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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
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048 甘菓子

 鏡の前に立ったまま、フェイリットはくるくると着せ替えられていた。


 いつの間に運び込んだのか、部屋で見たことのある衣装箱が鏡の横にどっしりと備えつけてある。ジルヤンタータはそこから衣装をはじめ、胸や腕につける貴石の飾り、首もとと項につける香油、髪飾りからヴェールにいたるまでのすべてを取り出して、フェイリットの体に飾り付けていった。


「……お呼びしにいくまで、さきほどのお部屋でお待ち下さい」

 ジルヤンタータの手がぴたりと止まり、彼女の漆黒の瞳が鏡越しに細められる。どうやら着付けは終わったらしい。


 フェイリットは改めて鏡に映る自分を眺め、なんとも言えぬ気持ちになった。

 衣装は目の覚めるような紺碧。黒い肌、黒い髪に薄い水色の瞳――紺碧の衣装はそれらにうまく馴染んでいる。色合いまで計算して選んだのだろうと、一目でわかるほど。


 控えめに胸を覆う布は、間をあけた腰元にはゆったりと襞をつけ、足首までふわりと垂れている。光の具合で肌が透けてしまうほどに薄いそれ、大浴場で裸になるよりも羞恥心を沸き上がらせた。


 なにしろ腹部は丸見えで、歩けば大きく入った切れ込みが太腿を露わにする。小姓衣でさえ初めは露出の多さに驚いたというのに。これはまるきり裸としか思えない。

 しゃらしゃらと小気味よい音をたてる金輪を腕にはめ、臍のちょうど下あたりには琥珀色の透明な貴石を連ねた飾りが、ぐるりと三周にも巡っていた。


 「王女」に生まれていながら悲しいことだが、こんなにも貴重なものをつけたのは初めてだった。高価なもの……といったら、始終暖炉の火に炙られていた薬鍋――あれが〝うち〟で、一番値が張ったはず。そんなことを思い出せるくらい、平民としては当たり前の、けれど王侯貴族にしたら貧しすぎる生活を送ってきた。


「ヴェールを被せるので、御髪(おぐし)はそのままに致しますよ」

 ジルヤンタータは自らの腕にかるく掛けていた、てらてらと艶やかな黒のヴェールを取り出す。

 頭に被せられるのを見ると、ただの黒い布ではなかった。金糸で細かく縁取りまでされている布だ。見えていた顔は黒のヴェールでぼんやりと隠され、鏡ごしでは余計に誰だかわからなくなる。


「このまま向かうの?」

 皇帝陛下のところに。時間帯は紛れもなく朝だが、一応は〝覚悟〟もしなくてはならないのだろう。……着飾り、欲情的な衣装をまとわせて皇帝に会う――その先のことを考えたら、まるで自分が客前に出る娼婦のように思えた。

 ウズを信じないわけではないが……、自分はそのような扱いを受けることがないと思っていたい。


「いいえ、お呼びがかかるまでお待ちいただきますよ」

 部屋に戻って、フェイリットは「あっ」と声をあげた。――コンツェから貰った甘菓子を置いてきてしまったのだ。


  大浴場(ハマム)へ行く間はずっと持っていたのだが、衣装を脱いで湯気をまとわせて出てきたときには、その存在をすっかり忘れていた。脱衣をした部屋の卓あたりに、すっかり冷めてしんなりした甘菓子(チェクチェロ)の包み紙が乗っているに違いない。


「取ってこよう」

 呼びに来るまではじっとしているようにと、ジルヤンタータに言われていた。けれどせっかくもらったものを、一口も口にせず置き去るのは胸が痛む。

「タラシャにもあげようって決めたし……大丈夫」


 部屋の仕切り幕から顔を覗かせると、ジルヤンタータの姿も、他に控えているような侍女の気配も感じられない。脱け出して探し物を見つけるのには、恰好の時だろう。

 フェイリットは考えついた勢いのまま、ぱっと部屋を飛び出し、うろ覚えの大浴場へと廊下を小走りに向かった。



 この辺りだっただろうか。そんなことをあやふやながらも思いつつ、フェイリットが複雑に入り組む廊下を大浴場(ハマム)へ向けひたひた歩いていると、ふと覚えのある笑い声が聞こえてくる。


