161 オアシスに舞う
フェイリットは惚けたまま、わずか数歩の距離に立つディアスを見上げていた。
愛している――と告げた彼の声が、未だ耳奥をくすぐっている。
長いあいだ知ることのできなかったディアスの本心。フェイリット自身、愛情を向けてもらえるとは思ってもいなかった。
――おまえをメルトロー王国に返すことに決めた。
――お別れだ。
別れの時を思い起こせば、未だ冷たい記憶が頭を浸していく。彼に拒まれると覚悟していた胸のうちには、さまざまの混乱が渦巻いていた。
「おや、聞こえなかったかな」
なぜ、今になって打ち明けてくれたのだろう。なぜ、唐突に現れたのに驚かないのだろう。なぜ……、
「フェイリット」
「えっ、はいっ!?」
「おまえを愛して――」
「わわわわ……」
「愛している」
「……!!」
熱湯でもかけられたような気がして、フェイリットは飛び上がっていた。冷たい記憶が瞬時に溶けて、かわりに全身が火照っていくのがわかる。
「どうだ聞こえたか」
「ま……まって、ください」
両手を頰の近くで扇ぎ、フェイリットはあたふたと続ける。ますます紅潮する顔は、微量の風では冷ませない。振り続ける手の振動で、ぽろりと涙が溢れた。
「なぜか涙がでてきて……」
ぼやけていく視界のむこうで、ディアスが笑う。
「……忘れかけていた。おまえはこういう娘だったな」
楽しげに言う声が、先ほどよりずっとそばで聴こえる。
「おいで、フェイリット」
そして次の瞬間には、フェイリットはディアスの腕中にいた。
〝おいで〟と言われたはずなのに、一歩も動いてはいない。はっと気づいた時には、彼の腕に抱きしめられている。
ディアスが自ら距離を詰め、その腕を広げたのだと理解して――フェイリットは目を丸くした。
「……陛下?」
見上げる間もなく、目線の高さがディアスと揃う。抱き上げられ、彼の腕に尻が支えられて、フェイリットは身じろいだ。まるで幼な子を抱くような、お決まりの体勢。ともすれば身長差が原因なのだろうが、今にしてみれば随分と恥ずかしいものだったとわかる。
「嫌か」
じっと様子を見ていたディアスが、ふと呟く。闇色の瞳が近づいて、目の奥を覗かれる。
本心では嫌ではないし、もっと抱きしめて欲しい。などとは伝えられず、フェイリットはまた赤くなった。
「い……嫌です!」
しどろもどろな姿を見られたくないと思う。けれど、ディアスの視線が注がれることは、純粋に嬉しい。ますます謎めいていく気持ちを持て余して、フェイリットは明後日の方向に視線をずらす。
「少しは背が伸びたかなと思ってたのに。やっぱり抱き上げて頂かないと目は合わないんですよね……」
身長差を嘆く気持ちは嘘ではなかった。彼と同じ目線で、同じ景色を見て語りたい。そう思うようになったのは、バッソス城の露台で、彼と並ぶ妾妃・ヒーハヴァティを見てから。
そっと顔を傾けて、傍らのヒーハヴァティに微笑むディアス。何故なのか、二人の仲睦まじい光景がずっと記憶に残っている。
――これって、たぶん嫉妬……なんだろうな。
覚えのある感覚に、胸がちくりとする。
ディアスの好む系統は、長身でめりはりのある女性。彼が目をかけていた女性たち――ヒーハヴァティやタラシャも含む、後宮にいた愛妾たち――を思えば容易にわかることだった。
その基準から、自分はことごとく外れている。身長は思ったほど伸びていないし、テナン城では〝フェイリット王子とお近づきになりたい〟とまで騒がれていたほど。女らしいめりはりは未だ無いに等しい。
傍目から見ずとも分かる違和感を、彼にどう尋ねたらいいのだろう。
「ん? 私はこれが好きだが」
こともなげにあっさり言って、ディアスの顔が近づく。その拍子に彼の鼻がフェイリットの鼻を掠めていって、
