055 王喰い
ジルヤンタータは慌てて受け身を取りながら、砂の上を転がった。肌を焼くような砂の温度と、ヴェールがずれて降りかかる太陽の強い日差しに、意識がぐっと遠のいていく。
「……うっ、」
うつ伏せになった身体をじりじりと起こして、砂を握る。伝わる掌の熱さに、霞んでいた意識が戻ってくる。
「一体なにが、」
ジルヤンタータの視線の先に映ったのは、あまりにも唐突に開けた青の空。そして空をすっぱりと区切る、黄色い砂の大地だった。
「あれは……なに」
逆光を浴びているため、並ぶ影をしっかりと見ることができない。目を強く細めて見晴らして、ジルヤンタータは更に顔を顰める。
そこに対峙していたのは、一頭の白い虎とイクパル帝国皇帝だった。
あれほど濃密に漂っていた黄砂の嵐が、幻が消えたように無くなっている。まさか、嵐はあの獣が連れてきたとでもいうのだろうか。
虎の白い体躯は、人間の大人の倍はある。威嚇するように喉を鳴らし、じりじりと皇帝に近づいていくたび、足元に黄色い埃が舞った。
砂漠に棲む魔物――タァインは、皇帝を見下ろし牙を剥いて、ひとつ吼えた。
ジルヤンタータは微かに顔を歪め、避けるように目を瞑った。ここで彼が死んでくれれば……「敵」が一つ減ることになる。イクパルという名の国の、現統治者。代わりはすぐに起つのだろうが、主を失って混乱が起きぬ国などない。〝我がメルトロー〟に、介入の余地が広がる……。
ジルヤンタータは小さく息を吐いて、無理矢理に皇帝から目を反らす。人の肉が切り裂かれて散り散りになる様など、好んで見る趣味はない。それよりも、
「――様、」
視線を巡らせながら、自らが本来守らねばならぬ人の姿を捜す。砂混じりの嵐が去ったと思えば、今度は灼熱の太陽だ。頭を射すその暑さに顔を歪めて、乱れていたヴェールを被りなおした。
「……?」
すっと、砂の混じらぬ透明な風が走ったのを頬に感じて、ジルヤンタータは瞠目した。
「サ、」
駆け抜けたのは風ではなく、命を案じた〝その人〟。
皇帝に喰いかかろうとするタァインに、走り寄る少女の背中だった。
「陛下!!」
呼び声とともに彼女の身体が翻り、その手に握られていた短刀がタァインの口中からはみ出た牙を制する。風が通り抜けたと感じるような、ほんの一瞬の出来事だった。
ジルヤンタータはその光景を惚けた様に見つめて、口を開ける。
タァインの体躯は、どう見ても立ち向かう少女の三倍以上。白くしなやかな毛皮がわらわらと総毛立ち、自分の牙を止めた少女の手元に怒りを向けている。
ぱきん、と音を立て、その短刀が役目を果たさず地に落ちるまで、さしたる時間はかからなかった。
短刀を噛み砕いたままタァインはニ、三顔を激しく振ると、少女より半身ほど後ろに下がる。
折れた短刀しか持たぬというのに、あの娘はなんと大きく動くのだろう。下がった虎を追いかけて、ぱっと身を縮めたかと思うと、次には虎の真横にいて折れたそれを振りかざしている。
虎が身をひねり、彼女の腕に喰らい付こうと口を開けるが、それを僅かな動きで避けて横面を蹴りつけた。よろけた虎がふらふらと横にずれていくのを静かに見つめながら、右手の短刀を逆手に持ち代える。
虎が吠えるのと、彼女が吼えるのと、それはほぼ同時だった。
同じような唸りをあげて、両者が一度に跳びかかる――、
「駄目!!! サディアナ様!!」
しまった、と思う。
叫んでしまってから、ジルヤンタータは口元を押さえた。
自分の名が〝スリサファン〟だということも、その女が彼女の祖国メルトローに属しているということも、乳母となるはずだったことも、彼女――サディアナは知らないはずだった。
何ということを。呼び声に一瞬だけ動きを止めたサディアナの瞳は、驚きのままに見開かれ、
「危ない――!」
その一瞬が、彼女に隙を与えた。
タァインの牙が、サディアナのわき腹にざくりと深く突き刺さる。
「――!」
悲痛な呻きを上げて、彼女は噛み付く虎の額を押さえた。
鮮血が腹から何度もどっと溢れ出し、半身をあっという間に黒く染める。
「サディアナ……様!!」
喉の奥がひきつれて、ジルヤンタータは口元を押さえたまま砂の上に膝をついた。
ゆっくりと振り返る――少女の瞳は美しく光る湖水色。
ジルヤンタータは押さえた口元の奥で、驚きに息を呑む。
サディアナの頭を覆っていたターバンは、いつの間にか解けていた。ハレムの浴場で染めたはずの黒髪が、一瞬のうちに黄色く発光する。
「……陛下、」
身を挺してまで「敵の皇帝」を救った我が国メルトローの王女は、口の端からこぼれた血を吐き出して、堪えるように歯を食いしばった。
水気をあっという間に乾かす黄色の砂に、大量の血が吸われていく。相当な出血は、彼女の意識をいつ奪ってもおかしくなかった。
なのに、
「護衛は果たしました。お逃げください」
苦悶の表情とは真逆ともとれる冷静な声が、血に染まった唇から発せられる。
彼女の背に守られているくせ、皇帝はふっと哂った……ように見えた。ジルヤンタータの背筋を、戦慄に似たざわめきが走っていく。
「あの男……!!」
皇帝は湾刀を持っているではないか……! 腰に履いた湾刀に手すらかけずただ静かな目で少女をじっと見ているなど。
湧き上がった怒りに奥歯を噛み締めると、くぐもった音がごきりと鳴る。
あの男は何を見たいというのだ――!!
