163 王血を喰らう
*
時を同じくしてコンツェが案内されたのは、ドルキア城塞における北端部。広陵なアルマ山脈を横手に、東方を見晴らす役割を与えられた物見塔の地下だった。
牢として古くから備えられた場所だが、機能したのは何年か振りなのだろう。先導する兵はまだ若く、周囲を見まわす様子はおぼつかない。湿り気のある石壁に手をつき、階段の暗がりに燭台を差し向けて降りていく。初めて訪れるコンツェと同じくらい、その若い兵は慎重な足どりで歩いた。
尤も……収容されている〝存在〟が緊張を引き起こすのは無理もないが。
魔物が出ると怖れられるヤンエ砂漠で、ディフアストンの片腕を喰いちぎったとされる白虎。人とも獣ともつかぬ不気味な魔物を、ドルキアの衛兵たちは持て余しているようだった。
「お気をつけて。収監して十日は経ちますが……ずっと暴れ続けています」
コンツェは最後の段に足を置いて、思わず顔を顰めた。
鼻をつく獣特有の臭気。血の臭いと、鎖と格子の錆びた臭い。何より酷いのは、流される血も癒えぬままの傷も、排泄さえそのままであったこと。檻の中をうろうろと歩きまわり、時おり繋がれた鎖に身体を打つ獣は、もはや元の白い形りをしていなかった。
「食餌は……」
と言いかけて、コンツェは口を噤む。檻の中を見ると、なにかの肉が四方に散らばっている。何日か前に投げこまれたもののようだが、食べられた形跡はない。肉はそのまま腐って異臭を放ち、牢の中の空気をいっそう濁らせている。
フェイリットを連れ戻す、とディフアストンに確約した。一昼夜のうちに、それも本人の足で戻り来させる、という補足までついている。代わりの条件としてコンツェが提示したのは、白虎の処分を自分に任せる旨の要望だった。
太陽が真上に昇った今、残された時間は半日にも満たない。限られた時間でフェイリットを捜し、このドルキアの城館まで連れ戻す。そのために、コンツェは白虎を利用するつもりだった。
突きつけた要望にディフアストンが返したのは「好きにしろ」という一言のみ。
コンツェは拍子抜けしつつも、案内を願って地下牢にたどり着いた。
どうやらディフアストンは、激情に利を忘れるほどの人柄ではないらしい。あっさり通った要求を前に、コンツェは大国を牽引する王子の評価を変えていた。
白虎は檻の中をぐるぐると歩きまわる。四肢に繋がれた重い鎖が、岩肌をガリガリとえぐっていく。溝になった床の傷は、白虎から流れ出た血で川のようになっていた。
「お待ちを、」
思わず檻に近づくコンツェを、若い兵士がとどめる。
「畏れながら、ご指示通り鍵はお持ちしています。ですが、生きたまま解き放てば、我々のうち何人……いえ、何十人かは犠牲になることでしょう」
人の三倍は超す巨大な体躯には、幼児の腕ほどもあろうかという太さの牙がある。鎖も枷も無い状態で外に解き放てば――という彼らの不安は相当のもの。しかも、これまで散々〝人なのではないか〟と勘ぐられてきた獣は、野生を剥き出しに牢をうろうろと歩くだけだった。
「ああ、犠牲者がでる。こいつが……荒れ狂ったただの獣ならな」
返ってきたコンツェの言葉に、兵士は大きく目を見張った。そうして引き退る兵士に頷き、コンツェは檻のもとへと歩み寄る。
「おまえ、捕虜にも数えられてないんだな」
目が合った途端、白虎が一足飛びに突進してくる。鉄格子に身体を叩きつける寸前で、獣を繋ぐ鎖がぴんと張り詰めた。
「オオオオオオン」
白虎は苦痛に叫び、音を立てて床に倒れ込む。そのせいで起こった風が、ぶわりと頬を煽っていった。コンツェは格子に張り付いたまま、僅かに目を細める。
「ここで死ぬつもりか」
四肢に嵌められた枷が、毛皮に深く食い込んでいた。枷を留める鎖は、檻に届くぎりぎりのゆとりしかない。激しく動けば、その分の反動がすべて白虎自身に跳ね返ってしまう。そうしてふらふらと立ち上がり、鎖を鳴らして再び歩きまわる。そんな動作をずっと続けてきたとすれば、生傷は癒えることはないだろう。
こびりついた血のせいで、白いはずの毛並みもどす黒く見える。轡の合間から泡まで散らし、何度も何度も突進を繰り返す。その度に床に倒れ、白虎は血混じりの泡を口から溢れさせていた。
「ザラナバル!!」
雑音を引き裂いて、コンツェは怒声を響かせた。牢の空気がびりびりと震え、白虎が動きを止める。その尖った耳がこちらに向くのを待ちながら、コンツェは繰り返す。
「ザラナバル、なんだな?」
それは、酒の席で一興となる類の噂だった。
奴隷騎兵連隊の中に、人ならざるものが複数含められている、と。
一族の区別を〝ザラナバル〟といい、遊牧民に身をやとす彼らは、血を継ぐ子どもを戦士にするため都へと売ってしまう。並外れた身体能力と人ならざる獣の力が、必ずや評価されるとわかってのこと。そうして家格や身分を超えて、密やかにザラナバルは重宝されていく。
近衛の男たちは自らの屈強さを語るとき、〝実は俺はザラナバルなのだ〟と冗談めかす。興を盛り上げるのに誰もが使う常套句だった。その程度の、子どもの伽話のような噂なのだが……。
「……それなら俺の顔も知ってるんだろう」
黄色い牙をちらつかせ、白虎は音をたてずに唸る。威嚇とも同意ともとれる静かな沈黙に、コンツェは懐に手をやった。
「フェイリットのことも」
外套の内側から一冊の本を取り出す。よく見えるよう掲げてやると、白虎はすんなり牙を納めた。身じろぐ拍子に、ちゃらりと鎖が小さく揺れる。琥珀色のまなざしが、驚きに染まって見えた。
〝我が最愛の娘へ〟と題された本は、フェイリットの手に渡されるべきもの――そう気づく人物が現れることなど、考えもしなかったのだろう。
琥珀色の三白眼を細めると、白虎は本からコンツェへと視線を移す。鋭い眼差しには、おぼろげながら既視感があった。
――戦場じゃ卑怯もなにも勝った方が偉いんだぜ。敗者は黙って搾取されるもんだ。
――だろ? エトワルト王子様。
像を結んだ男の姿に、コンツェは「ああ」と息をついた。
いつのまにかフェイリットの近くで見かけるようになった、マムルークの男。バスクス二世が成したという、ヤンエ砂漠踏破も同時期だった。思い至る人物が仮に白虎だったなら、すべてに説明がつく。
「マムルーク・シャルベーシャ」
名前を呼ぶ声に耳を動かし、白虎は長い尾で床を叩いた。不機嫌そうに見えるのは、渋々の肯定だからだろう。コンツェは満足げに頷くと、ついに本題を口にした。
「手を組まないか。返答次第で、おまえを生きたまま陣地に帰してやる」
否とは言えない取り引きを耳にして、白虎――シャルベーシャは、諦めるように身を伏せた。