164 夜空のゆりかごに
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とっぷりと日が暮れても、遊戯盤の勝敗が決まることはなかった。互いにのらりくらりと決定打を交わし、勝利へと向かう手駒を使わない。勝ちを譲ろうとするディアスの目論見に、フェイリットが抵抗する形が延々と続く。
兵棋を手中に弄びながら、ディアスは驚嘆していた。
実戦の経験すらない若い娘が、大地図の上で広大な模擬戦を操る。それが勝ちにも負けにも偏らない、絶妙の拮抗を成り立たせているのだ。
まるで歴戦を経た知将と対峙している気にさえなって、ディアスはまじまじと彼女の手筋を眺めていた。
たとえ軍役を十年重ねたとして、同等の境地にたどり着ける者はごく僅か。意図的に盤面を創るフェイリットの力量は、類い稀としか言いようがない。
何がしかの事情があって、帰るつもりではなかったのか。その疑問を口にするのも憚られるほど、湖水色の瞳は活き活きと輝いている。瞳を彩る金色の睫毛は、長らく下に向けられたまま。
日暮れに気づかせてやるべきか――と、ディアスは一方で考えながら、フェイリットの持つ兵棋に指をかける。
「……時を見誤れば、私の軍は〝奇岩の回廊〟を抜けてしまうぞ」
ドルキア公国の入り口を示し、低い声で言う。地図上では平坦な大地も、実際その場に立ったなら、凹凸や悪路に行動を掬われることが殆ど。フェイリットが動かした五千の騎馬隊からなる兵棋を、ディアスは指先で弾き倒した。
「ああっ!」
「私の勝ち、で決まりのようだな」
フェイリットが窮地に何を考え動くのか。見届けたい気持ちを堪えて、ディアスは勝ちに進んだ。拮抗を切り崩すのは簡単。フェイリットを〝勝たせる〟ために動かしていた騎兵を、一転して引き上げればいいだけだ。
「……負けました」
負けを喫してなお、フェイリットは食い入るように盤面を眺める。黙々と回想を始めたらしい横顔を、ディアスは心穏やかに見ていた。
彼女が欲していたのは、このような時間だったのだろう。バッソス公国で過ごした日々の、毎夜の逢瀬のような時。
「さて。勝ちの褒美について取り決めがなかったが」
フェイリットの手を引き寄せて、ディアスは悪戯げに告げる。引く力は抗える程度の加減だったが、彼女はすんなりと腕の中に収まった。
「ほ、褒美?!」
伏せられていた睫毛がぱっと上向き、そこに待ち兼ねた色の瞳を見つける。眼差しがまじわるのを愉しみつつ、ディアスは苦笑していた。帰り時に気付かせるどころか、真逆のことをしようとしている。
「望んでもいいか」
その懇願の言葉に、フェイリットが目を見張った。
「……そ、れは」
胡坐に組んだ膝の上に、小柄な身体がすっぽりと収まっている。逃げ場のない腕の中、真っ赤な顔でフェイリットが身じろいだ。こちらの意図する〝望み〟を、すでに察知している顔だ。
「嫌か?」
ディアスの問いに、「嫌」と反射的に応じかけたフェイリットが、慌てたように頭を振り回す。
「……じゃない! 嫌じゃないんです! 陛下とキスしたいし、もっと触れたいし、いっそ食べちゃいそうなくらい好…………う、しまった! どうしよう……こうなるってわかってたはずなのにわたしったら……!」
「……不思議だな。なぜか後半、おまえの心のうちが丸聴こえだった気が」
「わあぁ……陛下とあれこれしたいなんて恥ずかしすぎて言」
両頬を自らの手で押さえ、フェイリットは大仰に身もだえている。恥ずかしいのか、嬉しいのか、苦悶しているのか、困惑しているのか。その全てがわかり易すぎて、むしろ何だかわからない。ディアスは笑いを堪えながら、
「ああ……わかった。なら、まずはその呼び方を戻そうか」
と譲歩の提案を見せた。
「私の名前を覚えていてくれたなら嬉しいが」
〝陛下〟と呼んでいた時間のほうが、フェイリットには長い。癖で呼びはじめた敬称は、ことのほか彼女に染みついているのだろう。ディアスは親指の腹でフェイリットの唇の輪郭をなぞり、透明な瞳の奥を覗く。
