035 砂塵の戦士
練兵場には、咽せるような熱さがとぐろを巻いて立ち昇っていた。
頭に巻いたターバンの切れ端が、強い風のせいで狂ったようにはためき、ばたばたと耳を鳴らす。
まぶたを容赦なく叩きつける砂粒に手をかざして、フェイリットはあちらこちらで鳴らされる剣戟の音を聞いていた。
「ヤンエの砂漠を越えるっていっても……無茶だわ」
砂漠越えに耐えうる小隊を借りてくるように。それがウズから受けた指令であった。
砂漠のど真ん中を、それも騎馬で越えるなんて……無謀でしかない。直線の距離で考えるなら、迂回するよりも遥かに短時間での横断が可能だが、言うなればその「直線横断」がまず不可能なのだ。
方位磁石も働かず、方角を知るのに頼もしい星図でさえ、砂風の強い夜はあてにできない。霧のような砂塵が視界を完全に覆ってしまうために。
逃亡者か、狂乱者か。余程の理由がない限り、普通の人間ならばまず足を踏み入れない。それがヤンエ砂漠だった。
「砂漠の民がこの中に居たらいいのに」
例外がないわけではない。命の保障を充分に持ち自在にヤンエを渡ることのできる〝砂漠の民〟――彼らは大昔から羊や山羊を飼い慣らし、移動しながら貿易の品を売買する。
彼らはイクパル建国の祖にもつながる古い部族だった。彼らは砂漠という特殊な環境に永い時間さらされたせいか、鳥のように自分たちの居る位置を正確に掴むことができると聞く。
ヤンエ砂漠に耐えうる小隊はおそらく、砂漠の民を含む小隊しかありえない。
「とは言っても、」
砂漠の民とは名ばかりで、彼らには一見してはっきりとわかる身体の特徴はない。どうやって捜すか――まさか「あなたはザラナバルですか?」などと聞いて歩くわけにもいかない。
練兵場には黄色い岩盤がいくつもむき出すような硬い砂地が広がり――その広大な土壌が、帝城の西側、軍轄の区域のほぼ半分をどっかりと占めているのだった。
盛り上がった岩盤のひとつに足場を置いていたフェイリットは、目的の人物を捜すために砂地へと降り立つ。ここで眺めていても、向こうからやって来るわけでもない。
久しぶりの「闘技」を目の当たりにして、ずいぶん長く楽しんでしまった。イクパル特有の三日月の形をした湾刀が、快い音を立ててぶつかり合い、ちり、と火花を散じる。その光景は壮絶でもあるはずなのに、身のうちに湧き上がるのは浮かれたような熱ばかりだ。
あれほど嫌だったサミュンとの剣稽古が、どうしようもなく懐かしい。
何度も何度も身体ごと飛ばされ、血と土でどろどろになりながら、それでも止めることは許されなかった。剣を握り、数え切れぬほど剥いた両手のひらは老人のように硬くなり、農民より堅固なたこがいくつもできて。
辛かった毎日のはずなのに、思い出すのはサミュンと戦った躍動ばかり。
あの大きな人は、誰よりも強かったから。
「宰相閣下の遣いで参りました。騎馬隊を一個小隊、お借りしたく」
フェイリットは片膝をついて、いかにも指揮官じみた男の前で頭を下げる。
「タイハーン少佐が向こうの丘にいらっしゃる。用事はそっちに伝えるんだな。……お前が宰相の遣いか? また貧弱なのを寄越したなァ」
男は湾刀を腰の鞘に収め、日に浅黒く焼けた顔を歪めた。フェイリットの頭から爪先までをしげしげと眺めて、そのまませせら笑う。
「ありがとうございます」
フェイリットは再び深々と頭を下げて、目の前から男の革の長靴が通り過ぎるのを見届けてから立ち上がった。
タイハーン少佐を見つけると、フェイリットは先ほどの男にしたのと同じく頭を下げる。
「タイハーン少佐閣下。宰相より一個小隊をお借りする命を受け、参りました」
