170 追想__豪傑の王女
時を遡ること約千年。アルケデア大陸には小さな国が多数点在し、長たちはみな、領土間の争いに時間と財を費やしていた。
当時、イクパルを形づくる国々は十を超えていた。新天地を求めた遊牧の民が、海を越え山稜を越え、辿り着いたのがギスエルダンの地。そこで国を起こしたのが初代の長「イクパル」だ。
「イクパル」は、民族の垣根をなくすことを謳った。公平な法と税収を掲げ、移民たちを歓んで迎え入れたのだ。
外海に面した地理は貿易を助け、イクパルはあっという間に大国へと伸し上がった。武力による侵略を行なわなかったにも拘わらず、十数の公国が傘下に加わり、しだいに帝国の形体を成していった。
国土の中央部に山脈を抱えた不可思議な形の国は、そうして名を大陸に轟かせる。
それを口惜しく眺めていたのが、北のメルトロー王国だった。国の起こりはイクパルより更に古く、その矜持ゆえ、メルトローは傘下の道を選ばなかった。しかし、永久凍土が三分の一以上を占める領土が、豊かさと無縁であることは明白。メルトロー国民は、猟と材木の伐採を生業としながら、貧困に耐えて生きのびるほかなかった。
豊かさと平等を謳歌しゆく新興国への羨望は、防ぎようのない活力となる。「帝国に藩属せよ」という声が、民衆を暴動へと駆り立てた。
そうして、メルトロー国王は決意する。
総ては国民を救うため。領土の拡大を宣言したのだ。
侵略戦争のはじまりであった。
メルトロー国王は、自らの子供たちに侵略を課した。最も功績を成した者に、王位の跡目を継がせると約束して。
そうして、一番に功を挙げたのがタントルアス。病弱な末の弟に代わる形で参戦した、長子の王女であった。
タントルアスは五年の歳月を賭し、八つの国々を王国の領土へと併合した。
他の弟王子たちの力も加わって、メルトロー王国は突如として大国に変貌する。国境がイクパル帝国のそれと接するまで、さして歳月もかからなかった。
代替わりを経て二代目となっていたイクパルの皇帝タルヒルは、亡父の志を継いで和平を望んだ。
全面戦争を回避するためにとられた策が、島国テナンの共同統治。海を擁した土地は資源に溢れ、またメルトロー国土に隣接する地の利もあった。
領土に未だ海を持たなかったメルトローにとって、かつてない申し出だっただろう。メルトロー王国は二つ返事で和平をのみ、テナン領土を手に入れた。
国が潤うにつれ、メルトロー国王の想いは後悔に沈むようになった。最も功績を成した王家の者に跡目を任せる。その約束が果たしようもないことを感じたからだ。
〝女王〟擁立に関して、国の重鎮たちは首を縦に振らなかった。タントルアスの弟たちが、彼女に匹敵する領土の拡大を、追随して見せたことも大きい。
骨肉の争いに転じることを懸念した国王は、起因となるタントルアスを国土から離すことに決めた。
そうして彼女に課せられたのが、テナン領総督の職。
タントルアス、齢二十三歳。戦地に身を置いてきた男まさりの王女の傍らには、〝愛人〟と揶揄され疎まれる、美しい女の姿があった。
「エレシンスというのだったか」
晩餐の席で尋ねると、女は不機嫌そうに横を向く。子供が拗ねたような格好ながら、妙な艶を感じさせる仕草だった。
天鵞絨地が被せられた円卓には、近海でとれた魚介料理がふんだんに並べられている。卓燈の明かりを頰に、彼女は隣席の主人を無言のまま窺う。自らが招いた沈黙の時間も、まるで意に介していない様子だった。
「この者はエレシンス・サディエ=アルヌ。ご紹介が遅れましたこと、お許しを願います。アルジャダール・ケルバ殿下。実はこれまで彼女を公的な場に伴なったことがないもので」
沈黙を破ったのは、耳触りのよい軽やかな声。エレシンスの主人たる人物――タントルアス・シフィーシュだ。講和を結んだ相手国の第一王女であり、度重なる戦役で、数多くの功績を挙げ続けた猛者でもある。
「ほら、エレシンス」
