171 追想__眠れる赤獅子に
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兄の背をかき消すように、ジャロディインは手ずから扉を閉めた。
側に控えていた侍従が、手を延べたまま目を丸くしている。ジャロディインはそれにも気づかないふりをして、タントルアスに向き直った。
兄の横柄な振る舞いを、詫びなければならない。
情報が正しければ、タントルアスがアルジャダールと会したのは今回が初めてだ。
総督と領主として、これから体制を整えていこうという大事な時。侵略ではなく、両者が歩み寄ったうえでの共同統治なのだ。タントルアス側が面会を求めるのは、真っ当な権利と言える。
しかしアルジャダールときたら、再三にわたる面会の要求を、無視し続けていたらしい。
今回の晩餐、もとい会合は、タントルアスの総督着任からひと月も経って実現したものだった。にも拘らず、当の本人は葡萄酒をさらりと飲んで退室してしまったではないか。
代理を任されているとはいえ、自分はアルジャダールの影武者ではないのに。
ジャロディインは頭を下げながら、密やかな溜息をついていた。いくら完璧に統治を代わっても、兄の礼儀までは尽くしようがないのだ。
「ジャイ・ハータ殿下?」
頭上に声をかけられ、ジャロディインは気づく。無言のまま頭を下げられたら、きっと誰でも困惑するだろう。
だが兄の無礼を、口に出して認めるわけにもいかない。ジャロディインはあくまで領主の代理で、補佐役にすぎないのだ。この謝意を、どう説明すればいいものか。
「頭を上げてください、殿下。如何されました」
タントルアスの声が続く。ジャロディインはようやく頭を上げ、
「申し訳あ、タンうわっ?!」
たじろいだ。視線を戻したその先。タントルアスの顔が、思っていた以上に近くあったからだった。
「タントルアス殿下!」
身がしなるほどに仰け反って、ジャロディインは声高に言う。
「なんでしょうか」
タントルアスの瑠璃の瞳が、笑みの形に緩まった。その視線はまっすぐで、少しも揺らぐところがない。
「……いえ、」
ジャロディインは気恥ずかしさから一歩退がり、自らの頬をそっと掻く。
こういう目をする人物に、まわりくどい謝意は通用しないだろう。あれやこれやと回らせていた考えを、ジャロディインはすぱりと止める。
「着任当初より、アルジャダールに面会を希望されていたと聞きました。不躾な振る舞いを、兄に代わってお詫び致します」
言って、改めて頭を下げるのだった。
「人嫌いな面もありますが、あれで良い兄なのです」
「聞き及んでいました」
応える声に続いて、タントルアスの手がジャロディインの肩に置かれる。
「アルジャダール・ケルバ殿下がお変わりになられているという噂も、御兄弟の仲が睦まじいとの噂も」
睦まじい、と評された兄弟仲に対して、ジャロディインは神妙な面持ちで頷く。
「はあ……別段、戯れあったりはしないのですが」
タントルアスは笑った。
「そういう意味では。お互いを尊重し合っている、という認識です」
納得がいかないまま、ジャロディインはタントルアスを席まで送った。侍従がやっと追いついて、彼女の椅子を引いてくれる。
「ずっと憧れていたのです、貴方がた御兄弟に」
座りしな、タントルアスはそっと囁く。
ジャロディインは自席へと向かいながら、その小さな言葉を背中で聴いた。寂しげで、憂うような響き。涙さえ滲んでいるようだった。けれど椅子につき、再び彼女の顔を見ても、表情に変化はない。
「我ら始祖イクパルの血族は、これまで内政にばかり目を向けてきました」
北方諸国が戦乱に脅かされてなお、さしたる影響もなく過ごしてきた。アルジャダールもジャロディインも、対外に名を示すような働きは一切していない。
タントルアスの発言は、つまり「ずっと憧れていた」と言えるほど、情報を得ていたことになる。
「ああ、」
と、タントルアスは目を伏せる。ジャロディインの言葉と眼差しに、言外の含みを悟ったのだ。
「私事でお恥ずかしい話なのですが、私にも弟がいるのです。歳が十も離れているうえ、一緒に過ごすこともなかった。姉としては、ただ可愛い弟なのですが」
本人にはそうと思えないようで。と結んで、タントルアスは盃を掴む。葡萄酒で口を湿らせると、ふっと仕方なしに微笑んだ。
メルトロー王国の第一王女たるタントルアス。彼女は、八年ごしの待望を経て生まれた、正妃との嫡出子だった。
不安定な国勢を理由に、重鎮らは「公妾を」とずっと願い続けたと聞く。しかし、正妃との仲が良好であったために、国王は公妾をとらなかった。それゆえ、誕生した御子が女児であったことに、国中が落胆したのだ。
