046 華やかな檻
深夜近くにティカティク亭を出たフェイリットは、コンツェの見送りを断って一人、皇帝宮への道のりを歩いていた。
両側に高くならぶ建物に切りとられて、晴れわたる夜空は長四角。けれどやはり美しく、あ然とするほどにきらきら光り輝いている。
こちらから見上げていると、その形はまるでちょうど天空に流れる川のよう。
その道の先、夜空にせり建つ赤い皇帝宮の向こうからは、ぼんやりと青く朝の光が立ち上りはじめていた。
「あれ、もう朝なんだ」
コンツェと二人ゆっくりと食事をして、酒を飲んで、潰れた。……最初のふたつはさして時間はかからなかったのだろうが、一体自分はどれだけの時間を寝て過ごしたのだろう。
フェイリットは視線を空と皇帝宮に向けたままで、ぼんやりと思う。
「…コンツェにお礼言ってない」
同じ小姓仲間のテギに、女であることを悟られそうになった。そんなところを救ってもらい、食事をごちそうになって、あげく酔って眠り込んだのに、何も言わず目覚めるまで付き添ってくれた。そしてお土産まで。
手の中の包み紙を見下ろして、まだほんのりと残る温かさにフェイリットは頬をゆるめる。
チェクチェロという、焼き菓子。皇帝宮の賄いではけして出ることのない城下の食べ物だ。棗の身を細かくくだいて、小麦の挽き粉と練り合わせ、炉火で直接焼き上げる、らしい。帰り際、初めて見る菓子に説明を加えてくれたイディンバの、言葉を思い出す。
「タラシャにもあげようかな」
結局会えずじまいだった彼女を、自分から訪ねてみよう。フェイリットは空に向けていた視線を、地上へと戻した。
そうしてようやく気づく。狭い路地の前方に、ジルヤンタータのかしずく姿があることを。
「も……もしかしてずっと居たの?」
ジルヤンタータが目前まで歩いてきて、軽く頭を下げるのを見つめながら、フェイリットは口を開ける。
「そのように申し上げたはずですが」
立ち上がり、当然のように首を縦にしてジルヤンタータは頷く。
「随分と長くお眠りのようでございましたね」
眠っていたのは屋上だ。この辺りの建物はみな等しく背がたかく、地上から見上げても屋上は覗けない。それを見知っているということは、どこか別の建物にわざわざ上って〝全部〟観ていたということだ。
――瞬間がよみがえる。あの口付けは……いったいどういう意味だったのだろう。決して強引にではなく、そっと引き寄せられた優しい腕。けれど驚くほど鮮明に、その唇の冷たさを覚えている。
「忘れないでいてほしい」
そう言ったコンツェの顔は、悲しいほどに痛みをこらえた色をしていた。その言葉とともにまた固く抱きしめられて、返事をし損ねてしまった。
忘れるわけがない。優しくて明るい彼の笑顔を。たった少し故郷へ帰るというだけなのに、どうしてそこまで苦しむのだろう。
「そろそろ戻ろうか」
彼の口が告げるまでそのまま、フェイリットはコンツェの腕の中で考えあぐねていた。
「コンツェ、」
「ん?」
「わたしがコンツェを忘れてしまうくらい、長くテナンに帰るの?」
「そんなに長くはない……けど、」
「けど……?」
「もう一度会ったとき、俺は俺でなくなってるかもしれない」
「え?」
聞き返してコンツェの顔を見上げると、困ったような笑みが浮かぶ。
「なんてな。そんなわけ、あるはずないか」
やんわりとはぐらかされて、横に並んだ彼に背中を優しく押される。先に降りろと、いう意味なのだろう。そう悟って、フェイリットは酒場へとつながる階段をゆっくりと降りはじめた。
「……大丈夫だよ。こんなに綺麗な星の夜を、忘れたりしないわ」
その道すがらふと小さく、フェイリットは零す。
コンツェを安心させたい。何を苦しんでいるのか、その深い場所まではわからないけれど。
それでも、自分が〝忘れない〟とはっきり言うことでどれだけ彼が救われることになるか、フェイリットは察していた。