「タラシャ?」

 声は、間違いなくタラシャだった。優しくて静かな、綺麗なそれが続けざまに耳に届いて、フェイリットは目前の部屋に注視する。薄茶の垂れ幕が引かれていて、中までは見えない。

 タラシャの声が聞こえたということは、ここが彼女の部屋なのだろうか。


 フェイリットは大浴場(ハマム)へとたどりつくと、チェクチェロの包みを脱衣に使った籠の中から捜し当てた。

「よし、これで会える」

 甘菓子はただの口実にすぎなかった。それでも初めてできるかもしれない女友達に、心が浮き立つ。


「タラシャ、いるの?」

 彼女の部屋の前――楽しげな笑い声はすでにない。まさか大浴場へ駆けているあいだに出かけてしまった?

 その時――しん、とした廊下の静寂のなかに、ふとタラシャの悲鳴が混じったような気がして、フェイリットは眉をひそめる。


「タラシャ……?」

 悪いとは思うが、侍女がいないのだから仕方ない。悲鳴という尋常でないものに黙っていられず、フェイリットは自らその薄茶の垂れ幕をわずかに引き寄せた。

「……!」


 ――目にした光景に、垂れ幕を掴んでいた指の力が抜けていった。ふわり、と元に戻った薄茶の端整な織り布の向こうから「……誰だ」と低い〝男〟の声がとどろく。

 薄く透明な天蓋のかかる寝台で、〝折り重なる二つの影〟――いっぽうは、間違いなくタラシャだった。では、もうひとりは……? 思わぬものを見てしまい、フェイリットは自分の頬が燃えるように熱くなるのを感じた。


 落ち着け、落ち着け……今のは見なかったことに。早くこの場から立ち去って、なにごとも無かったように振る舞わなければ、と。

 ……けれど時も置かぬまま、目の前の垂れ幕がばっと乱雑に開かれる。


「誰だ」

 現れたその顔を見たとき、もうどうしたらいいのかわからなくなった。

 フェイリットはよたよたと後ずさり、腰が抜けたように床に尻もちをつく。

「だ、あ……あの」

 無言で見開かれる、褐色の肌に縁取られた黒い瞳。何度も忌々しいと罵ってきた〝男〟が〝皇帝〟のハレムで、驚きも隠さずこちらを見下ろし立っていた。


「ひっ!」

 起き上がれずにいるのを、助け起こそうとでもしたのだろうか。伸ばされた手を反射的に拒んで、フェイリットは危なげに立ち上がる。

「ごっ……ごめんなさい、本当に」

「――お前、」

 制止の声も振り切って、廊下を全力で走った。そのまま垂れ幕に飛び込むようにして自室に戻り、大きな息をひとつ吐く。


「びっくりした……」

 ――裸だった。もちろん何も纏っていないわけではなかったが、腰あたりに薄い布を巻いただけの姿は、直前まで何も着ていなかったことを、単純に連想させる。

「……まさかあの人が」

 タラシャの笑い声、悲鳴のような声、裸で出てきた男、男子禁制のハレム――。状況を交互に並び立てて、フェイリットは見る間もなく真っ赤になった。

「な、なんてことなの…!」

 部屋に入ると、頭を抱えて寝台に身を投げ出す。

「あいつが、イクパル皇帝だなんて!!!」

 口から出た叫びは、自分でも驚くほど怒気を孕んで苛立っていた。


 腹立たしいのと恥ずかしいので、顔がぼうぼう燃えている。

 これでは自分はただの間抜けではないか。友人を訪ねた先でその情事に出くわし、警戒もなく垂れ幕を引き寄せてしまうなんて。しっかりと目に焼きついた光景を、振り払うように頭を振ってため息をつく。

 山を降りるまで異性と手すら合わせたことのなかったフェイリットでも、子供ほどに無知ではない。

 わけのわからない汗と熱く燃える頬を持てあまして、寝台に突っ伏し唸りはじめる。


「知恵熱くらいでそうだわ。せっかくお菓子……そうだよ、チェクチェロ!」

 またも廊下に落としてきてしまった。とことん口に入るまでの運命がないらしい。菓子の存在を頭の隅から引っ張り出して、うんざりする。

「はあ、」


 もう寝てしまおう。

 あの様子なら〝皇帝陛下〟からお呼びがかかるのはもっとずっと後だ。あんな行為を目撃した後で、どういう顔をして向かえばいいのかわからないが……きっとあんなの(、、、、)の直後に、自分には同じことを要求しないはず。


