051 瘢痕
「整ったか」
待っていると、玉座の向こう、滅紫の幕を払い退けバスクス帝が姿を見せる。そこへ座ることなく段を降り始めるかれの姿を見上げながら、ウズは床に膝をついた。
イクパルの玉座は北方の文化とは異なり、椅子ではない。爪先から踵まで、ようやく入るほどの幅の薄い階段が八段、遠目に眺めると台形の形をして並んでおり、その最上に金糸と銀糸を織り込んだ紅の絨毯が敷かれ、皇帝はそこに直接座る。傍らに黒く光沢のある肘掛がひとつあるだけで、背を預けるようなものは置かれていない。
「抜かりなく」
――四公王を結託させ〝帝位の簒奪を謀らせる〟。
企みが成功するとはかぎらない。ただ準備なら、もうずっと前から行なってきた。彼らに正面から「皇帝を殺す」と宣言させるための準備を。そうして遺された者たちはようやく「動く」ことができる。八年前の皇族殺し、無実の罪での投獄、延々と続く簒奪の策謀を暴くことが。
――死んで帝国を建て直すなど、俺には向かん役だな。…美徳すぎる。
……汚臭の混じるあの暗い地下、鉄格子の向こうで暗い嘲笑を浮かべた男の顔を、ウズは未だに覚えている。
「バッソス公はあれで抜かりのない男。おそらくは何も無いということは有得ませんので、どうぞご配慮を」
皇帝は、自国を侵す戦争でもなければ、直轄領を離れることを決してしない。しかし例外として行う公国訪問が二つあった。一つは後継者となる皇子の立太子の儀式を、各公国にて披露するため。形式上、「皇帝」は四公王の承認がなければ帝国の中心に座することは叶わない。要するにその先触れとして、〝次の皇帝となる息子を宜しく〟と各公国に触れ回るのが目的だ。
そしてもう一つが、その皇太子を生む可能性のある妾妃の披露目。理由は前者と加えて、皇后として起つ可能性のある者が多いことにある。
共同統治者とも呼ばれる地位は、帝国にとって栄華ある女の頂点。別称通り、有事の際は皇帝と代わって政治を執ることもできる。
そのために皇帝がギョズデ・ジャーリヤを〝披露目〟したいともなれば、公国の王たちにとっては滅多にない光栄となるのだ。
内密に、しかも比較的国力の弱いバッソス公国にだけ披露目を行うと申せば、当然裏があるものと子供でも判別がつくだろうが。
「わかっている。バッソスが他の三公国に義理立てするなら、皇帝は道中人知れず死んでいた、というのが良策。お前の言う配慮とは、首の繋がったままここへ戻れというだけだろう」
「ええ」
「言われずとも、いざという時の為この首は大事にとっておくよ」
鼻で哂って背を向け、再び玉座へ上っていく姿を静かに見上げる。
――この帝国の存亡に命を賭すなら、貴殿をここから逃がして差し上げます。
――ならば俺を出して殺すがいい……どんなことでも、ここで死ぬよりはマシだ。
皆が皆、罪を負っている。この自分も例外ではないと心中に噛み締めながら、ウズは皇帝の陰りのある背に心から頭を下げ退室した。
……誰でも振りかざすことのできた正義は、とうの昔に失われた。
* * *
鼻先をくすぐるいつもとは違う香りに、フェイリットは目を覚ました。
「乳香……」
自分が今いる場所を思い出して、納得する。乳香を使う人物は知っている限りバスクス帝しかいない。
背中を受けとめる、柔らかな寝台から身を起こして周囲を見やる。けれど寝台はもちろん、光沢のある飴色の寝椅子にもかれの姿は見当たらなかった。
「もう朝なのかしら」
気配に敏いはずの自分なら、寝台に別の温もりがあれば目を覚ますはずだった。けれど目覚めた記憶は、今をおいて他にない。
フェイリットは寝台から降りると、足音を立てぬように歩いて仕切りの幕を潜り出た。眠い目をこすりながら眺めると、玉座に座る皇帝の背中が見える。捲り上げた滅紫色の垂れ幕が、後ろのほうでばさりと戻る音がした。
ウズもそうだったが、バスクス帝の近辺にも小姓の姿を見ない。もちろん皇帝宮には多数の小姓たちが働いているのは身を以て知っているが、直接関わって彼の世話をするような、そういった近習の姿が見当たらないのだ。普通なら垂れ幕の側に小姓が二人ほど跪いて、主の移動を助けるのに。
