165 きみを抱く
フェイリットは喉に吸い込んだ息を、そっとしゃくりあげた。
どれほどの時間が経ってしまったのだろう。歯の根が合わないほどだった震えは、いつの間にかおさまっている。涙やら鼻水やらで、盛大に濡れた頰もすっかり乾いていた。
震えがおさまり涙が乾くまで、ディアスは抱き締めてくれていた。顔を上げた先に闇色の瞳がある。緩やかに細められる眼差しに、安堵の色が浮かぶ。
「……平気か」
両頬を挟み込む大きな手。温もりを感じながら、フェイリットは瞬きで肯定を示す。
帝都を――ディアスの元を離れてすぐ、身篭ったことに気づいた。そして第二の故郷といってもいい、慣れ親しんだ帝都が陥落。ディアスは死んだと報じられた。彼との子も、立て続けに喪った。
ぽっかりとあいてしまった胸の空洞を、誰とも分かちあえないまま。フェイリットは心の底に、その暗がりを押し込めていた。
コンツェもアシュケナシシムも、ギルウォールもフィティエンティも――ありがたいことに、心身とも寄り添おうとしてくれた。フェイリットも「大丈夫か」と訊かれれば、「大丈夫だ」と答えた。その時は、それが偽りのない本心でもあったから。けれど、
「もう、大丈夫です」
虚勢では決してない心からの言葉。一番理解してほしい人に心中を打ち明けることが、これほどに心を軽くするとは。
身によどむ不安に、陽が射していく。この影が消えることはきっとない。けれど、ディアスが知っていてくれる。
「砂漠に生きる者たちは皆、天に召されたのち星になるそうだ。夜空に吸い込まれ、神のゆりかごに戻り、地上を眺めて穏やかに過ごすのだと。人も駱駝も、馬も山羊も皆同じだ」
初めて聴く伽話のはずなのに、不思議と耳に懐かしい。低く柔らかなその声を、フェイリットは目を瞑って聴いた。
「そしていつかまた、大地に降りて命を与えられる」
砂漠に宿る生命は、そうして巡っていくのだとディアスは言う。
「いつかまた……」
フェイリットは笑みを浮かべようとして、失敗した。乾いた涙が頰に張りつき、微笑にさえならなかった。ひく、と頰を引きつらせたのを見つけて、ディアスが息を漏らす。
「腫れるな。冷やしたほうがいい」
両頬を挟んだままだったディアスの手が、ふと外れる。彼はそのまま立ち上がり、天幕の隅に歩いて行った。
戻り来た彼の手には、水差しが握られていた。その水を使うつもりなのだ、と知って、フェイリットは慌てて立ち上がる。
水差しごとディアスの手を抑えれば、彼が不可解な目を寄越した。
「どうした、洗ってやろう」
「いえそんな! いいです、使わないでください」
井戸や泉の水は、そのまま飲めるわけではない。煮沸したりろ過したり、必ず手間が加えられている。行軍中であろう部隊で、水の貴重さは計り知れない。それも、平時ではない今は尚のこと。自らの飲み水を使い、フェイリットの顔を洗おうとしてくれているディアスを留めるには、充分すぎる理由だった。
「……水の心配をしているのか」
フェイリットは無言のまま、水差しを掴む彼の手を握る。
ディアスには、自分の不利益を省みず他者を救おうとする面がある。この水も、突き詰めればフェイリットを国に戻したことも。
そして、その最たる自己犠牲が〝皇帝〟という立場にある。
――よく聞け。私は〝皇帝〟という肩書きを被せた、道具でしかない。
だから心配する必要はない、と以前宣ったディアス。それを思い、フェイリットは緩く首を動かす。
「……違います」
水を気にかけているわけではない。本当は、その先のディアスが心配なのだ。
「フェイリット?」
暗愚の狂帝として倒されたなら、遺された味方を不幸にしてしまう。だから簡単に死ぬわけにはいかない。
そう語った彼の言葉を思い出し、フェイリットは二の句を渋る。
〝皇帝〟という立場は、ディアスにとって重荷なだけなのだろうか。
思考が深みに向かい始める。フェイリットは掴んでいたディアスの手を離して、無理矢理に笑ってみせた。乾いた頰が引きつるけれど、最初ほど皮膚に抵抗は感じない。
