030 想い人
迷路のような帝都アデプ。黄土色の城下の向こうに、赤砂の宮殿が遥かに臨める。文化の匠とはかけ離れた、けれど原始を思わせる壮大な美しさを湛えて。
しかし紺碧の夜空に、あの赤い城はどうにも気味が悪いものだ。
スリサファンは荒野へと続く帝都の切れ端で、静かに佇み夜空を見上げる。
下品だ、と言ったのはカランヌだったか。あの都会育ちが、この城を「美しい」と賞賛することは恐らく生涯をかけてないだろう。
かつてのタントルアスが、大陸を統治しゆく中で戦慄を覚えたというこの城。
「――たしかあの頃の皇帝の名も……」
ふと視界に映りこんだ影に気を取られて視線を下げると、見覚えのある青年の姿が。 たった一人で、蛇の口のような帝都の入り口を抜け、こちらへ向けて歩いてくる。
「あ……の、根性無しが…」
怒りで震える声をどうにか抑え、スリサファンは大股で歩き出した。
案の定目の前に立ち、食えない笑顔で「すみません、失敗しました」と宣言するカランヌの頬を、平手でぶって打ちのめす。
ばちん、と鈍い音のあとにくぐもったカランヌの声が吐き出された。力一杯叩いてやったのだから、砂上に無様な姿を転がすだろう。そう思ったのに、わずかによろめいただけで左の頬を支えながら腰を屈めて堪えている。
「痛いですよ…」
「二度までも!!」
たった一人で現れた―――それは、またもサディアナ王女を連れ損ねたということ。
一度目だって、すぐ手の届くところにいながら王女の逃避をぼんやりと眺めていたのだ。今回も同じような理由なのは間違いない。それなりの力を持っているだろうに、一体この男はなにを楽しんでいるのか。
「あんな力出されたんじゃ勝てません」
「未熟だと仰っていたのがお懐かしゅうございますよ!」
皮肉を込めて言ってやると、左頬をさすりながらカランヌが息をついた。
その手の向こう側に、赤く腫れ上がった頬が見える。あれで倒れなかったのは、もしかしたら賞賛ものかもしれない。
「はぁ……私に手を上げるなんて出来るのスリサだけなんですから、さっきの平手で許してくださいよ」
「呆れたものです、アロヴァイネンともあろうお方が! 陛下へのご通達は貴方お一人でなさいませ。私は戻ってサディアナ殿下の元に行きます」
「おや、貴女がお連れ下さるとは心強い」
カランヌは道化じみた仕草で、まるでメルトローの紳士がするような礼を見せて優雅に目線を伏せる。それに一層はらわたを掻き混ぜられる思いで、スリサファンは大仰に首を降った。
「何を勘違いなさっているのです。私は断じて協力はせぬと申し上げたはず」
「じゃあ、なんだって言うんです」
「別に何も。ただ少し気になることができただけ」
「――恋じゃないことを祈りますよ」
「カランヌ殿!」
我慢がならずに振り上げた右手は、彼の頬に当たる前に宙に止まった。ぱっと掴まれた手を引かれて、端正な顔が目の前に迫る。
濃い金色の髪が、額を流れて風に揺れた。滅多に見られぬ、真面目な表情……半ば驚きつつも、スリサファンは右手に込めた力を解く。
「……できるなら、王女にくっついて監視していただけませんか」
「は…、何なのですかそれは」
「貴女が何を気にとめたのかは分りかねますが、これだけは言えることです」
掴んでいたスリサファンの右手を離し、カランヌは静かに息をついた。
「いるかもしれないんですよ」
何が、という質問は、よもやスリサファンの口から出ることは無かった。引っ掛かった違和感を、こんな形で聞くことになろうとは……。
「―――この国に、サディアナの〝想い人〟がね」