タントルアスの促しを受け、エレシンスはようやく会釈の形に頭を動かす。花の名に似つかわしい、黄金色の髪がその首元に揺れた。
サディエ=アルヌ。もとは神話の女神の名だったはずだが、いつしか花弁の小さな野生種の花を、同じく呼ぶようになっていた。
太陽を射狙うように追って咲く、不思議な特性を持つ花。月の女神と重ね見た先人の感性に、アルジャダールは納得する。
「こうしてお話できる機会ができてよかった。テナン総督を任されたとはいえ、経験のない未熟者。まずは御二方に、私たちを知っていただきたいと思っていたところです」
タントルアスはそう言うと、給仕が注いでいった葡萄酒の盃を持ち上げる。
彼女がテナン領総督の職に着任したのがひと月前。儀礼上の挨拶は済ませていたものの、こうして会話を交わすまでには至らなかったのが現状だ。
アルジャダールは同意を示し、盃を掴み上げる。
「晩餐にお招き頂きありがとうございます。アルジャダール・ケルバ殿下、ジャロィ……ッハーティア殿下――」
四方を石壁に囲まれた室内は、冬の寒さが直に肌身に伝わってくる。暖炉にくべられた薪が、音を鳴らしてパチリとはぜた。
……慣れぬ発音なのだろう。タントルアスは〝ジャロディイン・ハーティア〟の名を盛大に噛んで、その身を固めている。
アルジャダールはそれを無言のまま聴き流し、タントルアスの日に焼けた赤みのある肌が、余計に赤く変わっていくのを眺めていた。
月の色に似た金の髪は短く、天来の癖なのか、毛が四方八方に跳ねている。雛鳥の羽毛にも似た髪の下方には、瑠璃を水で溶いたかの色の瞳があった。羞恥のせいだろう。瞳の色がゆっくりと濃く変化していくさまは、見ていて興味深いものだ。
「フグッ、」
そうして熟視を愉しみつつあったアルジャダールの耳に、隣席から雑音が届く。雑音の正体は、名前を噛まれた張本人ジャロディイン。弟はイムを口に含んだまま、笑いを堪えて密やかに震えていた。
「…………全力で飲み込め」
そして、絶対に笑うな。
ようやく口を開いた兄に向け、ジャロディインは深く頷く。
お前の口にしたのが、液体でなくてよかったな。ともアルジャダールは思うが、もし言葉にしたなら、弟は悲惨な結末を辿ることになるだろう。年若い女性二人を前に、口中の残渣を吹き散らす。そんな面倒を回避したいのは、アルジャダールも同様だった。
「あの、お名前を――大変失礼致しました」
立ち上がりかねない勢いで、タントルアスが謝罪する。
ジャロディインはそれを制するように両手を広げ、
「ぐっ……は、ぐ!」
苦しげな顔でイムを飲み下した。そうしてジャロディインは、些か声量を間違えて告げるのだった。
「いいえどうかお気になさらず! 自分は国内ではジャイ・ハータと愛称で呼ばれることもあります。なので、是非〝ジャイ〟とお呼び下さい!」
密やかな溜め息を耳にし、ふと見ればエレシンスだった。主人の失態を目のあたりに、息をつきながらも微笑んでいる。タントルアスもそれに気づいたのか、エレシンスを見て笑みを返した。
「ありがとう。では、ジャイ・ハータ殿下。そう呼ばせて頂きます」
改めて盃を掲げて、タントルアスは微笑む。
「深みがあって、良い赤をしてる。まるで貴方がた御兄弟のお髪のようです」
テナン原産の葡萄を使った酒は、今期収穫の若いものだ。その色合いの酷似から、品名を領主兄弟に肖りたいとの上申も多い。しかし、アルジャダールはその一つ一つを断ることに決めていた。
名前をつければ、自ずと希少性が増す。領土を海に囲われるテナンにとって、真水の確保は優先度が高く、そして他領より難しい課題だ。安価で手に入る葡萄は、領民の水代わり。生命線といってもいい。そんな葡萄が、希少性を増して領民に行き渡らなくなるのは、好ましくない。
「テナン原産の葡萄酒です。酒にする前のものも、風味が良く美味しいですよ。後ほど居室まで届けさせましょう」
ジャロディインが加えて説明する。
