166 真っ白な君の願い
フェイリットが着替えを躊躇しているうちに、天幕の外でざわめきが起こった。
外だが、近くではない。いくらか離れた場所にいるであろう人々から、緊迫した気配が伝わってくるのだ。
――まさか、ここに居ることがばれてしまった?
フェイリットはディアスに目配せをして、天幕の入り口を振り返った。頭に乗せたままだった着替え用の布が、反動ではらりと床に落ちる。それを拾う余裕はなかった。フェイリットが入り口に向かうと同時に、肩口をディアスの大きな手が掴む。
「待て」
抑えられ、フェイリットは慌ててディアスを振り仰いだ。今出ていかなければ、逃げる機会を失ってしまう。〝サディアナ王女〟と一緒だと知れれば、ディアスにとっても不都合になるはずなのに。
「はっ離してください!」
「……いいか、私の言うことをまず聞け。余程のことでない限り、これから報せの者がここへ来る。おまえのことを分かっているから、その役はトリノになるだろう。おまえの存在が皆に露見することは無い。どの道を辿って帰るつもりか知れないが、まずは状況を見てからが得策だ」
フェイリットはディアスの言葉を受けながら、震える息を吐き出した。確かにそうだ。何が起きたかわからない状況下。むやみに外へ飛び出しても、逃げられるとは限らない。
「……そうします」
肩口を掴んでいたディアスの手が、いつのまにか背中に充てられていた。背を支え、思い出したようにぽん、と時おりその手が動く。
急速に鎮まっていく鼓動に、フェイリットは驚いていた。先ほどまで、彼自身に動揺して鼓動を早めていたのだ。同じ人物の手なのに、不思議と心が安らいでいく。
フェイリットは静かに息を吸い込むと、ディアスに向かって視線を上げた。
「トリノが来るまで待ちます」
「ああ、それでいい。大丈夫だ」
低い声音が、彼の顎を通りフェイリットの頭へと響く。はい、と返事をしかけたところに、背後の幕が上がった。
「お楽しみのところ申し訳ありませんが陛下」
抑揚のない声が、外の風とともに吹き込む。はっとしてフェイリットが振り返ると、その声の主は美しい姿勢で頭を垂れるのだった。
「お久しぶりです、ダブラ=ラサ」
敢えてそう呼んだのであろう名前に、視界がじわりと滲んでいく。懐かしい。真っ白な紙という名前に、意味を与えたのは他ならぬ、
「ウズさま……」
ウズルダン・トスカルナ――皇帝と仲を違えたと伝え聞く、帝国宰相だった。
「立ち聞きは楽しかったか? ウズルダン」
「……長々と馬を走らせ舞い戻った忠臣に向けて、仰る台詞がそれですか。まったく。到着早々、トリノに人払いを触れ回らせていると聞いて何事かと思えば」
これですか、と言葉尻に加えて、ウズルダンの視線がフェイリットに向く。
宰相ウズルダンは帝都が陥落するやいなや、皇帝バスクス二世を見限り逃げ去った。それが帝都陥落の知らせと共に、報じられた彼らの顛末だった。
けれど現れたウズルダンを見れば、見限るどころか、逃げ去ったようにも思えない。おそらくは何らかの策のため、違えたように装っていただけなのだ。
記憶にあるままの懐かしいやり取りを前に、フェイリットは何も言うことができなかった。たとえ、ウズルダンに〝これ〟呼ばわりされても。
「外が騒がしいのはおまえの到着に湧いたせいか。……それにしては妙な空気が感じられたが」
「いいえ」
ウズルダンは後ろ手に幕を締め直し、わずかに声をひそめる。
「テナン・メルトロー軍より、使節が到着したのです」
「えっ?!」
使節、と繰り返して、フェイリットは目を丸める。
「心当たりがあるのか」
と、ディアスが続く。
「そ、うですね」
言うならば、心当たりしかない。突発的に竜へと変わり、どこへ行くかも告げずに飛んできてしまったのだ。ついでに城の天井まで破壊して。ディフアストンはさぞ怒っているだろう。
「要件は〝捕虜交換〟だと言っています。使節の長はコンツ・エトワルト・シマニ。なぜ彼が直々に現れたのか不思議で仕方ありませんでしたが……」
そう濁して、ウズルダンはフェイリットに視線を向ける。
「えっ、コンツェが?!」
使節と言うからには、ディフアストンに命じられた配下が数人、書面を持参したのだろうとフェイリットは考えていた。まさかテナン公国の頭首が、堂々と正面から乗り込んでくるとは思ってもみない。
「あの者の言い指す〝捕虜〟たる人物が、タブラ=ラサであることは間違いないでしょう」
「……おまえが応対したのか」
「いえ、応対はトリノが。私の駐在は伏せてあります。しかも、何の盟約を結んだのか、シマニ公は捕らわれたはずのシャルベーシャ・ザラナバルに騎乗して現れたそうです」
シャルベーシャに、騎乗? でも……一体どうやって?
フェイリットはウズルダンの説明に首をかしげる。けれど声には出さないうちに、頭上で話が進められていくのだった。
「喰った相手はコンツ・エトワルトなのか」
「いいえ、そうではないようです。シャルベーシャが喰ったのは、重傷の噂がある第一王子ディフアストンでしょう。それ故に尚更わからない。なぜ、」
シャルベーシャが、ディフアストンを喰った? フェイリットは衝撃のままに、二人の会話を考える。ディフアストンが戦場に出て、片腕を失ったのは確かだ。縫合を終えたはずなのに、充てがわれた被覆布には黒々とした血が滲んでいた。感じられた臭気を思えば、膿んでさえいたのだろう。
――まさか、シャルベーシャも人間ではないの?
そんな素振りなど、まったく感じなかった。エレシンスのように、同じ竜の種族なら感じ入る面もあるのだろうが。考え込んでいたせいで、フェイリットは二人が話をやめて視線を寄越すのに気づかない。フェイリット、とディアスに呼ばれてはじめて、はっと顔を上げるのだった。
「どうする、望みはあるか?」
おまえの身柄をコンツェに引き渡していいのか。そう問われているのだと理解して、フェイリットは頷く。
「和平を。そして、それを望むのはわたしだけではありません。必ずやまた、貴方のお目にかかります」
ディフアストンを説得し、戦争を終結させる。イクパルの国土を守ってみせる。
「期待している」
ディアスは鷹揚に笑うと、フェイリットの前髪に触れた。余韻を残す口づけをした後で、それを眺めていたウズルダンが咳払う。馬の嗎きとともに、ざわめきが近づいてきていた。
「トリノが来ます。おそらく時間を稼ぎきれなかったのでしょう。私は身を隠しますので」
「ああ」
ウズルダンを見送って、フェイリットはディアスとともに天幕をくぐり出た。そのうちに、近づいてくる喧騒がただ事でないのに気づく。
馬の嗎きと蹄の音、それを諌める声と、砂を蹴る複数人の足音――。
飛び出してきたのは、美しい月毛の色の馬だった。
(大真面目に〝着替え〟を〝生着替え〟と書いていて、さっき気づいて直しました……)
お読み頂きありがとうございます。次回のお話はきっと動物だらけになります。
お楽しみに^^