167 ザラナバルの正体
飛び出してきたのは、美しい月毛の色の馬だった。
「アルスヴィズ――?!」
アルスヴィズは月を背に棹立ち、わき腹を見せてフェイリットの目前へと降りた。鞍はないが、鼻先には轡が付いている。繋がれていたのを引き千切ってきたのだろう。轡の先の手綱は途切れ、アルスヴィズの両頰の下にだらりと垂れている。
「元気だった?」
フェイリットが問うと、アルスヴィズは荒い鼻息を噴き出した。鼻先をこちらに向けて、上下左右に頭を振っている。アルスヴィズの轡を外してやりながら、フェイリットはその首もとをぽんぽんと撫でやる。
「アルスヴィズ……なんだその変わり様は。私に対する態度と随分違う」
ディアスの自嘲の後で、フェイリットは笑った。〝愛馬としてしばらくそばに置いてもらっていたのだ〟とアルスヴィズは言っているのだが、その信頼をディアスは察していないらしい。
フェイリットが笑う理由を不審に思ってか、ディアスが眉間に皺を寄せた時。
「ご無事ですか!」
追いついてきた人だかりの中から、無事を問う声が聴こえる。トリノだった。警衛らしき兵たちを引き連れ、青い顔で駆けてくる。
「コンツェさ……シマニ公がお連れになった方が、手綱を切ってしまったのです」
そうしてアルスヴィズが暴れ出し、今に至るのだとトリノは弁明を終えた。
トリノがディアスとフェイリットに向けたのは、宮廷式の礼だった。よほど慌てていたのか、膝を折り首を垂れて、まくし立てるように言葉を続ける。
「ああ、申し訳ございません! 一度ならず二度までも……お引止めすることが敵わず!」
フェイリットははっとして、言葉を詰まらせる。一度目は、帝都を去る前日にカランヌらの侵入を許したこと。そして二度目は今。共通しているのは、どちらもフェイリットをメルトロー勢力へと引き戻すものであること。決してトリノのせいではないし、彼がどうこうできた話でもない。
「似た者同士」
柔らかい声が横から聴こえて、フェイリットはディアスを見上げた。細められた目はどこか眩しそうで、声と同じ優しさが込められている。フェイリットはトリノに向き直り、そっと頷いて返した。
「トリノありがとう。陛下とお話しできる機会をつくってくれて」
彼の助けを得られていなければ、ディアスと気持ちを通じ合わせることなどできなかっただろう。トリノに責任があるはずはないが、それを彼にいくら説明しても、納得はしてもらえない。フェイリットがトリノの立場なら、同じように思うはずだった。
似た者同士。まさしくディアスの言った通りだ。ならば弁明を越える感謝を示すほか、フェイリットには考えられなかった。
「いいえ、自分は何も……」
「ううん、ありがとう。トリノが助けてくれなかったら、今ごろどうなっていたか――」
そして、深々と首を垂れるトリノの向こうで、泰然として歩き来る人影が見えていた。
コンツェと、その横を歩くのはエレシンス。人影は二つだけで、ウズルダンから伝え聞いていたシャルベーシャの姿はない。遠目でも、シャルベーシャとエレシンスを見間違うものだろうか。フェイリットが訝しんでいると、ふとした拍子にコンツェの視線が下方へ向かう。その視線を同じくたどり、フェイリットは目を見開いた。
そこに居たのは、コンツェに並び歩く――真っ白な虎。
「シャルベーシャ……え、白虎……?」
その声が聞こえたのか、白虎が光る眼をじっとこちらに向けてくる。琥珀の、シャルベーシャと同じ色の三白眼だった。
「ザラナバルは呪いの血を持っている」
低く答えたのは、他でもないディアスだ。それはすなわち、〝シャルベーシャ・ザラナバルは呪いを持つ白虎だ〟と告げたに等しい言葉。フェイリットは呆然となりながらも、近づくシャルベーシャの大きな体躯を見つめる。
「半獣として生まれ、強靭な体躯を武器に長く重宝されてきた一族だが――一方でザラナバルは王たる者を喰う諸刃の習性を持っている」
「王を喰う? それって、」
言いかけて、フェイリットは息を飲んだ。真っ先に思い浮かんだのはディフアストンの姿。彼は、戦場で片腕を失っている。
シャルベーシャが喰ったのは、おそらくディフアストン。言いかえれば、ディフアストンは王としての素質があるということだろうか。
「だが、心臓まで喰いちぎらなければ、白虎はいずれ人間の毒で死ぬ。白虎が死ねば王も死ぬ」
それが〝呪い〟の所以だ、とディアスは言い結ぶ。
王を喰った白虎は、王と供に死ぬか、心臓まで喰い尽くして己のみ生き延びるしか術がない。
ディフアストンはもう、どうあがいても死から逃れることができない。そしてシャルベーシャも……。
「捕虜の交換を提案に参りました」
そうして口火を切ったのは、コンツェだった。アルスヴィズを間に挟んだ向こう側。あと数歩のところにとどまった彼らは、そっと額を動かすだけの礼をして見せた。
「捕虜?」
とディアスが答えて、コンツェが口元を引き結ぶ。その手には署名が印された文書が掲げられていた。テナン公王であるコンツェを始めとして、メルトロー王国第一王子ディフアストン、ドルキア公王イジャローテら上層の総意を表すものなのだろう。
「こちらが捕らえたこの白虎と、そちらが捕らえている少女です」
「なるほど。捕虜にしたつもりは無いが、そうなのか?」
「へっ?!」
急に話題を振られ、フェイリットは困窮する。そもそも捕まっていないし、サディアナ王女であることさえイクパル陣営に知られてはいないはず。捕虜というのは、コンツェなりの考えがあってのこと。
フェイリットはどうしたものかとディアスを見上げ、次いで肩を竦めた。
ディアスの顔には、幾度となく見馴れた表情がある。これは……からかっている。
「はは……」
と思わず声をもらして、フェイリットは愛想笑う。
ディアスとコンツェ。二人に血の繋がりがあるとはいえ、今は敵対する国の主同士だ。この緊迫した状況で鉢合わせてなお、愉快そうに振る舞うディアスの意図が知れなかった。けれど見慣れているものだから、フェイリット自身もまた、さしたる緊張を感じないまま。ディアスの視線を受けとめ続けている。
「冗談だ」
「ですよね!」
がっくりと頭を落としつつ、フェイリットは長い息を吐いた。
「でも……陛下、さっきのお話が本当なら、シャルベーシャは」
「どうにもできん話だな。だからこそ〝呪い〟と言われている」
シャルベーシャの体躯がやつれて見えるのは、気のせいではないだろう。
「コンツェ、わたしが戻るのは同意できる。従うわ。でも、このままだとディフアストンもシャルベーシャも助からないの。人を喰ったらシャルベーシャが死んじゃう」
フェイリットの訴えに、コンツェは眉根を寄せた。その視線が隣へ向かうのを見つけて、フェイリットは口を開ける。そうか、エレシンスなら。彼女がわざわざ同行してきたのには、〝呪い〟をどうにかできる手立てがあるからではないのか。
「この白虎を救う手はある。ついでにディフアストンをも救える」
エレシンスは答えて、その腕を胸の前に組んだ。
「簡単だぞ。シャルベーシャにおまえの心臓を与え、大量の血液を与え続ければいい。それで死の呪いは効力をなくす。……もっとも、死の呪いが主従の呪いに代わるだけの話だけれど」
まあどちらにせよ呪いは解けないな、と肩を竦めて、エレシンスは言った。
「白虎を僕にする覚悟はあるか? サディアナ」
死が主従を分かつまで。