169 竜血の呪い
突然の発火が起きたあと、フェイリットは意識を失った。
コンツェは何の躊躇もなく二人の元へ駆けつけてから、気づく。フェイリットを抱えたバスクス二世まで、片膝を地に落としていることに。
苦しげな息を吐いているが、バスクス二世の意識はあった。それよりも、問題はフェイリットだ。頰に触れても、揺すっても、ぴくりとも動かない。ただ首筋の脈は強く打ち、呼吸も均一に繰り返されている。
アルマ山で重傷の彼女を助けているから、間違いはない。フェイリットは無事のはず。コンツェは半ばそう願いながら、
「軍医は!?」
と周囲を見渡す。真っ先に駆け寄るであろうアンジャハティが不在ということは、答えを聞かずとも分かった。
「必要ない。……誰も動くな」
コンツェの問いに答えたのは、エレシンスの声だった。はっと横を見れば、バスクス二世の腕に居たはずのフェイリットが、エレシンスの腕に抱えられている。
「シフィーシュ、だと?」
エレシンスは強い視線でバスクス二世を眺め、歯噛みした。
バスクス二世が咄嗟に叫んだ、フェイリットの名前。
サディアナ・シフィーシュ・ファロモ=フィディティス――それがフェイリットの正式な名だった。メルトロー王国の慣例に従うならば〝シフィーシュ〟と呼ぶのは正解。しかし、あれほど打ち解けた関係を見せておきながら、今さら慣例の呼び名など使うだろうか。〝フェイリット〟と呼ばれることを、なによりもフェイリット自身が望むはずではないのか。
バスクス二世は空になった腕をしばらく見つめ、沈黙のまま立ち上がった。エレシンスにその目を向けるが、やはり何も言うつもりはないように見える。
「……貴様、」
エレシンスは捻り出すような怒声を張った。
「しらを切るつもりか!?」
バスクス二世の表情は、何も映してはいない。嗤うでも顰めるでもなく、漆黒の瞳が静かにエレシンスを捉えている。
初対面であるはずの二人の間に、儀礼的な挨拶はなかった。微かな違和感の元は、きっとこの二人の空気にあるのだ。とコンツェは思う。
「……何が言いたいのか、分からんな」
わずかの空白ののち、バスクス二世は返した。エレシンスが鼻で嗤う。
「誰だ? とまず問われるものかと思っていた」
そのエレシンスの問い詰めに、ディアスは小さな息をつく。
「では、誰だ?」
要求通りの台詞を聞いて、エレシンスの首に筋が浮かんだ。深い怒りはゆらゆらと彼女の髪を揺らす。その姿は、あきらかに人間とは思えない風貌だった。たいていの人物ならば〝何者なのか〟と疑問に感じるところだ。
「……覚えているのか」
エレシンスの片方だけの目には、涙が滲んでいた。決して弱さを表すものではない。強い怒りの雫が、ゆっくりと頬をつたう。
「何を?」
「しらばっくれるなと言ってるだろう! これを見ろ!」
エレシンスは、握りしめたままのフェイリットの手を無理矢理にこじ開けた。そこから真っ黒な塊を掴み上げ、
「炭化してる。こんな反応が、無知覚の者に起こる筈がない」
エレシンスは忌々しげに言った。
「アルジャダール!」
「私は私だ」
バスクス二世は低く答えて、エレシンスを見やる。
「その娘と同じくな。ディルージャ・アス・ルファイドゥル・バスクス――申し遅れたが、私の名だ」
エレシンスは肩で息をして、よろよろと後退った。フェイリットを固く抱きしめるまま、その柔らかい髪に唇をうずめる。
「覚えておけ。竜と契約した者の魂は、死後砕け散って消えていく。二度と同じ人格として生きることはない。……帰るぞエトワルト」
エレシンスは踵を返し、フェイリットを抱いたまま駱駝に跳び乗った。白虎姿のままシャルベーシャが、何も言わずに背を向けてくる。
「……アルジャダール……? どういうことなんだ、いったい……」
コンツェの呟きに、答える者は無い。白虎のままの姿で、シャルベーシャが横に並んだ。その背に跨り、思案のまま硬い毛を掴む。
その後ドルキア公国の門扉をくぐるまで、エレシンスは何も語ることはなかった。
*
急速に遠ざかっていく使者らを、ディアスはじっと眺めていた。姿も見えなくなった頃合いに、天幕の向こうからウズルダンが現われる。
「陛下、あちらの用意はとうに出来ておりますが。どうなさいますか」
「防衛線は崩すな」
「承知いたしました」
ウズルダンは先の出来事を問うことはせず、自らの仕事だけを見ている。なんともウズルダンらしい働きぶりだった。
ふと頬を歪め、ディアスはアルスヴィズの背に跨がる。
「防衛線に入る」
「信じてやらないのですか。……講和を、と耳にしましたが」
「机上で組み上げた策など、ひとたび外へ持ち出せば大なり小なり齟齬が生じるものだ。その軌道を修正する力が、あれらに果たして備わっているか」
その齟齬のいい例が、あの女になるだろう。
「応用は経験でのみ培われます。ディフアストンの人となりを思えば、生じる摩擦は我々にとっても大きいでしょう」
「ああ、やはり一筋縄ではいかんようだ」
エレシンスが再び彼女を抱き込むつもりなら、もうイクパルに未来は望めないだろう。
今から遡ること千年と少し。その断片的だった記憶の全てを、ディアスは取り戻しつつあった。
*