よく冷えた爽やかな口当たりは、暖炉の火に当てられた身体に心地好いはずだった。ほう、と頷いているタントルアスを眺めつつ、アルジャダールも葡萄酒を口に浸す。
「豪傑と名高く聴いておりましたので、どのような方がいらっしゃるのかと思っておりましたが。貴女でよかった。安堵致しました」
盃を空にした口で、ジャロディインが言った。
〝豪傑の王女〟という野太い称号が、果たして本人に喜ばれているかは別として。何よりもジャロディインの人当たりの良さが、タントルアスの賛美を嫌味なく感じさせている。
メルトロー本国では、民衆の貧困を打開したという点で英雄視もされている。タントルアス本人にとっても、きっと〝英雄の王女〟の方が耳慣れた称号のはずだ。曲がりなりにも対戦国であったイクパル帝国側が、そう呼んでやるわけにはいかないのだが。
「ええっ、私が豪傑ですか?」
片眉を器用に潜めて、タントルアスが笑った。
「では、むしろ落胆なされたのではないですか。弟たちに比べたら、そこまで筋肉美に恵まれた体格はしておりませんから」
言って、タントルアスはその片腕を曲げて見せる。
引き締まったしなやかな筋肉が、軍衣を通しても見てわかった。タントルアスは長身だが、決して男性に勝る体格はしていない。そこそこの武芸しか嗜まないジャロディインと比較しても、細身にさえ感じられるほど。
この腕で大剣を振り回すなら、奇跡の御業と言えるだろう。小ざっぱりとした性格も含めれば、まさに豪傑である。
「いいえ、お可愛らしい方で良かったとお伝えしたかったのです」
ジャロディインの賛美に合わせ、小さな笑い声が響く。
「貴方とは気が合いそう」
意外なことに、そう答えたのはエレシンスだった。小さな笑い声と、嬉しそうな表情。我がことのように喜ぶさまは、主人への崇拝が駄々漏れに見えた。
「……エレシンス」
嗜めるように言って、タントルアスは「ところで」と話を差し替える。
「共同統治のご提案は、アルジャダール・ケルバ殿下と伺っております。テナン領土における各地の特色と領民の動向について、詳細を一度お話ししておきたい。後日お時間を頂くことは可能でしょうか」
アルジャダールは葡萄酒を口にして、弟へと視線を送る。
「領主としては俺の名前で通っているが、実務はジャロディインに任せている。可能なら弟と時間を合わせてやってくれ」
アルジャダールの返答に、タントルアスは沈黙した。不思議に思って視線をやれば、瑠璃色の瞳は驚きに見開かれている。
領主なのに名前のみ。実状、動いているのは弟であることが、理解できないのだろう。長子相続を常識として考えている一族にとって、「弟の方が人懐っこいから統治者に向いているだろう」という理由は、受け入れられないものかもしれない。そこまで考えて、アルジャダールは席を立つ。
「いいか、ジャイ」
「はい、勿論です」
弟が頷くのを待って、アルジャダールはタントルアスに向き直った。タントルアスも合わせて席を立ち上がり、僅かに遅れてエレシンスも倣う。
「では、これで失礼する。なんなりとジャロディインに相談して欲しい」
軽く合図して、アルジャダールは従者が扉を開けに来るのを待つ。
「アルジャダール・ケルバ殿下」
そうして開かれた扉を前に、タントルアスの声が背にかかる。アルジャダールが振り返ると、タントルアスは耳を薔薇色に染めた。
「殿下に愛称は――……」
と何か言いかけたところで、タントルアスはその首を左右に振る。
「いえ、晩餐をともにできて楽しかった。ありがとう」
タントルアスの人当たりの良さは、弟に通じるものがあった。この二人なら、きっと上手くやることだろう。
領土の共同統治は、後に婚姻に結びつくことも多い。ジャロディインとタントルアスが王笏をともに握れば、両国の和平も確固たるものとなる。
「こちらこそ礼を言う」
アルジャダールは僅かに微笑み、従者が開けた扉を潜るのだった。