「……ジャーリヤ・タブラ=ラサ」
「はっ、」
道端に立ち竦んで、ぼんやりと宙を見つめていたフェイリットは、ジルヤンタータの声に意識を戻す。
「あの」
フェイリットはなんと言ったらいいものか分からずに、振り返るジルヤンタータを、ただじっと見つめる。
どっしりと大地に根を張る、大樹のようなジルヤンタータ。その存在感は、立っているだけで圧倒されるほど。
暖かな風に流されて、彼女のアバヤの裾が、ひらひらと浮かぶように舞う。
見つめ続けるフェイリットから視線を避けるように、ジルヤンタータは足元の黄土を見下ろした。人が通り続け、砂埃もたたぬほどに踏み固められた土の路。
「……愛しては、なりませんよ。ジャーリヤ・タブラ=ラサ。あの青年も、たとえ皇帝陛下とて。あなた様に……妾妃に愛は禁物でございます。愛したなら最期――必ずや御身を滅ぼすことに」
ふと零したジルヤンタータの、その言葉の〝深さ〟に、フェイリットが気づくことはなかった。ただその真意が掴めず、首をわずかに傾げる。
言葉は間違いなく警告。なのにそれを言うジルヤンタータの表情は、どこか哀しげに見えた。咎めるというよりも、まるで苦痛をこらえているような。
サミュンが死んでからというもの、フェイリットの涙はすっかり止まってしまった。彼のことを思い出してさえ泣くことができないのだ。
愛は禁物だという以前に、フェイリットにはその気持ちがどういうものか、わからなくなっていた。
「……ジルヤンタータ、」
「さて、――帰りましょうか。やることがたくさん残っておりますよ」
どうして。フェイリットが次に言うであろうその問いを遮るように、ジルヤンタータは歩き始める。
*
まだ夜明けまでは二刻ほどもあろうか。帰ってきた後宮の北口で、フェイリットは顔を曇らせた。
赤い砂岩でできた皇帝宮の壁の下方に、ぽっかりとあけられた小さな扉。ハレムに通じるこの入口を使うのも、もう三度目だ。
がしゃん、がしゃん、と一つずつ外されていく鍵を眺めながら、その複雑な顔のままでフェイリットは苦笑した。
〝死の扉〟――愛妾が死してのみ出ることを許される門――であるというのに、こんなにも容易く行き来できているなんて。苦々しく思わずにはいられない。
いったいどれ程の女たちが、ここを生きて出たいと望み、その願いを死してのち叶えられたことだろうか。
本来ならば生きて出ることはけしてできない、華やかな檻。そのなかに今、自分たちは帰ろうとしている。
「お入りください」
ジルヤンタータに道を譲られて、フェイリットは素直に従う。小さな入口の手前に膝をついて、這うような姿勢で向こう側へとすり抜けた。
「眩し……」
夜が明け切らぬため、廊下には未だ、橙色の蝋燭が燦然と輝いていた。金に塗られた柱や梁に反射して、その光はなんとも幻想的な光景を生み出す。
やはり、綺麗だ。しみじみとそう実感しながらジルヤンタータを顧みると、
「このまま大浴場へ参りますよ」
思いもよらない言葉が返る。
「えっ…」
光るほど艶やかになる肌も、絹糸のようになめらかになる髪も、蒸すように熱い中で食べる氷菓子の甘さも――実のところ嫌いではない。
けれどまた三時間もかけて、体を磨かねばならないのだろうか。のぼせてふらふらになったあの具合の悪さは、できるなら思い出したくはなかった。
「夜明けには陛下のもとへ行くようにとの仰せが」
「は……」
驚きに目を丸くして、フェイリットはジルヤンタータを見やる。けれど彼女の固く強張った表情からは、もはやなにも読み取れなかった。
「陛下の……」
フェイリットの視線など意に介した様子もなく、ジルヤンタータは恭しく礼をとり、その額と目を伏せたまま続ける。
「ですからフェイリット、ハマムへ行き身を清め……妾妃タブラ=ラサへとお召し替え戴きますよ」