「あっ……そういえば何度も呼んでしまいましたけど、もうわたしの陛下じゃなくて、ええと」
「わたしの陛下……か。まあそれも悪くない」
ずっとおまえの陛下でいられたら、どんなにか喜ばしいことだろう。フェイリットの耳に囁いて、ディアスはその耳朶を口に含む。
「ディ……ア、……ディアス」
顔を染めたまま、フェイリットは視線を他へ向けた。平静を装おうとして、どうやら失敗したようだ。彼女の声が裏返ったことを指摘するでもなく、ディアスはただ笑う。
「――そう、いい子だな」
褒められて、フェイリットはわかりやすいほどに照れた。この反応を見たいがため、彼女を揶揄うのはやめられないのだ。ただ触れ、一日を賭して愛でても、きっと飽きることはないだろう。思いながら、ディアスはフェイリットの背を抱き、大地図の上にそっと寝かせた。触れ合った鼻先のむこうで美しい色の瞳が揺れる。
「ディアス、わたし……っ」
柔らかな頰に鼻をすべらせ、辿りついた唇にくちづける。待ち兼ねたように身を伸ばすフェイリットを抱きしめ、ディアスは返される愛らしい反応を見つめた。
深くなるくちづけに応えて、彼女の手が首もとにまわされる。けれどその手が小刻みに震えるのを、ディアスは見過ごさなかった。
「……フェイリット」
嫌ではない、と言ったその身体が、制御しきれないほどに震える。フェイリットの異変をまじまじと見つめて、ディアスは眉を顰めた。離した唇を追うように、フェイリットが首を動かす。その湖水色の瞳が、闇の濃くなった天幕に明るく照って見える。
「私が怖いか」
彼女の震えの原因を探して、ディアスは口を開く。
思えば、怖がられていたこともあった。嫌われようと振る舞ったせいでもある。フェイリットの手を片手で包み、探るようにその瞳を伺う。
「……怖いです」
フェイリットの答えを聞いて、ディアスは小さく息を漏らした。こればかりは、自分の咎に他ならない。予想はしていたことだが、いざ言葉にして聞くと――。
「もう、誰も失いたくなくて」
美しい瞳に、透明な湖水が湧きあがる。瞬きでこぼれ落ちる雫を、ディアスは目で追っていた。
「失う……」
もう誰もという言葉は、一度失った経験のある者からしか聞くことのない台詞だ。フェイリットが失ったものが何だったか、ディアスはじっと思い起こす。
愛していることを告げず彼女を祖国に追いやった。本人にしてみれば、切り棄てられたようにさえ感じただろう。彼女に負わせた傷の深さは、察するに余りある。
「おまえを悲しませるようなことを、私は望んではいない」
国同士の情勢は、最悪の一途をたどる。講和を互いに受け入れても、その先の未来に――この関係の未来に保証がないのは同じだ。それでも愛さずにはいられなかったと、どう説明したら理解を得られるのだろう。
考えるまま、ディアスはフェイリットのこぼす涙に頰を当てた。夜気に冷えた頰は感覚が朧ろで、合わせると境界がまるでなくなる。
「わたしもです……あなたを悲しませたくない。でも、」
フェイリットの震える両の手は、いつのまにかディアスの手を包んでいた。その手をゆるゆると引き寄せて、フェイリットが言う。
「知っていてほしいんです」
ディアスははっと目を開いて、フェイリットを見つめた。身体の重なりを怖がった彼女の手は、ディアスの手を包んで腹部に充てがわれている。それが示す意図を、ディアスは一つしか思い浮かべられなかった。
「子が……?」
と喜びかけて、ディアスは口を噤む。〝失った〟と示唆する彼女に、その先を訊くことは憚られた。こちらから尋ねるのは、残酷な仕打ちにほかならない。フェイリットが涙を溢れさせるのを、何度も指でぬぐいとる。
「はい……でも、だめだったんです」
ごめんなさい。顔をくしゃくしゃにして、フェイリットは声を殺して泣きはじめていた。
――なんと大きな重責を、彼女ひとりに背負わせてしまったのだろう。ディアスは衝撃のまま、フェイリットを抱きしめて歯噛みする。
「おまえ一人に背負わせてしまったことを、私は生涯悔いるだろう」