表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
47/174

046 華やかな檻


 深夜近くにティカティク亭を出たフェイリットは、コンツェの見送りを断って一人、皇帝宮への道のりを歩いていた。


 両側に高くならぶ建物に切りとられて、晴れわたる夜空は長四角。けれどやはり美しく、あ然とするほどにきらきら光り輝いている。

 こちらから見上げていると、その形はまるでちょうど天空に流れる川のよう。

 その道の先、夜空にせり建つ赤い皇帝宮の向こうからは、ぼんやりと青く朝の光が立ち上りはじめていた。


「あれ、もう朝なんだ」

 コンツェと二人ゆっくりと食事をして、酒を飲んで、潰れた。……最初のふたつはさして時間はかからなかったのだろうが、一体自分はどれだけの時間を寝て過ごしたのだろう。

 フェイリットは視線を空と皇帝宮に向けたままで、ぼんやりと思う。

「…コンツェにお礼言ってない」


 同じ小姓仲間のテギに、女であることを悟られそうになった。そんなところを救ってもらい、食事をごちそうになって、あげく酔って眠り込んだのに、何も言わず目覚めるまで付き添ってくれた。そしてお土産まで。


 手の中の包み紙を見下ろして、まだほんのりと残る温かさにフェイリットは頬をゆるめる。

 チェクチェロという、焼き菓子。皇帝宮の賄いではけして出ることのない城下の食べ物だ。棗の身を細かくくだいて、小麦の挽き粉と練り合わせ、炉火で直接焼き上げる、らしい。帰り際、初めて見る菓子に説明を加えてくれたイディンバの、言葉を思い出す。


「タラシャにもあげようかな」

 結局会えずじまいだった彼女を、自分から訪ねてみよう。フェイリットは空に向けていた視線を、地上へと戻した。

 そうしてようやく気づく。狭い路地の前方に、ジルヤンタータのかしずく姿があることを。

「も……もしかしてずっと居たの?」

 ジルヤンタータが目前まで歩いてきて、軽く頭を下げるのを見つめながら、フェイリットは口を開ける。


「そのように申し上げたはずですが」

 立ち上がり、当然のように首を縦にしてジルヤンタータは頷く。

「随分と長くお眠りのようでございましたね」

 眠っていたのは屋上だ。この辺りの建物はみな等しく背がたかく、地上から見上げても屋上は覗けない。それを見知っているということは、どこか別の建物にわざわざ上って〝全部〟観ていたということだ。


 ――瞬間がよみがえる。あの口付けは……いったいどういう意味だったのだろう。決して強引にではなく、そっと引き寄せられた優しい腕。けれど驚くほど鮮明に、その唇の冷たさを覚えている。


「忘れないでいてほしい」


 そう言ったコンツェの顔は、悲しいほどに痛みをこらえた色をしていた。その言葉とともにまた固く抱きしめられて、返事をし損ねてしまった。

 忘れるわけがない。優しくて明るい彼の笑顔を。たった少し故郷へ帰るというだけなのに、どうしてそこまで苦しむのだろう。


「そろそろ戻ろうか」

 彼の口が告げるまでそのまま、フェイリットはコンツェの腕の中で考えあぐねていた。

「コンツェ、」

「ん?」

「わたしがコンツェを忘れてしまうくらい、長くテナンに帰るの?」

「そんなに長くはない……けど、」

「けど……?」

「もう一度会ったとき、俺は俺でなくなってるかもしれない」

「え?」

 聞き返してコンツェの顔を見上げると、困ったような笑みが浮かぶ。


「なんてな。そんなわけ、あるはずないか」

 やんわりとはぐらかされて、横に並んだ彼に背中を優しく押される。先に降りろと、いう意味なのだろう。そう悟って、フェイリットは酒場へとつながる階段をゆっくりと降りはじめた。

