162 君を守るため、
「フェイリット」
顔を覆う手をディアスに掴まれ、フェイリットは思わず首をすくめた。
彼が〝他のだれか〟を選んだ事実など、知りたくはない。先ほど泉で会った女性でも、他の誰かであったとしても。以前なら気にもとめなかったであろう彼の女性遍歴に、簡単に傷ついてしまう自分がいる。
ディアスの腕の中の心地よさも、髪を梳いて撫でる指先も、くちづけの方法でさえ――知っている女性は、数え切れないほど存在する。
「何を不安がっている」
ディアスに言われてなお、フェイリットは頭を横に動かす。
「わたし……やっぱりだめみたいです。さっき愛妾の経験もあるって大口を叩いたくせに、その……嫉妬を、」
「なるほど」
顔を覆う手の甲に、柔らかい温もりが降りてくる。それがディアスの唇だと理解した時、フェイリットの手は彼に握りとられていた。
「他に誰が居ても居なくても、私はおまえにこうする。この意味が分かるか」
見ろ、とディアスは言った。そうして手の甲から手のひらへ、彼の唇が移っていく。
フェイリットは目を閉じたまま、唇の行く先を追っていた。差し出した手の位置と、長身のディアスの顔があるだろう位置。もう、目を開けずとも分かってしまう。
彼の示した意味。それが、跪いて手の甲にくちづけを落とす、〝求愛〟の仕草であることを。
〝他の誰がこの場に居ても、おまえに求愛してみせる〟
そこまで言われては、フェイリットにはもう目を開けるほか選択肢はなかった。反射的にディアスを見つめ、次に彼の後ろへと視線を動かす。けれど、
「あ、れ……?」
やっとの思いで確認した天幕の中の光景。あれだけ騒ぎたてたのに、
「……誰もいないじゃないですか」
天幕の中には自分たちのほか、人がいる様子がない。
拍子抜けした気力とともに、身体の力も抜けてしまう。安堵なのか困惑なのか、わからない感情のまま膝が床に落ちていく。
そうして膝をつく直前に、ディアスの手が差し出される。
「安心したか」
先ほどまで軍議でも開いていたのだろう。天幕の中心には、大きな地図が広げてあった。それを囲む幾枚かの絨毯と、葡萄酒の入った器がひとつ。余計な調度品は見当たらず、身の回りを世話する小姓の姿もない。寝泊まりしたはずの脚つきの寝台には、綺麗に畳まれたままの寝具がのせられている。
「おまえの気にしている誘いなら、全て断った。手ぶらで返す訳にもいかず多めの報酬を握らせはしたが……」
ディアスの言葉通り、天幕の中はおよそ私的な空間とは言えない光景だった。フェイリットは内心でほっとしながら、誰も触れてさえいないであろう寝台を垣間見る。
夢見が悪いと言いながら、椅子でばかり休息をとっていたディアス。見る限り彼の状況もまた、なにも変わっていないのだった。
「おまえを知ったらもう、他は抱けない」
「……ごめんなさい」
肩を落としてから、跪いたままのディアスと目が合う。
「あっ!! ……えぇ?!」
「残念だな。私はついに振られたのか」
謝罪の言葉は、彼を信用できなかったことに対するもの。求愛を断るものでは決してない。言ってしまった言葉と自らの状況に慌てて、フェイリットはディアスにしがみついていた。
「ええ……色々とずるいです、陛下」
「おまえはいつも真っ直ぐだな」
フェイリットの髪に指を差し込みつつ、ディアスが言う。
「ずるいという評価は甘んじて受けよう。私は立場やしがらみに縛られたずるい男だ。こんな局面にならなければ、形振りも忘れられない。本心を明かすこともせず……すまなかったな」
いいえ、と頭を振って、フェイリットは闇色の瞳を覗く。夜空のように濃い色は、吸いこまれてしまいそうなほど深い。暗がりも、微かな希望の光も併せて、この瞳は映し出している。
「あなたはイクパルの皇帝で、わたしはメルトローの王女です」
自分の現在の位置を、噛みしめるようにフェイリットは呟く。
「……ああ。そうだ」
「敵、なんですよね」
言葉を受けて、ディアスは何も言わなかった。形振りを構ってしまうのは、互いに同じ。国同士を巻き込んだ、この大きな抗争を取り払わないかぎり何も変わらない。
「あなたの望みは何ですか。このままこの国の最後の皇帝として、テナン・ドルキア・メルトローの三カ国に討たれるおつもりですか」
フェイリットの言葉に、ディアスが苦い顔で笑う。その視線が向かうのは、広げられた大きな地図だった。すでに兵棋は片付けられているが、考えるように動く瞳は、今も戦況を描いているに違いない。
