054 湧き上がる
「――馬に乗れ!」
シャルベーシャが叫ぶのが聞こえる。
砂のせいで黄色くなった視界に目を細めて、フェイリットは馬のたてがみに身をうずめた。
うねるような砂混じりの突風が、頬をしたたかに打ちつける。伏せた顔をわずかに上げると、空を覆う雲が黄色く濁って見えた。
「砂噛んだ」
小さく唸って、フェイリットは顔を顰める。口の中がじゃりじゃりする。
しきりに頬を叩く砂礫が、巻きつけたターバンの裾に跳ね返りぱちぱち音を立てていた。うっかり外そうものなら、砂で目が潰れてしまいそうだ。
馬同士のたずなを縦一列につなぎ鞍に跨った時には、すでに風の唸りがすぐ傍で聞こえていた。
シャルベーシャの号令があと一呼吸遅かったなら、馬上に乗れず大量の砂を浴びるところだっただろう。
馬を先頭から引くのはシャルベーシャに代わり、その後ろにバスクス帝、フェイリット、ジルヤンタータ、そして挟むように残りのマムルークたちの馬が連なっている。
方角を知るためのものは、もう何もない。すでに星は出ておらず、太陽は厚く垂れこむ雲の向こうに姿を潜めてしまった。あの風に巻かれてから、磁気もおかしくなっているのだ。
懐から方位磁石を取り出して、フェイリットは目を細めた。薄い硝子で覆われた細い針は、今や方角を示すことなくぐるぐると回っていた。これでは、右も左もわからない。
なのにあの号令から、シャルベーシャの進路は少しもずれることがなかった。青いターバンを目隠しのように顔にぐるぐると巻きつけて、一体どこで物を見ているのだろうかと思えてしまうほど、真っ直ぐに砂の上を行く。
目を守ってやるためにと、馬にも厚くて柔らかい布で目隠しを施してあった。たずなを引く人物を信頼しなければ、馬自身も駆けることはできないだろうに。
「……ザラナバルって、いったい何なのかしら」
ため息混じりに、フェイリットは吐き出す。アルマ山脈のふもと、黄砂の砂漠に暮らす古の民族――……特殊な才をもつその様は、なんだか〝竜の血〟に似ている気がする。
「分かるわけねぇだろ、もしかしたら俺らもヤンエの魔物だったりな――と、シャルベーシャ殿が仰っておりましたよ」
「ジルヤンタータ?」
「同じ質問を、先程わたくしも」
斜め後ろからジルヤンタータの声がする。はっと見やると、繋いだたずなのあそびを使って、交差するように彼女の馬の背が近づいていた。
「大丈夫でございますか、フェイリットさま。私の馬に乗り移ってもよろしいのですよ」
大声を出しているわけでもないのに、彼女の低めの声はこの風の中でもよく聞こえる。ろくにたずなも引けないフェイリットが、単騎で伏せったまましがみついている姿は、彼女の目にさぞかし危なげに映っただろう。
「大丈夫。たずなは繋いであるもの」
フェイリットが答えると、
「左様でございますか」
なんとなく残念そうに、ジルヤンタータは頷いた。
「くれぐれも振り落とされないようになさいませ。ここまで視界が悪くては、落ちたら最後、馬の脚に蹴られてしまいます。万一なにかございましたら、すぐに私をお呼びになることですよ」
思わず笑ってしまってから、フェイリットは「ありがとう」と微笑んだ。
ハレムでの夜からだろうか。彼女がまるで母のように接してくれるので、なんだかくすぐったい気持ちになる。男手で育てられたために、こういう風に心配されることは今までなかったのだ。
――サミュンも心配性だったのは同じだけど。
フェイリットは再び馬に身を寄せて、振り落とされぬようしがみつく。
馬の匂いなんてずっと嗅いだことはなかった。けれど、不思議と落ち着く匂いがするものだ。お日さまに長い間照らされた干し藁のような。
サミュンは、どうして馬術を教えてくれなかったのだろうか。メルトローの貴族は皆、騎馬より馬車に乗る。必要が無いからと言われればそれまでだ。けれど自分に求められているものなど、そういった雅やかなものではなかったはず。
王の隣に立ち、かれを支え戦場をも無尽に駆ける――それがサミュンの育てたものだ。
ヒトのように育てられた、ヒトにはなれないもの。
「……そうだわ」
巻いていた薄布の青いターバンをニ、三度ほぐし、顔の周りに巻きつける。薄いから、少しだけ鼻に隙間をつくれば呼吸はできる。そうして目を閉じ、しがみついていた馬の背から身を起こして、フェイリットは静かに意識を張り巡らせた。
――……やっぱり、感じる。
うなじや肩や額、つながる背骨のひとつひとつ……意識の断片が、まるで触角のようにのびていく。
砂を踏みしめる蹄の音、馬の吐息と人の吐息。はためくローブの音も、みんな違う。
シャルベーシャのように、進む方角がどちらへ向いているのかはわからない。けれどそこに誰が居て、何があるのか、しっかりと感じられた。
「あれ」
一、二、三、四……と試しに馬の数と人の数を数えて、フェイリットは首を傾げた。人と、馬の数が合わない。
「ジルヤンタータ?」