 先日ウズに命じられて奴隷軍からシャルベーシャを引き入れたから、考えられるならそのあたりの仕事の話だ。

 結論づけて、フェイリットは寝台の上掛けの中に潜り込んだ。

 とっくに時刻は朝を迎えていたが、構いはしない。寝てしまえば、この混乱もすっきり忘れて清々しい気分になれるだろう。

 ジルヤンタータがせっかく着付けてくれた衣装がよれてしまうのも厭わずに、フェイリットは何度も寝返りをうって眠りについた。




 ジャーリヤ・タブラ=ラサ。どこかで自分を呼ぶ声が聞こえる。

 違う。わたしは、ジャーリヤでもタブラ=ラサでもサディアナでもない。フェイリットなのだと、声を荒げて叫ぼうとする。けれどのど奥からは情けない風がひゅうひゅう漏れ出るばかりで、試みは失敗に終わった。


「ジャーリヤ・タブラ=ラサ」

「ん……」

 ようやく瞼の裏に明るい光を感じて、フェイリットは自分が夢うつつを彷徨っていたことに気づく。

「ジルヤンタータ?」

「左様にございます」


 眩しいと感じた光は、ジルヤンタータの持つ燭台の灯だった。目の前にかざされて、思わず目を細めてしまう。

「お迎えにあがったのですよ。このお姿のままお眠りに?」

 渋味のある深い声色は、いつもよりどこか優しげだ。


 頷きながら寝台からすべり降りると、フェイリットは苦笑した。

 随分眠ってしまったに違いない。それでもまだ周囲が暗いということは、時刻は夜明けに近い頃合いだろう。

 今さら呼び出されたとして、身支度を整え直す時間が馬鹿らしくさえ思える。

「仕方のないお方ですね……」

 そう言いながら立ち上がったフェイリットの衣装のしわを、ぽんぽんと叩きはじめる。そのふとした仕草がまるで母が子にする労いにのように思えて、フェイリットは小さく笑った。


「ジルヤンタータ、お子さんいるでしょう」

「……ええ、おりますが。なぜ、」

「なんか、いそうだもの。じゃないとそんな優しくできない」


 子供を持つ女性の〝子供〟に対する姿勢。それは説明の付かぬ独特なもので、一言でいうなら優しさというより母性といったほうが、しっくりくるのかもしれない。

「確かにおりますが、産んだ子も育てるはずだった子も、この手から離れました。ですから育てたことはございません」


 〝産んだ子〟と〝育てるはずだった子〟――それが同一だと感じなかったのはなぜだろう。

「じゃあ……お子さん達は今……」

「最近顔を見ましたが、ぴんぴんしておりますよ。産んだ方の子など、まあよくもあのように図太くなれたものだと」

 苦笑混じりに告げるその顔に、陰りがないのを読み取って、フェイリットは微笑む。


「見てみたいわ、ジルヤンタータのお子さん」

 頭の中で、がっしりとした巨木のような青年――女性かもしれないが――の姿が思い浮かんで、なんだか笑ってしまった。彼女が母親なら、たしかに根っこの太い人物になれるはずだ。


「着替えましょうか、しわが取れませんので」

 ジルヤンタータははぐらかすように笑ってから、衣装のすそをつまみ、眉をわずかにひそめた。

「このままでいいわ」

「……それは。皇帝陛下の御前でございますよ」

「お願い。別に好かれたいとも思わないし、着飾っていっても無駄な気がするから」


 顔をしかめて苦々しく吐き出すフェイリットをじっと見て、何がおかしかったのか、急にジルヤンタータは声をあげて笑い始める。

「やはり――……」

「え?」

 何かを言いかけて、はたと口を噤んだジルヤンタータの顔を、まじまじと見る。


「いいえ、なんでも。参りましょうか、陛下は私室にいらっしゃいますので」

 どことなく嬉しそうなジルヤンタータを見て不思議に思いながらも、フェイリットはゆっくりと頷いた。





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