031 降りおりるもの
「シマニ公爵が俺にか?」
驚きに発せられた声は、しんと静まり返った室内に長く低く響き渡った。
ワルターは項の辺りに節くれ立つ大きな手をやりながら、参ったな、と続ける。
「ウズ…お前のことだ。おおよその検討はついてるのだろうよ」
「ええ」
目前に胡座をかいて座る青年――ウズが、わずかにその灰色の瞳を細めて頷く。
「公に受けた通達では、婚期を迎えた息子に婚約の話をと」
「ああ、確かに俺もそう聞いた」
だが、そうではないことは目に見えてわかっている。
皇帝を隔ててばらばらに対立していた四公が、ようやくひとつに結託したのだ。それは、あの〝役に立たぬ〟皇帝が、よりにもよって竜狩りに赴き「狩った」から。
もちろん竜を狩ったのも、実際に狩りに行ったのも、見せかけでしかない。
元老たちの迷信への固執ぶりは、院を凍結する前から凄まじいものだった。口を揃えて「狩れ」とは言えど、事実皇帝に狩られては困る。それが誰も口にできぬ本音だ。
前帝に続くバスクス二世には、どうあっても愚鈍でいてもらわねばならぬから。
竜は英知の生き物。かれが選ぶ王ならば、賢帝と呼んでおかしくは無い。四公たち含む元老院のたったひとつの恐れ――それは愚帝と信じて疑わなかった、バスクス二世よりの報復。
ワルターは重い息を吐き出して、目前に座るウズから目線を降ろす。
「五年のあいだに、すっかり変わってしまわれたからな。……例えあのままでも、生きて出ることはなかっただろうが」
元老の誰もが、喉から手の出るほど欲しがった帝位。その簒奪劇で、まだ歳若い一人の皇子は生きながらに殺された。
真実を知る者が、いったいこの国に何人いようものか。
「感謝しています。陛下があの牢獄でお亡くなりになられていたら、今の私は在りませんから」
「妹の胎の子まで殺してか」
「――ともども死なせておけば良かったとは、申されますまい」
ふ、とわずかな間があいて、ウズは静かに言葉を返す。
「…だが、」
あれが一番よかったのだと、どうして頷くことができるだろうか。
すべてが巧くいき、このまま誰もが幸せに……そんな儚い夢を望んでいたあの頃が、未だこの胸に疼いている。
「昔話は止めに致しましょう」
ウズの仮面のような白頬に、ほんの一瞬、暗い影が差し込む。
「そうだな」
けっして表情を変えることの無いこの男が、人前で一度だけ歯を食いしばり泣いたのを、ワルターは誰よりも近くで知っていた。
思いだせばきりがない。もう誰もが皆「終わったことだ」と思っている以上、過去は過去でしかなくなってしまったのだから。
失った者達がこんなにも前を見つめ生きているのに、失うものの無かった自分が未だ過去に囚われたままだなんて。
「……シマニ公爵に機会をお与え頂きたいのです」
「機会だと?」
ウズの呟いたその一言が、さらに胸深く入り込む。
「俺は元から断る腹づもりだった。何のために八年前コンツェを引っこ抜いたと思ってる。こんな時よりにむざむざテナン王をあいつに会わせたら、」
「王太子に。そう公爵は仰るでしょう」
「それだけじゃないぞ」
――お前のその正統な血筋で、皇帝の座を奪い取れ。
テナン王は必ず、そう仕向ける。でなくば、あの利益しか目先に置かぬ公爵が自分の子でもない「公子」を、二十年も見過ごすはずがなかった。
「あの者もすでに子供ではない。我々が襟首を掴んで引き戻してやるのは、もう終いなのです」
「……ディアスか」
灰色の瞳が、答えるように細められる。
掴んでいた襟首を離してしまったら、いったいコンツェはどちらの方角へ進むのだろう。
テナンを捨て己の平穏を護るか、テナンを護る為に己の命を投げ打つか――強いられる選択は、おそらく二つに一つしかない。
「…酷なことをなさるな」
帝国の玉座は、血筋で守られている。
遊牧の民をひとつに纏め上げた始祖タル・ヒル、息子アル・ケルバ、そしてジャイ・ハータ―――この三代の皇帝の血を、ひとつも漏らさず継いでおり、尚且つ先代に続く皇帝の子であること。
それが皇統の継承への条件だった。
「あいつにそんなのは向いてない」
「向いている、向いていないではありません。御輿は、担ぎ手が多ければ持ち上がるものです」
皇統を継ぐのに、庶子や嫡子という観念はこの国にはなかった。古くからハレムに妾妃たちを囲ってきた中、正式な伴侶である皇后を置かぬ皇帝も数多く存在したからだ。
――先帝アエドゲヌの、血を持つ子がもうひとり。帝位を狙いつづける四公たちが、担ぎ上げる御輿があるとしたなら、
コンツ・エトワルト・シマニ……彼しかいない。
「…引き返すなら今だぞ。すべてが穏便に進む手立てが、お前ならいくらでも考えつくだろう」
「我々が今この国を支えていられるのは、本当にぎりぎりの線でのこと。貴方もお分かりのはずです、ワルダヤ殿。腹を据えて頂かねばなりません。もう穏便に進めるには、この国は腐りすぎている」
ワルターは大きな溜息のあと、胡座をかいた膝の上に拳を落とした。
「なにを考えている?」
自分とて軍人、平和より血を好む気質のほうが勝っている。だが、その血がごく間近に流れるかもしれぬとなれば、喜び勇んでもいられない。
腐敗のあとには崩壊があるのみ。まさかディアスが、この国と心中しようなどとは思うまいが。
「……バッソスだけは引き剥がしてくれるだろうな。あの国の軍はさすがに痛いぞ」
「ええ、その辺りはお任せ願います。貴方が連れ帰った娘、使わせて頂くことに致しましたので」
「……フェイリットをか?」
見せかけの偵察で、コンツェが山中偶然見つける事になった瀕死の少女。
アンの元ならと安心して任せてやったのが、間違いであった。彼女の身辺にこの男が目を光らせぬはずがない。
「あの娘、存外大きな嵐になるやもしれません」
「ただの村娘だぞ、なんの価値すらない。だからこそコンツェの嫁にでもと、連れ帰って来たんだ」
なぜあんな高山の山麓で、虫の息のまま倒れていたのか…本人が語る事はついぞなかった。だが、それでいいと思ったのだ。
彼女を見つけたのは間違いなくコンツェ。男だてらに恥ずかしいものだが、もし天命というものが降りたとしたなら、それは他でもないコンツェの元であったはず。
思考の狭間にふらついていると、目前のウズが唐突に立ち上がる。
微かに鳴った衣擦れの音ではたと気づき、ワルターは目線だけを上に向けることになった。
「シマニ公爵は、恐らく明後日にはご到着なさるでしょう。トリノを隠して、会話の内容を盗ませて頂きたい」
「わかった」
渋るように、声を捻りだしてそう答えた。
「どうにもできん…か」
彼の群青の衣装が仕切り幕を潜り出でゆくのを眺めながら、ワルターはひとり呟く。
誰もいなくなった自宮の応接間は、ウズが訪れる以前よりいっそう静かに感じられた。