振り返って目を開いても、遮る砂のせいで彼女の姿は見えない。けれど、微かに感じる血の匂い。これはあきらかに、事態の異常さを示している。
――気が付かなかった。
「ジルヤンタータ! ……どうしよう。砂で血の匂いも声も消えてるんだ」
〝空〟の馬が五頭。自分の感覚が正しいならば、ジルヤンタータが乗る馬から後ろにいるマムルークたちは〝馬上にいない〟。
追っ手だろうか? けれど、殺気も気配も全くない。
砂風の凄まじさで声が聞こえないから、シャルベーシャに「止まって」と伝えることもできない。
フェイリットは思い切って馬の背から身を乗り出すと、ジルヤンタータの乗っている馬に繋がるたずなを掴んだ。手繰りながら引き寄せていくと、馬の頭に手が触れる。
「……いい子だから、じっとしててね」
馬の首筋に手をあててニ、三度さすると、たずなに手をかけ、鞍があるだろう場所めがけて飛び移った。後ろ向きに鞍へ腰を下ろし、落ちないように態勢を整えて、フェイリットは手探りでジルヤンタータの体を探す。
「ジルヤンタータ!」
ジルヤンタータは、ぶら下がるような形で鞍の向こうへ仰け反っていた。足が鐙にしっかりとかかっていなかったら、今頃振り落とされて馬上にはいなかったはず。
幸運に感謝しながら、ジルヤンタータの体をずるずると引き起こし、その頬に手をあてる。
「ジルヤンタータ!」
「サ……フェイリットさま」
彼女の顔を覗き込んで、限られた視界のなか、顔色を確認する。顔色は悪くない。怪我を負っているのは間違いないが、それが命に関わることはないだろう。
「何があったの?!」
「……申し訳ございません、気を失っておりました」
ぐっと自ら体を起こして、ジルヤンタータは支えていたフェイリットの腕を握る。起き上がったその顔は、案外厳しく歪んでいた。
「分かりますか、」
険しい顔で囁いたジルヤンタータに、フェイリットは目を開く。
「え、」
「足音です」
「足音……」
「一瞬でした。今も、併走しています」
告げられた存在に一瞬だけ眉をひそめて、フェイリットは頷いた。
――追っ手だ。
「殺気は無い、けどこの足音……とりあえずシャルベーシャに伝えて馬を」
フェイリットの言葉を聞きながらも、心なしか視線を横に向けてジルヤンタータは首を振る。
「馬は止めるべきではございません」
「でも、そしたらマムルークたちは?!」
負傷し落馬したマムルークたちは、恐らくここより遥か後方に置き去りにされているはず。この砂漠の中では、生身の人間が放り出されて生きていられる保証はない。
「彼らは言わば鳥。生きていれば自分たちだけでも砂漠を脱することができますでしょう。今は、ご自分の安全のみを第一にお考え下さいませ」
フェイリットは曖昧に頷きながら、脇腹のあたりに下げた短剣の柄に指先を乗せた。〝ご自分の安全のみ〟を〝第一に〟と言われたことが、なぜか腑に落ちない。
本来なら「第一に陛下の安全を」と言うべきではないのだろうか。
―――考えすぎだ…。彼女は純粋に、心配してくれているのだ。
「ジルヤンタータ。この馬のたずなを切るから、前の馬に移れる?」
「……たずなを? わかりました」
ジルヤンタータを前に移してから、フェイリットは腰の後ろに吊っていた短剣をさっと抜きさる。前の馬のたずなとを繋ぐ縄に刃先を向けて、振り下ろした。
縄が切れる――そのほんのわずかな一瞬だった。視界の隅に、白いものが写り込む。
「なに――?!」
フェイリットが身構えた頃にはすでに、後ろの馬たちの悲鳴のような嘶きが耳に届いていた。嘶きのすぐあと、なし崩しに倒れていく馬の影。真っ白な虎が、馬の脚に食らいついて引きずっている。
「タァイン!!」
砂漠に棲まうという白い虎。人を襲うことは滅多に無く、それどころか「幻」とも言われるほど、その姿を見かけた者は少ないと聞く。
そのタァインが、まさか襲ってきている?
自分の身体が宙に放られたことに気づくまで、フェイリットは唖然とするしかなかった。
熱い砂地に身体を叩きつけられ、フェイリットは歯を食いしばる。転がりながら衝撃を和らげ身を起こすと、見る間もなくその目を大きく開いた。
視界は、まるで嘘のようにくっきりと開けていた。あれほど凄まじかった砂風も、一瞬のうちに消えて無くなっている。
随分と弾き飛ばされたのだろう。累々と転がる馬がかなり遠くに見えている。ジルヤンタータがその一頭のそばで気を失っているのを確認して、フェイリットはほっとしていた。
シャルベーシャもジルヤンタータとあまり変わらぬあたりに倒れていて、ちょうど半身を起こしたところだ。だがやはり、他の五人のマムルークたちの姿は見えない。あの時いないと感じたのは、気のせいではなかったのだ。生きていてくれればいいが。
そのまま前方まで馬を目で追っていって、ふと気づく。
「陛下――!」
〝それ〟を見た刹那、身体の底から血が沸き上がった。
タァインに組み敷かれ、今にも喉笛を噛み切られようとしている、バスクス帝の姿を。