「……大丈夫だよ。こんなに綺麗な星の夜を、忘れたりしないわ」

 その道すがらふと小さく、フェイリットは零す。


 コンツェを安心させたい。何を苦しんでいるのか、その深い場所まではわからないけれど。

 それでも、自分が〝忘れない〟とはっきり言うことでどれだけ彼が救われることになるか、フェイリットは察していた。


 「……ジャーリヤ・タブラ=ラサ」

「はっ、」

 道端に立ち竦んで、ぼんやりと宙を見つめていたフェイリットは、ジルヤンタータの声に意識を戻す。

「あの」

 フェイリットはなんと言ったらいいものか分からずに、振り返るジルヤンタータを、ただじっと見つめる。


 どっしりと大地に根を張る、大樹のようなジルヤンタータ。その存在感は、立っているだけで圧倒されるほど。

 暖かな風に流されて、彼女のアバヤの裾が、ひらひらと浮かぶように舞う。

 見つめ続けるフェイリットから視線を避けるように、ジルヤンタータは足元の黄土を見下ろした。人が通り続け、砂埃もたたぬほどに踏み固められた土の路。


「……愛しては、なりませんよ。ジャーリヤ・タブラ=ラサ。あの青年も、たとえ皇帝陛下とて。あなた様に……妾妃(ギョズデ・ジャーリヤ)に愛は禁物でございます。愛したなら最期――必ずや御身を滅ぼすことに」


 ふと零したジルヤンタータの、その言葉の〝深さ〟に、フェイリットが気づくことはなかった。ただその真意が掴めず、首をわずかに傾げる。

 言葉は間違いなく警告。なのにそれを言うジルヤンタータの表情は、どこか哀しげに見えた。咎めるというよりも、まるで苦痛をこらえているような。


 サミュンが死んでからというもの、フェイリットの涙はすっかり止まってしまった。彼のことを思い出してさえ泣くことができないのだ。

 愛は禁物だという以前に、フェイリットにはその気持ちがどういうものか、わからなくなっていた。


「……ジルヤンタータ、」

「さて、――帰りましょうか。やることがたくさん残っておりますよ」

 どうして。フェイリットが次に言うであろうその問いを遮るように、ジルヤンタータは歩き始める。




 まだ夜明けまでは二刻ほどもあろうか。帰ってきた後宮(ハレム)の北口で、フェイリットは顔を曇らせた。

 赤い砂岩でできた皇帝宮の壁の下方に、ぽっかりとあけられた小さな扉。ハレムに通じるこの入口を使うのも、もう三度目だ。

 がしゃん、がしゃん、と一つずつ外されていく鍵を眺めながら、その複雑な顔のままでフェイリットは苦笑した。


 〝死の扉〟――愛妾が死してのみ出ることを許される門――であるというのに、こんなにも容易く行き来できているなんて。苦々しく思わずにはいられない。

 いったいどれ程の女たちが、ここを生きて出たいと望み、その願いを死してのち叶えられたことだろうか。

 本来ならば生きて出ることはけしてできない、華やかな檻。そのなかに今、自分たちは帰ろうとしている。


「お入りください」

 ジルヤンタータに道を譲られて、フェイリットは素直に従う。小さな入口の手前に膝をついて、這うような姿勢で向こう側へとすり抜けた。

「眩し……」

 夜が明け切らぬため、廊下には未だ、橙色の蝋燭が燦然(さんぜん)と輝いていた。金に塗られた柱や梁に反射して、その光はなんとも幻想的な光景を生み出す。

 やはり、綺麗だ。しみじみとそう実感しながらジルヤンタータを顧みると、


「このまま大浴場(ハマム)へ参りますよ」

 思いもよらない言葉が返る。

「えっ…」


 光るほど艶やかになる肌も、絹糸のようになめらかになる髪も、蒸すように熱い中で食べる氷菓子の甘さも――実のところ嫌いではない。

 けれどまた三時間もかけて、体を磨かねばならないのだろうか。のぼせてふらふらになったあの具合の悪さは、できるなら思い出したくはなかった。


「夜明けには陛下のもとへ行くようにとの仰せが」

「は……」

 驚きに目を丸くして、フェイリットはジルヤンタータを見やる。けれど彼女の固く強張った表情からは、もはやなにも読み取れなかった。


陛下の(、、、)……」

 フェイリットの視線など意に介した様子もなく、ジルヤンタータは恭しく礼をとり、その額と目を伏せたまま続ける。


「ですからフェイリット(、、、、、、)、ハマムへ行き身を清め……妾妃(ギョズデ・ジャーリヤ)タブラ=ラサへとお召し替え戴きますよ」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


ブックマークや評価、ご感想など戴けますと
続けていく勇気になります^^

web拍手へのお返事はこちら
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