本当に軍人かと疑うほど、でっぷりと張った腹が目の前にある。続く沈黙に耐えかねて視線をわずかに引き上げ、タイハーンのえらの目立つ顔を伺った。
「あの、ヤンエ砂漠を横断するために、一個小隊を…」
視線は鍛錬を続ける兵たちの方へ向いていて、一瞬、自分の存在に気づかぬのではと思ってしまう。だが、最初の一声をかける直前で一度目が合ったのだ。気づかぬはずがない。
「……ウズルダン・トスカルナか」
舌打ちとともに吐き出された言葉に、フェイリットは背筋を固める。明らかに嫌悪の含まれた言い振りだった。
「あの、」
「まあ、いい。シャルベーシャ!」
野太い声が怒号のごとく響き渡り、身を竦めていると、湾刀をぶつけ合う兵たちの間から一人の男が滑り出る。
黒々と日に焼けた顔に、琥珀の瞳が爛々と光る――他でもない先程タイハーン少佐の居場所を、フェイリットに指し示した男だった。
「なんですかねぇ」
不機嫌極まりない声で、しかし態度だけは上官に対する敬礼をしながら男は答える。意地の強そうなつり上がった黒眉が、眉間に向かって狭められた。
「お前、砂漠で死んでこい」
「はぁ?」
「宰相殿のお命じだそうだ。よりにもよって奴隷騎兵連隊の我々に、ヤンエ砂漠横断の護衛をとな」
タイハーンの言葉に、シャルベーシャは口元を歪める。
「ははぁ、なるほど。 奴隷は捨て駒ってわけ。あのヤンエを越える? 冗談じゃねぇぜ」
「……待って下さい。私が言い遣ったのは、砂漠を渡れそうな屈強な兵士を選ぶことのみです。御覧の通り私はこの国の出ではありません。遠目に見て、屈強そうだと判断したのでここに参りました。…捨て駒だなんて!」
マムルーク……奴隷出身の騎馬兵士たち。そうか、ここは彼らの鍛錬場所なのかと、フェイリットは納得する。
身分こそ低いものの、僅か十歳前後から軍役に付く彼等は、実戦に置けるなら小姓上がりの貴族より遥かに強いのかもしれなかった。命の駆け引きは、実戦でしか磨けない。いくら技ばかり与えられようと、そのぎりぎりの一線を多くこなしているか否かで、力量はまったく変わってくる。
欲しいのは「砂漠の民」の血を持つ者だ。強ければ良いというわけではない。だが、方々から買い集められる奴隷軍人の中に、砂漠の民が混じっている可能性は……高い。
「マムルークの貴方にこそお頼みします。砂漠は広大で、何があるか分かりません。地位や階級や身分などは邪魔なだけです。欲しいのは経験と実績……はっきり申しますが、護衛はいりません。ヤンエ砂漠を踏破できる確実な知識が必要なのです」
見上げたシャルベーシャは、面食らったような顔をしていた。
「ヤンエを越えるっつうことは、バッソスに行くお偉いさんにくっ付いてくんだろ。俺らはそいつの護衛、しなくていいってのか」
「出来ればしていただけたら嬉しいのですが。……欲は言いません」
シャルベーシャは琥珀の瞳を細く歪め、何かを考えるようにフェイリットの顔を見やる。
「随分欲張ってると思うんだがね。お前扱えるんだろが、剣」
今度面食らったのは、フェイリットの方だった。出会い頭に「貧弱なやつ」と宣っていたのは忘れていない。彼が何を見てその考えを変えたのか思案して、フェイリットは表情を曇らせる。
メルトロー式の剣術しか知らないため、使えるところを武人相手に見せたなら素性が割れるはずだ。それも見る者が見たなら、術式がメルトロー王族のものであることまで見抜いてしまうかも。
しかしここで嘘をつけば、きっとこの話は頓挫する。
「……条件があるなら呑みます」
フェイリットの返答を聞いて、シャルベーシャは満足げに笑った。
「丁度退屈してたとこだ。ここにいる兵士を十人倒してみろ。面白かったらお前の望むものをやるぜ」