172 追想__道化の蠍
「ええ。テナンの美しい風景をたくさん」
タントルアスは、いよいよ大仰なまで頭を縦にして見せた。面食らったままのジャロディインが、よほど可笑しかったに違いない。
「統治の助けになれば、と書き添えも。あのような絵を描く方が、情緒に乏しいはずがない」
むしろ私などよりも、よほど鮮烈な熱情をお持ちなのではないか。
その解釈を聞きながら、ジャロディインは押し黙る。
兄が何の意図を持って絵を贈ったかは分からない。だが、その理由を考えれば、付き合いの長い弟には察せられる。「視察無しに手っ取り早く領土を把握してくれ」とでも言いたいのだ。
それを押し並べて「情緒に富む」と表せるほど、アルジャダールは簡単な男ではない。
「それに関して、直接礼を言いたかったのです。が、このひと月振られっぱなしで」
タントルアスは盃に口をつけたまま照れる。
「御覧になった通り、今日も機会を逸しました」
そうしてタントルアスは、着任当初から数回にわたり面談を申し入れていたことを明かした。今日に至るまで、返答もないままこの晩餐を迎えたとも。
「ああ……それは、」
と言いかけて、ジャロディインは眉をひそめる。アルジャダールが物理的に捕まらないのは無理もない。テナン領土に居ることのほうが、珍しく数えられるほどなのだから。
「それは、失礼致しました。贈り物への礼でしたら、自分がお伝えすることも可能ですが」
タントルアスは、きっと日を置かず気づくだろう。アルジャダールが本土を巡り、視察や紛争の鎮火をひっそりと担っていることを。
そしてアルジャダールは「敢えて報告することでもない」と弟の口を封じている。
秘密を扱うのは上手くない。ジャロディインは自らの二枚舌に、気を揉みつつも言葉を繋ぐ。
「如何致しますか。お待ち頂いても、意に沿わぬ結果を招くかもしれません。兄は絵を描くのに、ひと処に収まっていられない性質ですので」
タントルアスは他意なく頷いた。
「お気になさらず。この晩餐も、言うなれば面談のうちに含まれるのかもしれない。アルジャダール・ケルバ殿下がご用意くださった席だと伺いました」
もうこの場には居ないのに、タントルアスはアルジャダールの席を見て言う。
ジャロディインは頷いて、タントルアスの横顔に応えた。
「はい、珍しく兄が。でしたらまた食事をご一緒致しましょう。その時は自分が兄を引っ張って参ります」
「本当ですか」
男装をして大振りの剣を手に、文字通りの〝力技〟で、数々の国を落としてきたタントルアス。
「では、その日を楽しみにしています」
その豪傑王女が、好奇心を打ち明け照れ笑う。
可憐にさえ見えるその表情は、他でもない。あの鉄面皮が引き出したものなのだ。
ジャロディインはタントルアスの意外な様子を見ながら、その目がじっと盃の底に向けられていることに気づく。
「刻印がお見えになりますか。獅子は、我が血族の紋なのです」
葡萄酒を飲み干せば、盃の底に見えるのは獅子の紋。
ジャロディインは、刻印の説明を口にする。
本来の家紋は獅子なのだと。しかし、戦に掲げる旗や貿易など。他国の目に留まる場で、血族たちは混合種の紋を用いている。
鷹の頭に獅子の身体。そして雷鳥の黒翼を持つ、一見すると奇怪な生き物の姿だ。民族と文化の混合を受け容れ、ひとつ身体に守りぬく。その決意を込めた紋が、血族の誇りでもあった。
「……眠れる獅子には道化の蠍、か」
刻印の由来を聞き終え、タントルアスは静かに言う。
ジャロディインは、その言葉がどんな意味を成すものなのか理解できなかった。単なる独り言なのか。それとも誰かに向けられた言葉だったのか。
「それは、」