「起きたか。まだ夜明けまで時間はあるぞ」
「……陛下はお休みにならないんですか?」
「休んでいた。お前に起こされたが」
厚手の絨毯が敷かれた玉座に胡坐を組んで、肘掛にもたれている姿。ぐっすり寝ていたようにはあまり見えない。まさか座ったまま寝ているなんて。
「いえ、寝台でお休みにならないんですか、っていう意味だったんですけど」
バスクス帝はフェイリットが寝台に寝て居るからといって、遠慮するような人物ではないはずだ。
「抱かれたいのか?」
鋭い黒眼が細められて〝笑み〟をつくる。フェイリットは頭に入りこんだかれの言葉を吟味してから、慌てたようにあとじさった。
「は?!!」
「女を抱く以外に寝台を使わない」
そういえば……とフェイリットは眉根を寄せる。ウズの執務室で彼を見かけたときも、椅子に凭れて寝ていたような気がする。
「夢見が悪くてな」
「こ、怖い夢でもみるんですか」
面食らったような顔をしたあと、喉奥でくつくつと笑い始める。
「ああ。お前も見たいか」
「え、って何を」
「着替える。手伝ってくれるか」
ぱっと立ち上がり、滅紫の垂れ幕を上げながら、その途中でバスクス帝が振り返る。
「……え、わたしですか?」
「お前以外に誰がいる」
「そうなんですけど……」
皇帝は身辺に小姓を置かない。着替えなど、さして手伝わずとも自分でできるはずなのに。
訝しみながらも、フェイリットは言われたとおり衣装箱から旅支度用の衣装からローブまでを取り出した。
「失礼します」
バスクス帝の背側に回り込み、前に結び目のある腰帯を後ろからほどく。帯を引く自らの手が震えているのに気づいて、フェイリットは眉をひそめた。
焚きしめられた乳香の香りが、するすると下ろした衣装から鼻に流れ込んでくる。手が震えるのは、きっとこの香りのせいなのだ。腰帯を解いて、背伸びをして衣装を引き下ろす。この衣装の向こうには、大きな、引き締まった褐色の背中が現れる……のだとフェイリットは思っていた。
黒に近い滅紫色の衣装が、まるで時をとめたかのようにゆっくりと手の中に落ちてくる。
「あ……」
ふっと皮肉な笑いを口の端に乗せ、バスクス帝は横顔を向けて言葉を失ったフェイリットを見下ろす。
そこにあったのは、予想だにしなかった、赤黒い傷痕だった。
「名誉の負傷、とでも言えば満足か」
名誉の、すなわち戦争による闘いの〝傷痕〟。そう聞いて、フェイリットは思わず表情を固める。確かにイクパルは軍事国家で、鎖国こそしてはいるものの公国どうしの小競り合いは絶えない。けれど……、
……――これは違う。
背中に走る禍々しい傷痕は、刀剣によるものとは考えにくい。自分も剣を握っていたから、よくわかる。鋭利な刃物で斬られた跡は、こんなふうに醜く赤く腫れあがり、背をのたうったりはしない。
何十もの蚯蚓腫れが交差し重なり、もはや背中に正常な皮膚は見つけられなかった。瞳目してしまうほど凄惨な光景に、フェイリットは脱がせた着衣を持ったまま押し黙る。
「鞭……」
思い当たるものといえば、それしかなかった。罪人に対し行われる懲罰。けれど鞭叩きともなれば、最下層の階級の罪人だけのはずだ。
メルトローの古い寺院で、見習いの教育に鞭を使うと聞いたことがあったが、それも今となっては珍しい。どこの国を探しても、もう罪人以外に鞭を使う国は、残されていないはずだった。
「監獄に居た。一国の皇族が五年にも渡り投獄され、腐った飯を啜っていたという馬鹿げた話を、お前は聞いたことがなかろう」
傷だらけの背中を見上げたまま瞳目を続けていると、ふいに思い至る。
闇色の鋭い瞳……そうか――この人の闇は、これなのか。そしてそれを「見たいか」と問うたのだ。
フェイリットは膿んで盛上がったまま治ったような傷跡に、恐る恐る指を伸ばす。思っていたよりも固い感触に、静かに目を閉じた。
「……痛みますか、まだ」
傷痕は、死ぬまで心を苛む。忘れたと、癒えたと一度は思いはしても、再びその痕を目にするたび、それを負った時のことを少なからず思い出してしまうものだ。顔に大きな傷を負い片目を失ったサミュンでさえも、滅多に鏡を覗くことは無かった。