「大丈夫です、洗うなら外の泉を使いますから。それに、」
視線を動かすと、外はすでに真っ暗だ。
いい加減、帰る算段もつけなくてはならない。言葉通りに泉を目指さないまでも、人気のない場所を探して竜になる。そうして初めて、もと居たドルキアの城館を空から探すことができる。
ここが砂漠のどこなのか分からない上、ドルキア公国の方角も知れない。きっと尋ねれば、ディアスは容易に教えてくれるだろう。それでも、フェイリットは彼の口から情報を得るような真似をしたくなかった。
「それと、このまま立ち去ることをお許しください。きっと朗報を持って戻ります」
朗報――それは、講和の話し合いを卓上にのせること。ディフアストンを説得し、両者の溜飲を下げること。
戦争を終わらせ、これ以上の犠牲をなくすこと。
おまえならできる。そう言ってくれたディアスの信頼に、報いたい一心だった。
「そうか……」
寂しい、と続けそうな声で呟いて、ディアスは頷く。
「ならば、待っていよう」
そう続けた彼に向けて、フェイリットは微笑んだ。
これは別れではない。待ってくれている人の元に、いつか戻る。自ら去ることへの言い訳をつけ、フェイリットは気持ちを落ち着かせた。玉座の間の前室であったような、永遠にも思える別れでは決してないのだ、と。
「……あ、それと何か布を頂けませんか。この軍衣をトリノに返さないといけなくて」
身に纏う衣装を摘んで、フェイリットは言う。
「布?」
このまま竜化したら、借り物の軍衣は確実に裂け散るだろう。
トリノから借りたものをばらばらには出来ないし、放り捨てるわけにもいかない。何より、トリノの貴重な換えの一枚なのだ。ここで着替えて、トリノに伝え置くのが一番。そう結論づけての行動だった。
「手頃なのは、その寝台に使っているものくらいだが……」
釈然としない面持ちでディアスが返す。せっかく借りたものを、なぜ着たまま帰らない? と、その目線が問いかけていた。
簡素な脚つきの寝台には厚手の絨毯が敷かれていて、その隅に生成りの綿布が畳まれている。絨毯に肌を付けないための敷布なのか、夜気を避けるための肌掛けなのか。見たところ判断は難しい。
寝台に目を向けたまま考えていると、ディアスがその綿布を拾い上げた。
「これだけだが、私には必要のないものだ」
使うといい。そう言い添えて、綿布を手渡される。
「ありがとうございます……あの、ついでに聞いてもいいですか」
「ああ」
「……ずっと、眠れてないんですよね」
フェイリットは使われた形跡のない寝具と、ディアスとを見比べていた。
視線を受けて、彼は苦虫を噛んだような顔で嗤う。
「そうだが」
夢見が悪いから、寝台で横になって深く眠ることを由としない。古傷にまつわるものなのか、背にはしる傷痕が疼くのだとも。そんな夜を、ディアスは帝都に居た頃からずっと続けていた。
尤も、解決策がないわけではない。
眠る彼の隣にフェイリットが居るか、疼く背の傷に薬代わりの血を塗るか。以前はそのどちらかで、不思議とディアスが深く眠れていたことをフェイリットは知っている。
「あの〝まじない〟を考えているのなら、遠慮する」
フェイリットの手を持ち上げて、ディアスが厳しい目をする。指先はというと、今まさに爪を立てたところだった。じわり、と盛り上がった血の雫が、指の先に小さな珠をつくる。
「ちゃんとお休みになったほうが」
「心配は要らない。おまえの身体に傷をつけてまで、惰眠を貪りたいとは思えんしな」
そう言うと、ディアスは血の滲むフェイリット指先を口に咥えてしまった。
「はっ、わ、だ」
絡みあう視線に、抗い難いほどの熱を見てしまう。咄嗟に自らの手を取り戻し――、
「あっ!」
フェイリットは慌てた。……ひょっとしてこれは、彼に血を与えたことになりはしないか。
