017 皇帝のハレム
石床に毛の短い絨毯が敷かれて、そこに直接座るのがイクパルの生活様式。けれどウズの部屋は例外なのか、わりと高めの卓と椅子が並べられていた。
その上で帳面のようなものを捲りつつ、何かを書きつけたりまた別の書類のようなものを捲ったりしているウズを見つけて、
「遅れて申し訳ありません」
フェイリットはおずおずと宮廷儀礼をとる。
床に手をついて跪き、頭を深く垂れる伏礼だった。夕食の折、エセルザに習ったばかりだけれど、急仕込みにしてはよくできた気がする。
「トリノ」
名を呼ぶ彼の声に、入り口に控えていたトリノが立ち上がる気配がした。ウズの側まで足音も立てず寄り、机の近くに膝をつく。
「はい」
「持って来なさい」
礼を返事の代わりに、トリノは立ち上がって奥の部屋へと入っていく。しばらくして彼が戻ると、その手に何枚かの布が乗せられているのに目が留まった。
エセルザが着せてくれたのと、同じような布だ。
「お持ちしました」
「ではフェイリット」
トリノから布を受けて、するりとウズが立ち上がる。彼は軍衣ではなく、宮廷式の衣装を着ていた。これも縫い目のないものなのだろうか。無地ではなく、細かな刺繍が施されたそれを目で辿っているうち、その衣装が目の前に揺れて止まる。
「お立ちなさい」
厳しい口調が頭上から降りかかり、フェイリットは反射的に立ち上がった。何だろうと思う間も無く、手首を掴まれ捻り上げられる。
「痛っ!」
掴んでいた腕を力のままに引き寄せられて、ふらつきながらも何とかこらえる。自由の利く方の手首を引き上げられたままで、フェイリットはじわりとくる痺れに眉根を寄せた。
一体何をされるのかと見上げると、断りも無くウズの指が衣装の結び目に差し入れられるではないか。
「何…するんですか?!」
フェイリットの動揺を見、ウズが笑みを浮かべる。形だけの、冷たさを思わせる微笑。まるでわけがわからない。
「大人しくしていなさい」
ウズの手はあっさりとフェイリットの衣装を解き、脱がせていく。
「ひ!!」
混乱している暇もなく、あっというまに衣装は元の一枚の布になった。
丸裸にされて恥ずかしさのあまりにへたり込む。ウズの冷たい双眸は、なんの感情も映さずこちらに向けられたまま。
「お立ちなさい」
「い、いやです!」
「…立つのです」
「いや! ……っ!!」
今度は骨折しているほうの腕を掴まれて、フェイリットは声にならない悲鳴をあげた。
耐えがたい激痛が走り抜けて、ふらふらとウズの身体に凭れかかる。痛みに顔を顰めていると、今度は怪我の無い左手を引かれる。ずるずると自分の足で立たされて、フェイリットは唇を噛みしめた。
一体何なの。怒りと恐怖に震えていると、どこから取り出したのか、ウズは薄くて長さのある布をフェイリットの胸にきつく巻きつけていく。
「え…」
目を丸くしているフェイリットをちらと見て、ウズが鼻で嗤う。
「無理やり抱かれるとでも思いましたか」
あの状況でそう思わない者がいるだろうか。なのにウズの今の行動は、どう考えてもフェイリットに衣装を着せ付けているようにしか見えない。それも随分と手際よく。
「自分で着られるよう、覚えなさい」
無表情でそう言って、てきぱきと着付けていく。何が起こっているのかいまいち理解できないまま、気づいたら着替えが完了していた。
屋敷で着せてもらったのとは明らかに違う、丈の短い乳色の衣装―――そう、ちょうどトリノと同じような。
「頭を」
言われたままに差し出すと、ウズが鋏をこちらに向ける。
「え……!」
抵抗する間もなく、じょきじょきと髪が切られていく。せっかく侍女たちが結わえてくれた髪の毛が、みるみるまに短くなった。
女が髪を切るという風習は、実はどの国にも見られない。聖職者か、姦通の罪か。そのどちらかでしか、女が髪を切る理由をフェイリットは知らなかった。
アンの髪もフェイリットより短いが、あれは軍人だからなのだと思う。自分は何もしていない。これから軍人になるわけでも、聖職者になるわけでも、まして姦通の罪など……。
驚きと悔しさで鼻の奥がつんとなるのを、必死で堪える。唇を噛み締めていたら、今度は長い布がぐるぐると頭を覆っていった。
「な…なんですかこれ」
重いのと苦しいので声を歪めてウズを見やる。
「ターバンです」
一言短く答えて、ウズはその〝ターバン〟の端をうなじの辺りの布の中に差し入れた。ますますトリノに近づいた格好を眺めて、彼は納得したように軽く頷く。
「違和感はありませんね」
「…どうして」
「貴女が今着ているのは小姓衣といって、皇帝宮に仕える少年たちが着るものです」
「小姓…皇帝宮…?」
鸚鵡返しにつぶやいて、フェイリットはぽかんと口を開ける。
「宮殿の中で女たちが入れるのはハレムだけです。お前をここに連れてきた侍女も、皇帝宮の手前で帰っていったはず」
確かに、彼女は此処から先に入れないと自分で言っていた。
「でも、どうして小姓なんですか…」
わざわざ性別を隠してまで、小姓に仕立てる理由が全くわからない。女しか入れぬなら、ハレムで雇ってくれればいいのだ。雑用なら床磨きだって皿磨きだって、着ている物が違うだけで一緒なのに。
「髪を切ってまで…」
「ハレムの方が良かったと?」
その問いに即座に頷くと、ウズは嗤って首を振る。
「あそこは皇帝陛下の愛妾たちが暮らす宮。侍女のひとりに至ってもハレムに居る以上、陛下のお手がついても文句は言えない。そういう場所は望まぬと思っていたのですが。それでもその方がいいのなら、こちらとしても手がかからない」
愛妾たち…。では、自分を皇帝宮まで送り届けたあの女性も、愛妾のひとり…なのだろうか。
「…小姓にしてください」
そう言うしかない。敵国の皇帝の寝所に侍るなんて……考えただけでも恐ろしかった。
フェイリットの返答を聞き、ウズは冷たい笑みを頬に貼りつけて見せた。