「私だけが討たれて終わりなら、まだいい。私に味方した者たちに、苦難の未来が残されさえしなければ、な」
深く頷くまま、フェイリットは立ち上がる。足は自然と大地図へと向かっていた。
横に延びる広大なアルマ山脈に阻まれた、北のメルトローと南のイクパル。誰かが策略を巡らせなければ、本来二つの国が交わることはなかった。表立つ資源もないイクパルにメルトローが目を向けることはなかったはずだ。自然のままの防壁に守られ、実は水源さえ豊富なイクパル国土。いま、彼らに必要なのは……、
「戦争を講和に向けることはできませんか。互いの国々が干渉せず、元の状態に戻る。その為には……ぎりぎりまで踏ん張って頂かなくてはなりませんけど」
兵棋のない地図に指を置いて、フェイリットはディアスを振り返る。指し示したのは、帝国の東端・イリアス公国領ギスエルダン旧市街。海に面した天然の要塞である一方、背後に海が広がる狭間でもある。
「驚いたな」
と顎に指をやるディアスを見れば、言葉とは裏腹に満足げだ。遊戯盤の上とはいえ、戦術の指南は彼からのもの。知らずディアスの思考を追えるようになっていたのも、彼がそう導いていたからだと今ならわかる。
「どうやら私の考えは見抜かれているらしい」
立ち上がり、ディアスが隣に胡坐を組む。過分に褒められた気になって、フェイリットは渋面をつくる。
「買いかぶりです」
「いや、おまえならできる。無責任な気休めの言葉ではない」
しまってあった兵棋を箱ごと地図へひっくり返し、ディアスが言った。駒を並べていく手は迷いなく、その筋には美しささえ漂う。次いで手伝うフェイリットに目を向け、彼は言葉を続ける。
「まず、おまえの居る立場。テナンやドルキアとの親密な関係性や、母国メルトローへの干渉が可能であること。次に、現状では私の軍が若干の優勢に立てていること。そして我々はこれ以上の犠牲を出したくはない。メルトローの余力は計り知れないが、テナン・ドルキアの二カ国は私と同じ思いだろう。完全勝利を望まない以上、どこかで節目が必要になるわけだが。――おまえなら節目をつくることができる」
完成した作戦図を前に、ディアスが言い結んだ。地形と地理を極限まで生かした戦況が目前に広がり、フェイリットはしばらく押し黙る。
「この戦況が実際に描かれないことを祈ります」
ようやく口にした言葉のあとで、フェイリットは堪えていた息を吐きだした。ディアスの描いた構想は、おそらくは最悪の結末を思ったもの。ギスエルダンを彼が決戦地に選ぶであろう予測は、以前からついていた。けれど、実際に目の前にしてしまうとどうにも身体が震える。
「講和が成れば、これには至らない。おまえの活躍を切に願う」
兵棋を扱っていたディアスの手が、フェイリットの頬を包んだ。親指のはらで唇を撫でさすり、闇色の瞳が近づいてくる。彼の親指があった場所に唇があたり、吐息まで搦めとるようなくちづけに変わっていく。
「あの……ここを去る前にひとつだけ、」
フェイリットはディアスの頬に手をのせ、喘ぐように息をして問う。
「我儘を……言ってもいいですか?」
今度こそ驚いたような顔になって、ディアスが軽く頷いた。
「ああ。できる限り叶えよう」
彼と肌を合わせることは嬉しい。離れていく温もりを、名残惜しいとも思う。けれどフェイリットには、それ以上に忘れられない喜びが他にあった。
「陛下と遊戯盤がしたいです」
バッソス公国に訪れた時、部屋を同じくして寝る間も惜しみながら対戦した遊戯盤。覚えたての楽しさと、好きな人の思考を辿ることの新鮮さは忘れがたい。心が浮きたつような感覚は、剣を握る瞬間と少し似ている。ディアスの描く戦術をもっと見たい。その純粋なまでの好奇心を、フェイリットは我慢できなくなっていた。
「遊戯盤? あいにくと玩具は置いてきてしまったが……そうだな、この大地図を使えば不可能ではないかな」
勝敗がついたら天幕を後にする。きっとその頃には、日も暮れて竜に変わっても目立つことはないはず。そんな考えも内に含めて、フェイリットは笑顔になった。
「ありがとうございます!」
◇あとがき◇
もっとくっつきたいディアスと遊戯盤やりたすぎるフェイリット、
でした。
次話も来週水曜12〜13時ごろを予定しております。
〝時を同じくしてコンツェは――〟というお話になる予定です。
ここまでお読み頂きありがとうございました^^