001 竜の山脈
「死んでます」
ひとりの兵士が、足もとを見て唸った。
「こんなところで――樹からでも落ちたのか」
兵士の上官がそばに並び、首をかしげる。落葉の散らばる土に片膝をつけば、ぱり、と霜の破れる音があたりに響いた。
二人の視線の先にあったのは、白くたおやかな――少女の肢体。
「……酷いな」
口元からのぼる息が、山気にさらされてほの白く霞む。
砂漠を越え辿り着いたこの場所は、まるで違う世界だった。
樹々が生い茂り、方々に泉が湧き、肥えた土が足うらを包む。湿った北風が山肌を吹き降りるせいか、先ほどから、やわらかな雪までちらついて見える。
〝竜が出る〟――という伝説の残るアルマ山脈。大陸を這って北と南とを分断するさまは、まさしく竜にも例えられるほど巨大だ。
その、凍りはじめた山の中腹で、男たちは困惑に眉をひそめるのだった。
「どうしましょう、コンツェさん――いえ、コンツ・エトワルト中隊長。埋葬してやりますか?」
わずかばかり年かさの部下に尋ねられ、コンツェと呼ばれた青年が頷く。
「可哀想に」
ぼろぼろの衣装は、粗末な麻地の縫い合わせだった。いたるところに裂け目が生じ、ほどんど裸といってもいい。散り散りの布は赤黒く染まり、肌や髪にまで、血がべっとりとこびりついている。
「よほどの高所から真っ逆さまに落ちでもしなければ……こうはなりませんよ」
運が悪かったんでしょうね、と続ける部下に、コンツェは沈黙で同意を示した。
丸めた身体を抱きかかえる手は、だらりと力なく、後方に捻れてしまっている。
骨折か脱臼か、もしくはその両方か。
しかし、この辺りの樹木の高さでは、どう考えても説明がつかない。まばらに生える白樺の樹はどれもまだ若く、ほっそりとして丈も低いものばかり。てっぺんから飛び降りたとして、大した怪我にはならない高さだ。それなのに、見上げた近くの樹には折れた梢がいくつもあるのだ。もう、首を捻ることしかできない。
革の手袋を口に咥えて引き抜くと、コンツェはその手を少女にさしのべた。たったひとり。霜の降りた土の上で、孤独に死を迎えた少女。その無念を思いながら、少女の首もとに手を触れ――はっとする。
「……いや待て、……生きてる」
氷のように冷たい少女の首すじ。けれど、ほんの微かな脈動が、とく、とく、と薄い皮膚ごしに伝わってくる。
のばした手を頸部から頰に動かすと、コンツェは指でぐいと、少女の眼窩の皮を引っ張りさげた。
血の気の失せた瞼の向こうに、思いもよらず美しい瞳がのぞく。あらわれたのは、澄んだ湖水のように透明で、光の調子で翠にも見える瞳だった。
陽を受けゆっくりと縮む瞳孔を見て、コンツェは部下へと視線を戻す。
「生きてる」
なんと幸いな娘であろう。
上向けてやったその顔がふいに歪み、小さな唇から、咳がひとつ溢れる。
「……息が!」
驚くまま声をあげた部下を見やり、コンツェはようやく頰を緩めた。
呼吸している。普通ならば、命を取りとめることさえ叶わないはずの重傷であろうに。
この娘は〝強運に恵まれた〟としか、言いようがなかった。
「運びましょう、コンツェさん、いえ、コンツ・エトワルト中隊長」
骨折、切り傷、多量の出血。加えてもうじき雪も降ろうかという寒さ。いくら幸運に恵まれた娘でも、このまま放りおけば間違いなく死ぬ。
「もうコンツェでいいよ。たしか軍医は、」
「はい、アン・トスカルナ少尉が」
「そうか、よかった」
髭の伸びはじめた顎を指で触れ、コンツェは思案げに俯く。察するに、麓の駐留地からここまで、思っていたよりも距離は長い。
「急ごう、この娘を助ける。他のやつらを呼び戻してくれ」
敬礼で応えた部下が、少し離れた場所で指笛を吹く。
コンツェは身に着けた外套で丁寧に少女を包むと、そっと抱き上げて歩きだした。