竜の血には、相手の命を奪うほどの力が秘められている。同時に、その寿命を引き延ばすことも。フェイリットの脳裏に、卒倒したフィティエンティやギルウォールの姿が浮かぶ。
指を舐められた気恥ずかしさに、忘れてしまうところだった。危うさに焦り、フェイリットは彼の両頬を掴む。
「だっ大丈夫ですか……?!」
「なんだ、急に」
ディアスは怪訝な表情で、僅かに首を傾げた。顔色は変わらず、苦しげな様子はみられない。
「あ、ええと、険しい顔なさってるので苦しかったり、」
「……元からだ」
「おおお、力がみなぎってくる……! とか、生まれ変わった気がする! とか」
「……全くない」
「あれ? そうか。平気……なんでしたっけ?」
拍子抜けして、フェイリットは長い息をつく。
思い返せば以前にも、まったく同じ状況に陥ったことがあった。彼の背に初めて、薬代わりに血を使った時のこと。フェイリットが噛んだ手のひらの血を、ディアスが舐めとったのだ。意図せず同様のやりとりを経て、彼がまったく平気だったことを思い出す。
「平気もなにも……おまえの血には、なにか魔術のようなものが込められているのか」
確か前にもこういうことが……、とディアスまでが訝しみ始める。
「わたしの血……」
フェイリットは話題を反らすか、巧い言い訳で乗り切るか考えた。そして竜であることを打ち明けるかも。
第一、玉座を追われている瀬戸際の彼に、「わたしは竜です、契約してください」と言っていいものかどうか。
フェイリットが敵国と契ったと知れれば、もうメルトロー国王は後先を考えないだろう。危険とみるか裏切ったとみるか。その論点も別にして、きっと全力でイクパル国土を滅ぼしにくる。最強の兵器に向けて、全兵力を投入する。
竜一匹に、全国民を差し向けることさえ厭わないだろう。
フェイリットは身慄いした。伏せた目で指先を見れば、すでに傷が治りかけている。この身体の秘密を、話すべき時があるとするなら。
――まだ駄目。せめて、講和が成立したあとでなくては。
「講和を成すことができたら、お話ししたいことがあります」
血のことも、竜であることも、なにもかもをディアスに打ち明ける。彼の身と、イクパルという国に一定の安寧が訪れたのちに話す。
そうして初めて、ディアスに問うことができる。フェイリットを――竜という力を従える君主として、千年を生きる意思があるのかを。
「そうか」
ディアスはすんなり許諾した。言動の怪しさなら、フェイリットにこそ自覚があった。もし逆の立場なら、根掘り葉掘り訊いているところだ。「なぜ、」と問うのもずれている気がして、フェイリットは肩を落とす。どうにも物足りないのだ。
「……が、訊いて欲しそうな顔をしているな」
思考を読んだかのように、ディアスが笑う。その眼差しには、面白い、とはっきり書かれているようだった。
「いえ、あまりにあっさりしてたので」
悄気て声を落とすフェイリットの手から、生成りの綿布が引き抜かれていく。そうしてそれが、なんの脈絡もなくぽん、と頭の上に乗せられる。
「物事には相応しい時分というものがある。話したくないと言っている者の口を割らせても、有益な情報には到底なりえん。それを私は野暮と思うわけだが」
言葉を途切れさせて、ディアスは「ああ、」と何かを思いついた顔になる。
「〝有益〟ついでに、私あての褒美を変えてもらうことにしよう」
そう言うと、ディアスは数歩下がって寝台に腰をかけた。足を組み、腕を胸の前に組んで悪戯げに微笑む。
「着替えて行くと言っていたな?」
問われて、フェイリットは思わず周囲を検める。天幕には当然、仕切りも衝立もない。まさか……ディアスは着替えを観察するつもりでいるのだろうか。呆然と立ったままでいると、
「――さあ脱ぐといい。ここでじっくり楽しませてもらおう」
ディアスはそう促して、心底愉快そうに笑むのだった。
◇あとがき◇
お読み頂きありがとうございました^^
フェイリット「へ…………変態!!」