と聞き返したジャロディインの耳に、タントルアスさま、と別の声が割って入る。
「タントルアスさま、お疲れなの?」
はっとして、ジャロディインは声の方を見やった。エレシンスが、つまらなそうな顔で卓に頬杖をついている。その手には匙が握られているが、タナに浸された痕跡は見あたらない。
「今夜は一緒にって約束だったわ」
タントルアスは息をつくと、気の抜けたような笑みを微かに見せた。
「ホスから向こうの報告を聞いたら、おまえの部屋にいくよ。だが、頬杖をして匙を振るのはやめなさい」
エレシンスは一瞬、嬉しそうに頬を染める。が、次には忌々しげに匙を眺めて、卓の上にそれを転がすのだった。
見かけは成熟して見えるのに、ずいぶん子供っぽい態度だ。ジャロディインはふとそう感じて、気づく。エレシンスが、目の前に並ぶ食事にまったく手をつけていないことに。
「エレシンス嬢」
ジャロディインは呼びかけて、イムを手に掴んだ。
「現在ここは、メルトローとイクパルの共有地です。ならば礼節に於いても二通り」
メルトローでパンと呼ばれているものを、薄く平らに伸ばしたものをイクパルではイムと呼ぶ。イムは手掴みして、タナに浸して味わうのが一番美味しいのだ。それを実演して見せながら、ジャロディインは微笑む。
「貴女方の手前、メルトロー風の食器を用意させましたが……実は自分も匙や三叉を使うのは不得手です」
「そうなの?」
エレシンスが目を丸める。
「はい、エレシンス嬢。できればご一緒にどうですか」
ジャロディインはイムを掲げて、タナに浸して見せる。それを食べたら次は、皿に大盛りの甲殻類だ。とりあげて殻を剥き、赤身を口に運ぶ。
上流王族の食事の流儀は堅苦しく、一貫して決まりごとが多い。おそらくエレシンスはメルトロー寄りの流儀に慣れきっていないのだろう。ジャロディインはそう見立てて、エレシンスに微笑みかける。
――実はこれまで彼女を公的な場所に伴ったことがないもので。
落ち着いた態度とは裏腹。タントルアスの言葉が本当なら、エレシンスはこの場に相当な緊張を感じているのではないか。
「テナンの魚介は美味しいですよ」
ジャロディインの誘いに、エレシンスは見るからに目を輝かせた。
「タントルアスさま、ね、手を使って食べてもいい?」
これが食べたかったの。同調をねだる声は、主人でなくとも愛らしいと思えてしまうものだった。
「ああ、いいよ。ジャイ・ハータ殿下がお気になさらないのなら」
そう返して、タントルアスは頭を下げた。エレシンスが真っ先に甲殻類を手に掴むのを、優しい眼差しで見守っている。
「……ときにジャイ・ハータ殿下。貴方の優しさに、私も甘えていいだろうか」
お願いが、と続けるタントルアス。好ましさにジャロディインは微笑む。物言いがくだけ始めていることに、彼女は気づいていない。
年齢を考えても、ジャロディインのほうが歳下なのだ。しっくりとくる話し方に、ジャロディインは頷いて返した。
「何なりと仰ってください」
では、と頷くと、タントルアスは懐から画号の小さな絵を取り出す。
「アルジャダール・ケルバ殿下に頂いた風景画の中に、足を運んでみたい場所があるんだ」
「これは……テナン北西部ですか」
ジャロディインは首を傾げる。木枠の抜かれた画布には、北西部に広がる丘陵地帯の村々と、海を切り隔てる巨大な崖が描かれていた。
「辺鄙な地域ですが、お望みならお連れ致しましょう」
手っ取り早く領土を把握してくれ――というアルジャダールの意図がどうであれ。ジャロディインは表裏なく、この北からの総督を受け入れるつもりでいた。
「ありがとう。ジャイ・ハータ殿下」
タントルアスの企みが別にあろうとは、想像さえしないまま。