040 海鳥のこえ
日もとっぷりと暮れて、藍色の夜が帝都を包む。
夏の身を焼くような日照りより、幾分やわらかくなった生暖かい風が、夜の帳をゆっくりと運んできていた。暦ではもう冬の季節だが、砂漠に近い帝都はまだまだ秋だ。アルマ山脈を越えてはるか北に降る、ふわふわと白く舞う雪は、残念ながらこの地に降り積もることはない。
コンツェは手に持っていた二枚の手紙を静かに握って、顔を曇らせていた。
手紙の送り元――テナンの街並みも、今ごろはやわらかな雪がうっすらと白く覆っていることだろう。
テナンは陸続きのこちらとは違い、北のメルトロー王国、やや離れて西のリマ王国、そしてイクパル帝国本土というように、三つの大陸に挟まれている小さな島国だ。距離でならイクパルよりもメルトローに近く、気候もまたメルトローの南部地域にとても似ている。夏はイクパル同様に熱い日射しを受けて乾燥し、冬はほんのわずかだけ雪を積もらせるのだ。そうして雪が降って海鳥が越冬に渡ってきたら、いつの間にか春が訪れている。
数えるにも足らぬ短い冬――それが五月も雪に閉ざされるメルトローとの、ささやかな冬の違いであった。あとは豊かな緑が芽吹き、柑橘類の果物が夏へと向けて実っていく。
テナン公国は砂漠と荒野ばかり広がるようなイクパルの中において、唯一緑のにおいを感じさせる国だ。
――海鳥が渡ってきたとなると、あちらはもう春も近いわけか。
〝手紙〟に書かれた内容を頭の中でもう一度反芻すると、コンツェは曇った眼差しを西の方角へと向けた。
「還らないわけには、いかなくなったな……」
受け取った二枚の手紙を、コンツェは小さく折りたたんで懐にしまった。
虫が鳴くひりひりとした声が、いつの間にか辺りが完全に闇に包まれたことを告げている。
自分とは遠く離れたところから、確実にこの身に火の粉がふりかかろうとしている。それを生む篝火の火が、今ひっそりと点されたのだと思うと、鉛のようにずしりとした重みが胸の奥に広がっていく。
コンツェは六つまで過ごした祖国を想いながら、いずれは天秤にかけねばならぬこの帝国の大地を、ぼんやりと眺めていた。
* * *
白塗りの窓枠をそっと上に持ち上げれば、つんと冷たい風が鼻をついて流れ込んだ。その冷たさが暖炉の火でぼうっとしていた頭を、ほどよく覚ましてくれる。窓向こうには真っ白な城下の町並みが広がり、そのまた向こうに、濃い色を湛えた海が続いている。もうじき日の入りの時刻だから、朱色の太陽で海は赤々と燃えることだろう。
「……メジーが飛んでるわ」
シアゼリタは窓をほんの少し開けたままにして、紺碧の色で染め抜いた厚手の窓掛けを引き寄せる。これなら、直接冷たい風が肌を刺すことはない。
ひらひらと、風を受けて揺らめく窓掛けを眺めて、彼女は微笑んだ。
「コンツ・エトワルト兄さまにもお見せしたいものだわ」
六つ離れた「兄」だったが、ほかの兄弟たちと比べたら随分と話しやすい人に数えられた。
幼い頃、外に出たいと泣いていた自分を、こっそり王の部屋の露台まで連れて行ってくれたのを思い出す。ここから見える景色は、テナンの中で最も美しい眺めなのだと。外に出るよりも、ここから地上を眺められることのほうが、遥かに貴重で責任の重いことなのだと諭しながら。
「わたくしにあんなことを言っておきながらエトワルト兄さまは、侍従たちの目をかいくぐるのがお得意だったわね……」
抜け出さぬよう万全の体制で見守っていても、いつの間にやらその小さな隙をついて城下に降りて、また戻ってきているような人だった。
おっとりしているのに、進み始めたら誰にも制御しきれえぬような熱さを持っている。恐らくは本人でさえ把握し切れていないような何かが、あの身体には眠っているのかもしれなかった。なにせ、あの才知に富んだと云われる三人の始祖たちの血を、あまさず引いているのだから無理もない。それがとても羨ましく、誇りでもあった。
「シアゼリタ」
無人だったはずの室内に、人の声が入り込む。
一瞬どきりとして、シアゼリタは窓枠から身を離した。
「どうなさいましたの」
半ば驚いた目を部屋の入り口へと向ける。
そこには踝までを長套で覆い、旅装を整えた一番目の兄王子――デーテンの姿があった。濃茶の髪はうなじのあたりできっちりと束ねられ、背筋を辿って垂れている。
先触れもなく妹の部屋を訪れることなどめったにしないお人なのに、一体どうしたものだろう。
シアゼリタはデーテンの前まで進んでいって、しとやかに頭を下げ膝を折った。
北国式のその親しげな挨拶に、デーテンは苦笑を返し、ささやかな遊びにつき合ってくれる。齢三十をゆうに越えていて、今年三人目の子供が産まれる予定らしい。あまり噂は流れてこないが、それなりに子煩悩に暮らしているのだと伝え聞いている。少し気難しいところがありはするものの、無口な次兄と比べれば随分と人当たりのいい性格をしているのを、シアゼリタは知っていた。
