168 交じりあう意志
「白虎を僕にする覚悟はあるか? サディアナ」
エレシンスは静かな声で問う。
天幕から出た広場には、エレシンス、コンツェ、白虎姿のシャルベーシャと、後ろには警備の兵らがずらりと並ぶ。フェイリットは愛馬を間に挟み、ディアスと供に彼らに対峙する位置に立っていた。
「それって……」
と、誰に返すでもなくフェイリットは呟く。シャルベーシャの意思はどうなるのか。フェイリットは視線を揺らして、白虎の大きな体躯をそっと見やる。
心臓を授け、血を与える。エレシンスが言うほど、事は簡単に済まない。血を飲んで卒倒したフィティエンティや、苦しみに困窮したギルウォールの例もあるのだ。
竜の血が他に及ぼす影響ははかり知れない。まして心臓だなんて。
当のシャルベーシャはというと、琥珀色の三白眼で、真っ直ぐにフェイリットを見据えていた。その眼力の強さは、人の姿をしていた頃のシャルベーシャと変わらない。〝さっさとやれ〟とも、〝俺に構うな〟とも取れる眼差しを、フェイリットも見つめ返す。
「シャルベーシャに生きていて欲しいし……できれば兄にも死んで欲しくない」
シャルベーシャの戦場での役割が〝ディフアストンを屠る〟ことなら、それは果たされないことになる。けれどディフアストンの死は、突き詰めればイクパルの勝利には繋がらないはずだった。
シャルベーシャが死を選べば、結果ディフアストンも死ぬ。一見して最高司令官を葬り、形勢はイクパル側に転じたようにもとれる。
しかしメルトロー王国を動かしているのは、あくまで国王ノルティスのひと声。
そして、そのノルティスを説得しうる人物が、右腕と囃されるディフアストンであろうことも忘れてはならない。
今ここでディフアストンを失えば、戦況も大きく左右される。最悪の場合、メルトロー全軍が動いてしまう事態さえ考えうる。
「確か、捕虜交換と言ったなシマニ公」
フェイリットの沈黙を見兼ねたように、ディアスが声を発した。
「シャルベーシャの生存を望むのは私も同様。だが、二人ともそちらに行くのでは、もはや交換とは言えんな。利の比重はそちらに大きい」
並び立つディアスを見上げて、フェイリットははっとする。彼の横顔には、何の感情も浮かばない。親しげな笑みも、凄みのある威圧も、見てとることはできなかった。ただ相手に向けられる眼差しは、まるで鏡合わせのように同じ。
おそらくディアスは、コンツェを試している。
建前として使われた〝捕虜交換〟の名目。それをどう差し替えるのか、示せというのだろう。
「ディ……はふ!」
フェイリットは言いかけて、言葉をのむ羽目になった。横から差し出されたディアスの指が、唇をつまんだせいだった。阻まれても諦めきれず、もごもごと口を動かすうち、コンツェの咳払う声が聞こえてくる。
「……分かりました。では、ここはひとつ借りということにして頂けませんか。現状こちらに利があるとなった以上、その利をいずれお返しする形で。……如何ですか」
コンツェは苦い顔ひとつせず、ディアスの難題を受け入れた。
「ほう、具体的には?」
ディアスは鷹揚に問いながら、フェイリットの唇から指を離す。
フェイリットももう、何も言うつもりはなかった。コンツェが切り出したい言葉も、ディアスが引き出したい言葉も同じ。そのことに気づいたからだ。
「講和です」
そうして返ってきたのは、コンツェの簡潔な答え。
ディアスがそっと頷くのを見ながら、フェイリットは安堵の息をつく。
伝わった。
兄弟である二人の溝は、フェイリットが思う以上に深いのかもしれない。それでも、足並みをそろえたかに見える二人の意志が喜ばしい。
「ここでの借りは大きいぞ」
ディアスは噛みしめるように言って、その手を再びフェイリットに向けた。額にかかる髪をよけて、頭の後ろまで撫でていく。飼い猫を愛でるような仕草だった。
「陛下」
と、フェイリットは身をすくめて微笑む。
「お別れを言おうとしてるなら、もう聞きませんからね」
フェイリットの言葉に面食らってか、ディアスは小さな間を置いた。そして随分くだけた顔で笑って、「ああ、言わん」と返す。
「代わりに臣下をおまえに託す」
「お任せください」
頷いて、フェイリットは愛馬の首を優しくたたいた。もう少し、彼を助けてあげて欲しい――そうアルスヴィズに伝えるために。
アルスヴィズは何度か首を縦に動かし、小さな声で嘶く。
いつの間にかできている意思の疎通も、竜の力あればこそ。この力で誰かの命が救えるなら、もう出し惜しんではいられない。
「待て、忘れるところだった」
そうして、コンツェたちの居る側に、フェイリットが向かおうとした時だった。フェイリットの後ろ背を、ディアスが呼び止める。
「大事なものだろう。もう投げつけたりするな」
右手のひらを掴まれて、その上に彼の手が乗せられる。
「あ……そうでした」
エレシンスの眼。しかし、彼の手から丸いころりとした感触を知覚する間もなく――――、
「っ!?」
黄金色の宝石は発火する。
熱い。眩しい。そして、痛い。強い痺れと耐えきれないほどの痛みが、手から身体へと流れ込む。
「フェイリット!」
「サディアナ!」
「……シフィーシュ!」
いくつかの名を聴きながら、フェイリットは意識を闇に沈めていった。
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サディアナ・シフィーシュ・ファロモ=フィディティス。
それが国から与えられた名前であり、フェイリットの本名だった。
メルトロー王家では、特段の理由がない限り、初名ではなく次名を呼ぶ。ロティシュ・アシュケナシシム、ヒョルド・ディフアストン、ドリューテシア・ファンサロッサ、ハイセ・ギルウォール……とあるように。けれどフェイリットが〝シフィーシュ〟と呼ばれることはまずない。
シフィーシュでなく〝サディアナ〟と呼ばれるのは、未だ民衆の記憶に根強いかの英雄王と区別するため。
沈んでいく意識のすみで、フェイリットは思う。
――タントルアス・シフィーシュ。きっとかの古代王は〝シフィーシュ〟と皆に呼ばれたのだろう。
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