メルトロー王家の慣例は、女王擁立を禁じている。
公妾を持つことを推し続けた重鎮らの意見を、国王は許諾するほかなくなったのだ。
そうして国王は六人の公妾を召し抱えるに至り、タントルアスは腹違いの弟を六人、得ることになった。傍目には、すべてが安泰に移ったように見えた。王妃にかかる重責はなくなり、タントルアスへ向けられる落胆の目もなくなった。唯一の王女は、ただ蝶よ花よと愛でられ育つのだろう。そう誰もが思ったはずだ。
十年後、王妃が再び懐妊するまでは。
生まれた子どもは男児であった。しかも不運なことに、生まれながらに片方の足が不自由でもあった。
国王と正妃との間に生まれた、正統な血の継承者。これを王位に就かせるには、嫡子と認められた六人の兄王子たちを斥けなくてはならない。
タントルアスは十歳。同じ母親を介する十違いの実弟を、守るために立ち上がる。
弟を守り、彼の手に正統な地位を取り戻す。そのためならば、自分の人生さえ捧げてみせようと、父王の前に願い出る。
――我が国の礎を、領土の拡大をもって盤石なものとする。一番の功績をなした王子の手に、我が座を継がせることを約束しよう。
国王も、タントルアスの決意を聞き入れた。我が子を愛するがゆえ、タントルアスを自由にさせた。その自由が、タントルアスの才能を開花させてしまうとは知らずに。
タントルアスは武芸を磨き上げ、あれよという間に頭角を現したのだ。その功績の大きさは、もはや弟の代理とは言えぬほどに素晴らしいものだった。
「弟にとって、私は目の上の瘤でしかないのです」
だから、姉弟の仲は冷えている。自嘲ぎみに言って、タントルアスは結んだ。伏せられていた目はジャロディインに向けられ、再び美しい瑠璃色を魅せる。
ジャロディインは遠慮がちに、けれどはっきりとした口調で返した。
「ご存知でしょうが、自分の兄は変わり者です。この城にとどまっている姿も、見ることは珍しい。領主だというのに」
だから自分は、あなたのような姉が羨ましい。ジャロディインはそう言って、タントルアスに笑顔を向けた。
そもそもアルジャダール・ケルバは、皇帝タルヒルよりテナン領土を任された第一皇子だ。長子を重んじる風土は、基本どの国においても変わらない。イクパル帝国の皇帝もまた、第一皇子である兄に大きな期待を寄せていた。
なのにアルダジャールは、皇帝の座を継ぐ意思が無いように見えた。
父帝から譲り受けた重要な土地を、自ら提案して和平の餌に変えてしまうほどには。
メルトロー王国が二つ返事に快諾し、戦果を免れたのは結果論でしかない――中にはそう言って、アルジャダールに「売国奴」の汚名を着せ糾弾する者まで現れた。表層化しなかったのは、未だ皇帝の力が衰えていないからこそ。
良い兄だ、と慕う半面、ジャロディインは兄が心配で仕方がない。
日がな一日、方々で絵ばかり描いているだけの男――そんな素振りを続けているアルジャダール。統治の手腕も、武術への直向きさも、昔からずっとアルジャダールの方が上手だったにも関わらず。
結果論として片づけられた先ほどの策でさえ、どこまで先を読んでいたのか知れない。そんなアルジャダールのこと。実弟でもなければ、理解しようと試みる者も少ない。
「代わって諸々を任されておりますので、御不便がありましたら仰ってください。自分が誠心誠意、お力添え致します」
ありがとう、とタントルアスが笑んで返す。
「アルジャダール・ケルバ殿下がお変わりになられているという噂も、人前がお好きではないというお話も存じていました。……ですが、先ほど拝見したお姿は、終始楽しそうにされていたでしょう。存外、近寄り難い方とは思えなかった」
ジャロディインは目前の爽やかな顔を、まじまじと見た。
「終始楽しそう? 兄が……アルジャダールがですか?」
「はい」
ジャロディインの目には、見慣れたいつもの兄でしかなかった。黙々と仏頂面で葡萄酒を飲んでいるだけの。あの鉄面皮を、どう解釈すれば「楽しそう」なのか、首を傾げるほかない。
「着任した当日に、絵を届けて頂いたのです」
「絵? あのー、……兄がですか?」
意図せず同じような問答を繰り返し、ジャロディインは目を丸くする。
「ええ。テナンの美しい風景をたくさん」
タントルアスは、いよいよ大仰なまで頭を縦にして見せた。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします^^
後書きにてご挨拶を失礼します。