「急にメルトローの使者をお迎えすることになった。王都のあるリィネス港ではなく北の沿岸のボン・ハリ港にご到着の予定だ」
「では、ルホンデ市領へこれから?」
旅装のわけに納得して問うと、デーテンは頷いて、ふと周囲に目を配った。控えの侍従を気にしての行動なのだろう。
「ハネア・トルシ婦人もティリ・ヤローシテ婦人も私用で出かけています。一時ほどで戻りくるはずですから、しばらくは誰も」
「そうか……ならばよいのだ。私が急ぎ訪ね来たわけを話そう。シアゼリタ、実はお前に縁談の話があるのだ」
「縁談? ……それは喜ばしいことですわ」
去年の秋で十四になったから、そろそろではないかと思っていた。母は十三になったその日に王妃となったというから、少し遅いくらいだ。
けれどデーテンの険しい色を湛えた瞳を見て、首を傾げる。
人生が五十余年という短さのなか、婚姻は早い方がよいとされていた。格別変わったことでもなく、シアゼリタ自身覚悟はとうにできていること。未練がまったくないかというなら、嘘になるが……。それでも、喜ばれこそすれ、兄が浮かない顔をしなければならぬ理由がわからない。
「昨年よりいくつか候補が挙がっていたのはお前も承知のことだろう。私がこれからお迎えしに行くのは、そのひとり――メルトロー王国の手の御方だ」
「メルトロー?」
今度は本当に驚いて、シアゼリタは唇を振るわせた。
イクパル本土へ嫁ぐことになるとばかり思っていたのに……。出るはずの無いその名は、イクパルとは停戦中にある国のもの。婚姻を結ぶことは、ある種帝国本土への裏切りにもとれる行為。
「そのお相手というのが、かの国の丞相――我が国では宰相にあたる方だ」
国王ではないものの、国を動かす地位に就く者に嫁ぐことは大きな意味を持つ。立場的に下位となるだろうテナンからの迎えの使者が、〝第一王子〟であるのも、ようやく頷けた。
「わたくしは、その方と結婚することになるのですね?」
「ああ、いや……まだ確定事項ではないのだが。お前も心づもりをしておくがいい。敵国に嫁ぐとあらば、気苦労も多かろうからな」
「はい」
デーテンの顔を見上げて、シアゼリタは微笑んだ。
こうして心配してくれている、それだけで嬉しいものだ。どこへ嫁ぐことになろうとも、それは王族に生まれた者の定め。優しい兄弟たちに囲まれて、さしたる苦労も味わわずに済んでこられたのだから、今度は自分が頑張らねばなるまい。
「ボン・ハリまでは片道で二日近くかかる。――妻も子供たちもお前に会いたがっていたから、一度宮に来てくれると有難い」
シアゼリタは小さく笑って、頷いた。四日間、残していく妻子を気遣う心根の優しさが、伝わってくる。寂しがっている彼女たちに、顔を見せてやってほしいと。
「それは喜んで伺いますわ」
デーテンは小さな頃にしてくれていたように、シアゼリタの前髪を掻き分けて額に唇を寄せた。
「もうひとつ……」
「はい?」
去りかけた足をふととめて、デーテンが口を開く。
「気になっていることがある」
振り返りざま、肩を掴まれ引き寄せられる。先ほどとはうって変わった厳しい顔が、シアゼリタを見下ろしていた。
「第二王子は東のハインデ市領に、第三王子は王都にいるが急な病で一昨日から臥せっている。第四王子は西端のヘズ市領、第五王子はお前も知っての通り帝都だ。……我らの誰もが皆、最低四日は王宮に詰め寄れない事態になった」
「……どういう」
「王太子選定が、近々執り行われるらしいという話だ。我々が居ない期間を狙われたら――、もう防ぎようがない」
テナン国王はすでに高齢で、退位の準備も整えつつある。王太子の選定が近いことは、年が明ける前から囁かれていたことだった。そして、元老たちが誰を推すつもりでいるのかも。
「エトワルトは、お前に手紙を寄越していないのか。あいつは今、何をやっている」
「秋に誕生祝の手紙をいただいてからは、何も……。ですが、サテハージ兄さまのご病気はお風邪のようなものと伝え聞いていますわ。サテハージ兄さまだけでも、」
「サテハージが王太子に推挙されるならそれでいい。一度拒否したら再選定まで七日はかかるからな。だが、他の王子の推挙を否認するのに必要な王子たちの人数は総数の三分の一。つまり、最低でも一人以上は王子が出席していなくてはならない」
「では……、」
「謀られた。こんなにも都合よく、王子が揃って不在になるということはない。お前には言わずにおこうかと思ったが、この役目はお前が一番適している。シアゼリタ、エトワルトを呼び寄せろ。テナン公国はこのままでは、危ういところへ進んでいくことになる」
メルトロー王国との婚姻、そして皇帝に仇する王太子の選定……。
間に合うだろうか。翼の速い鷹を飛ばしても、帝都まではぎりぎりで一日。手紙を受け取りすぐに経ったとしても、よほどいい潮風にでも乗らぬかぎり、三日とかからずテナンへ辿り着くのは不可能な話だ。
肩に乗せられたデーテンの手のひらが、汗でじっとりと熱くなっている。シアゼリタは頷いて、急ぎ手紙を書くため、自らの卓へと駆け寄った。