射抜くためのもの。焦点をあわせるのに長けていても、物見矢倉のような視界は望めぬ。
「ありがとう」
振り返り膝を屈めて礼をとる小姓に呼びかけ、ルクゾールは頷いた。外へと通じる大きな門は、自らの手で開け放つ。
さっと顔を伏せて砂地に膝をつくと、最高儀礼である伏礼をとった。
「――寛大な出迎えに感謝するが、妃が負傷したので先に運ばせたい。医師を頼む」
頭上にかかった声に、ルクゾールはゆっくりと顔を上げる。見上げた先には、遊牧民族の青い衣をローブ代わりに肩にかけ、こちらを見下ろす男が立っていた。
ホスフォネト王の参謀として、幾度か帝城に過ごしたことはある。それでも面と向かって、皇帝の顔を見るのは初めてだった。
政治を嫌い、ハレムに通いつめる優男。そんな印象がいつしか植え付けられていたのだと思う。
ルクゾールが目にしたのは、噂とは全く違う鋭い目つきの男だった。
これが、バスクス二世帝…。
しかしその容姿など、今はどうでもよいこと。
重要なのは〝寛大な出迎え〟と〝妃の負傷〟の間に因果が在ること。そしてその因果に皇帝が気づいているところ。
「すぐに、公王の御典医を用意させましょう」
帝国の長たる皇帝陛下を出迎えているのに、公王の参謀である侯爵がたった一人。
〝寛大な出迎え〟は、恐らくこの現状も含めた皮肉だ。
さっと目線を移すと、後ろに控えた大柄な女が動く。妃らしき人物をその背に担いで、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
随分と小柄なジャーリヤだ。伏せられた顔はヴェールに隠され、どんな容姿をしているのかまったく判断できない。あげく身体の上をすっぽりと覆うようにローブが被せられているために、指先の色さえ窺えなかった。
……まるで布の繭につつまれる蚕だ。
意識を向けた途端ふわりと漂った血の臭いに、ルクゾールは気づく。
「ヒラ」
帰りかけていた小姓の名を呼び戻して、ルクゾールは目線を女の方へ向ける。
「この者に案内させますので、どうぞ医師の処へ」
女は歩きかけて、皇帝の顔を見やった。意見を求めているのかしれないが、その顔も黒いヴェールに隠されていて見えない。
「行け」
短い返答を聞いて、女は額を傾け礼を返した。ルクゾールは小姓に医師への言伝てを預け、女の前に立って案内するよう命じる。
「ホスフォネトは何処だ?」
去りゆく自らのジャーリヤに目もくれることなく、バスクス帝は言葉を続けた。
在位二年目でようやく上げた妾妃だ。さぞ気に入りなのだろうと踏んでいたが、これではあまりに執着がない。
「ご所望あれば、直ぐにお会いになられます」
ルクゾールの声に、バスクス帝は口元を歪めて笑った。
「弁明したくば私も聴こう。――それよりもまずは鷹を貸してくれ、兵も随分欠いてしまった」
バスクス帝は静かな声音で告げたのち、すっと歩き出した。その後ろから従者であろう男が一人、ついて行く。
――シャルベーシャ……ザラナバル?
古民族の血を引く彼がいて、なぜジラが殺せたのだ。ジラ――刺客として送ったタァインは、まだ若く血に飢えてはいたが、彼と〝同じ〟ザラナバルの民。戦闘の能力だけは、他人を遥かに上回っていたはず。そして彼らは同種の争いを、本能的に避けるくせを持っている。
白い虎というよりも、黒い豹を思わせるその姿を見送って、ルクゾールは首を捻った。
いったい、かれの息の根を止めたのは誰だというのか。
* * *
室の中の騒ぎがようやく静まって、スリサファンは肩の力を落とした。
医師の元に運んだサディアナは一命をとりとめ、長い時間をかけて腹の牙も抜かれたようだ。最初はスリサファンも室内に留まっていたが、見るに耐えずに逃げてきてしまった。
何せ赤子の腕ほどもあるその牙は、彼女の内臓まで引き裂き、背のぎりぎりまで到達していた。あれで助かったなど、普通の人間なら考えられないこと。
きっと医師さえ「奇跡だ」とのたまうだろう。
室の前で仕切りの幕を潜ろうかと逡巡していると、ばさりと上がって小柄で太った医師がすべり出てくる。控えていたスリサファンの顔を見ると、彼は「ああ」と声を上げた。
「強いお方だ。相当に暴れはしたが、麻酔の回らぬ中、あれだけの痛みに涙ひとつこぼされなかった……普通なら、屈強な軍人でさえ泣いて死を請うほどの苦痛ですぞ」
驚きも顕わに、医師はそう呟いた。
奇跡だ、と聞かなかったことに、少しだけスリサファンは気持ちを静める。
「そうですか」
「三日は熱が下がらないとみてください。水分を絶やさぬように」
頷いて応え、歩き出した医師の背中を見送った。
また、彼女の寿命を縮めてしまった。
あの小さな身体の中では今頃、常人では考えられぬ速さで治癒が進んでいるだろう。それこそが彼女の命を削る原因なのに。
己の身体が他人の倍、生きることに生命の力を注いでいること。その短命の原因を、サディアナは今まで知らずに育った。他でもない、サミュエル・ハンスの育て方を聞けば頷ける。
嵐のごとく稽古をし、毎日傷だらけになる日々。それを十年以上、絶やさず続けてきたというのだから。
「――ところで、」
随分先に足を進めてから、医師は再び思い出したように振り返った。室の中に入りかけていたスリサファンは、半身だけを外に出して眉をひそめる。
「〝サミュン〟というのはどちらの方ですかな?」
その言葉にスリサファンは、苦笑せずにはいられなかった。
「どうかなさったのですか」
「いえ、夢現のさなか、必死に呼ばれていたもので」
思ったとおりの返答に、静かに首を横に振る。
「はて――わたくしには、存知あげませんが」
厳しく育てられたのだと聞いた。けれど、それでもなお彼を呼ぶのは、慕っていたという証拠だ。
素直で、快活で、あどけない。サディアナは、想像していたのとはまったく別に育っていた。母親の他を包むようなあの優しさは、竜としての素質を磨かなかったからに他ならない。
けれど物心ついてのち、山中でその教育を施されても、サディアナは曲がることはなかった。その強さと能力の故、高慢になりかねぬという竜の気質を、ことごとく彼は破ってくれたのだ。
――サミュエル・ハンス。王の実弟で、次期の丞相とまで謂われていた男。
定期的なカランヌの訪問を受けても、決してサディアナには会わせず、生活費さえ受け取ることはなかったという。山で狩りをし生計を立て、男手で立派に少女を育て上げた。
愛した女性の子を愛することができるのは、どんなに幸せなことだったろう。
「……良い父親だったのですね」
ひっそりと呟いた言葉を虚空に向けて、スリサファンは微笑んだ。