バスクス帝の身体を這う瘢痕は、着衣を着るとちょうど隠れるところばかりに限られている。誰に打たれたのかは定かではないが、きっと、皇族であることを知っていて尚、露見せぬようにととられた手口に違いない。そしてここまでの痕ならば、完治しても疼くような痛みからは、ずっと逃れられない。
フェイリットは背に合わせていた手の平をどけると、瞑っていた目を開いた。
「陛下、じっとしててくださいね」
かれの背に向き合ったまま、フェイリットは自らの手の平を噛んだ。程なくして、その手の上にじわじわと血が溜まっていく。血を見ると、どうしても変化の苦痛を思い出す。けれど、今はそれほど怖くはなかった。
手の平に浮いた血を、ゆっくりとバスクス帝の背中に撫で付けていく。寝ている間に疼くだろう痛みは、これで和らぐはずだった。自分の血に隠されている効果をすべて熟知しているわけではなかったが、こういう小さなことに使えることは、サミュンに昔から教わっている。
塗り広げた血は、彼の背にゆっくりと消えていく。
「お前――何をした?」
驚いたような表情で、バスクス帝が振り返る。慌てて掌につけた傷口をもう片方の手で止血して、フェイリットは首を振った。
「よく眠れるおまじないです。試しに寝てみてください陛下。うなされているようでしたら、側についてすぐに起こしますから」
「……血か」
ふっと目線をフェイリットの手元に寄越して、訝しげな顔をする。はっとして見やると、押さえていた手からぽたりと血が滴り落ちた。
「あの、何でもないです、これは…、」
後ろ手に隠そうとしたところを掴まれて、引き上げられる。
「血でするまじないとは」
複雑な顔をした後に、バスクス帝は血の浮かぶフェイリットの手の平に唇をつけた。
「うわわ、やめ」
「止めろだと? 余計なことを」
はっと気づくと、薄い布が手にきつく巻かれてあった。止血してくれたのだと察して、フェイリットはバスクス帝の顔を恐る恐る見やる。
「私はもう充分に休んだ。心配しなくともいい」
手の平が熱い。まさか血を舐められて、自分のほうが手当てされるとは思わなかった。
「……あ、れ?」
――自分は今、何と……。血を〝舐められて〟と思わなかったか。
「へ! 陛下! 大丈夫ですか? 平気ですか? 苦しいとか痛いとか寒いとか辛いとか…!!」
一度だけサミュンから聞いたことがあったのだ。「竜は血で契約をする」と。では、今のこれは、今のは……もしかしたら契約になってしまうのかもしれない。竜の血は「毒」。本来ならば、一滴でさえ人間を死に至らしめる作用さえ持っている。どちらにせよ、大変なことに…。
「……フェイリット」
名前を呼ばれて、はっとする。いつの間にか寝台の上で、バスクス帝に馬乗りになってかれの襟首を揺さぶっていた。
「な、……なんとも、ないですか?」
「ああ」
「どこも? 息が苦しいとか、ないですか?」
「ああ」
「ち、力がみなぎってくる! とかは…」
「ない。何を言ってる」
――では、何事もなかったということだ。
ほっと息を吐き出しながら、フェイリットは肩を下ろす。
危うく大変なことをしでかすところだった……。これからは、自分の怪我にはいっそう注意していかなければならない。間違って血を含ませて、死に至らしめるようなことがあったら…、
「降りるか、そのまま衣装を脱ぐか、どちらにするんだ?」
ぱっと腕を掴まれて、驚くほど近くで見つめられる。自分の考えで今まで手一杯だったために、フェイリットは暫く目を瞬かせた。
「ああああ、ごめんなさい!」
寝台の上に大の男の人を押し倒して馬乗りになるなんて。必死だったとはいえ、恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい…フェイリットは慌てて寝台から滑り降り、バスクス帝の目前に伏礼をする。
「向こうに控えてますので、お休みくださいね! きっと効きますから…!」
彼の顔は見ることなく、逃げるようにしてフェイリットは室を後にした。