「サディ……タブラ=ラサ!! お逃げください、それ以上は!」
それ以上は「身体」がもたない。もし、皇帝が何らかの意図を持って動かないのなら尚のこと。無茶をして変化などしてしまえば、それこそ大変なことになる。最早自分が飛び込んで、身を挺してでも阻止せねば。
「ほっとけ」
立ち上がろうとしたジルヤンタータの肩に、がしりと誰かの手が乗せられる。
「シャルベーシャ殿! 今まで何を!」
腹の辺りを押さえた若者が、きつい眼差しをすっと細める。
「何って、見りゃわかんだろ」
気絶してたんだよ、と吐き出すように顔を歪めて、シャルベーシャは尚も立ち上がろうとするジルヤンタータの身体を押さえつける。
「わかりません――! 貴方こそがイクパル皇帝を護るべきではないのですか!! あんな小さな娘に舞台をとられて!」
「捨て身の献身なんざ、泣けるじゃねえか。俺はそこまで忠誠は誓っちゃいないんでね」
「それでも軍人ですか!!!」
ジルヤンタータの叫びに、シャルベーシャは短く鼻で笑った。
「ったく、ぎゃあぎゃあうるせぇな、」
「なんですって!」
黙れ、と短く言われて口を硬い手が塞ぐのを、避け損ねてジルヤンタータは身をよじった。しかしそれも、背後に回った彼のもう片腕に抑えられてしまう。
「……ぐ!」
「あいつがどんな魔物なのかは知らねえが。やる気になったのはいいことだ。――……見ていろ、あれは勝つぞ」
がしりと拘束されて、ジルヤンタータは再びサディアナ王女へと目線を向けた。シャルベーシャの言葉に半ば驚きを感じながら、その目をさらに見開いていく。
さきほど見えた黄色の光は無くなっていたが、染料のとれた真っ白なサディアナの姿が鮮血に濡れて半身を赤黒く染めていた。
喰らいついた虎はそのまま、まるで見えない力に抑えられるように微動だにせず、ただ唸りをあげている。その大きな顎を少しだけ横に捻るだけで、少女の腹を千切り切ることができるというのに。
サディアナは握っていた短刀の柄を振り下ろし、腹に刺さる牙の根元を力ずくで折り割った。
――グオオオオオ……、
悲痛な咆哮を上げて虎がよろけるのを見下ろして、折れた牙が刺さったままの、自らの腹を押さえる。牙を抜いてしまえば、おびただしい出血が命を奪っていた。いい判断に違いはないが、あの状況でそれをしてしまうなど……、
「どうしてそこまで……」
戦いの本能だろうか。竜は血を見ると、身体が湧いて仕方が無いのだと――聞いたことがある。しかしそこまでの献身や忠誠を、彼女が簡単に選ぶとはどうしても思えない。
――サディアナが誰かに心を預けたら、その時点で殺せ。男もろともな。
「へ……陛下、」
陛下……ノルティス陛下、わたくしは気づいてしまったのでしょうか……!
脳裏によぎった自分の使命が、ふっと唐突に思い出される。そんな、そんなはずがない。
「なぜ……助けにいかないのですか! シャルベーシャ殿! いくら本気になったとて、あの血では死んでしまう!」
口を塞いでいた手がいつの間にかはずされていたことに気づき、噛み付くようにシャルベーシャに怒鳴る。だがシャルベーシャは、こちらを見もせずに静かに呟いた。
「――あれが大の男、それも生まれ付いての戦闘部族を、十も潰した魔物だぜ」
「な……!!」
軽やかに笑った後、シャルベーシャは鋭い眼差しをサディアナの方へすっと向けた。
「タァインは同種で戦わない。てっきり俺はそうだと思ったんだが、」
小さな悲鳴が聞こえて目を移すと、サディアナが砂に膝をつくところだった。さすがにもう、限界だ。砂に伏せって自らの腕の皮を引き千切ろうとする姿を見つけて、ジルヤンタータは立ち上がった。
自らの皮を引き千切る――それはまぎれも無い、変化の兆候。
横のシャルベーシャを睨みつけて制し、その腰の湾刀を奪い抜く。
「わたくしとて、ただ見ているわけには参りません」
痺れを切らし、ジルヤンタータが走り出そうとした瞬間。
――ギャアオオオオウゥ……!!!!!
潰れたような虎の悲鳴が木霊して、―――大きな体躯が砂に転げた。
その毛皮に埋もれる額に長い湾刀が刺さっているのを見つけて、ジルヤンタータははっと息をのむ。
視線を横に動かすと、気を失った少女を横に抱き上げる皇帝の姿が、目に映った。