「へっ……はわっ!?」
フェイリットは素っ頓狂な声をあげた。
ほんの一瞬、くちづけを期待してしまった。……なんて、恥ずかしすぎる考えだ。自分の頭を埋めてしまいたい気になって、フェイリットは眉をひそめる。
「だがまあ、おまえが嫌だというなら」
「いいっ! 嫌じゃないです、もっとぎゅってして欲し……はっ!」
思わず言ってしまってからは、もう呻くしか道はなかった。気持ちを見透かされるのは今も以前も変わらない。心なしか、抱かれる腕に強みが増した気もする。要望通りに〝ぎゅっ〟とされて、フェイリットは更に唸る。
「なぜ背丈を気にする必要がある? 私と踊りたいわけでもあるまい」
「踊りたいわけでは……えっ、陛下踊れるんですか?」
「ああ」
ぎょっとして見ると、ディアスが悪戯げに笑う。
「試してみるか」
そもそも舞踏会の風習は、メルトローから北の地域に限られたものだ。イクパルでは夜会に踊り子が興を披露するのみで、男女が手を取り合って踊るような場面は見られない。
「やめておきます……」
ディアスの身長を考えれば、踊りの相手などいっそう相応しくない。側から見たなら、彼と踊る自分は糸繰り人形にさえ映るはず。そんなことを気にしながら、フェイリットは頭を横に振る。
「……そうか。メルトローの王女相手には必須なのかと思っていたが」
勘違いだったか。と、ディアスがその先を口中に濁す。
「へっ?」
いったいどういう意味なのか。北の王女相手には必須だから、わざわざ覚えたというのか。
いったいいつ? と考えてから、フェイリットは自然と頭を振る。そんな周到な真似を、ディアスがするとは思えない。
「その気になったら言うといい。いつでも相手してやろう」
残念そうに見えるのは、きっと気のせい。両足が地面に降ろされて、フェイリットは曖昧に首を動かした。
目の前には、大きな天幕が聳えている。先ほど彼が潜り出てきた入り口を見て、フェイリットは「あっ」と声をあげた。
「そうだった、わたし……」
自らが置かれている状況が、やっとのことで思い出される。
ドルキアの城館を突き破って竜になり、空中遊泳のはてにこの場所に落ちてきた。散歩して迷い込んだ、とディアスに伝えたのは嘘ではない。嘘ではないにしろ、どうにかして帰らなくてはならなかった。
全てを忘れて彼と供に居たら、イクパルは冗談ではなく戦火に滅びる。
「帰らないと」
「なんだ、寄っていかないのか」
残念がる口調で言って、ディアスが息をつく。
「さっきも言いましたけど、本当にお顔を見たらすぐ帰るつもりでいたんですよ」
「フェイリット」
「はい」
フェイリットの両頬を手に包み、身を屈めてディアスが言う。
「……サディアナでもタブラ=ラサでも、王女でもただの娘でも――何だっていい」
吐息がかかるほどの近さなのに、唇が触れることはなかった。すれすれの位置で、お預けをくらっている。
「おまえが欲しい」
反射的に瞼を閉じてしまって、フェイリットは身を震わせる。けれど、いくら待っても唇は重ならない。温もりを求めて目を開けると、思っていた以上に闇色の瞳が近くにあった。しかも、どうやら相手は笑いを堪えている。
「もしかしてからかってますよね……?」
「おまえが欲しいのは本当だし、すべて本心だが。……事情があるのだろう」
静かに言うディアスの顔を眺めて、フェイリットは肩の力を抜いた。ずっと離れていたのに、なぜ分かってくれるのか。この不思議な近さは、いったいどこから来るのだろう。
ほっと息をついたところに、優しく唇が重なる。
「事情のある娘を長くつなぎとめるほど、私も野暮ではない」
「事情なんてっ……ありますが、陛下と一緒に居たい気持ちもほんと」
その言葉を遮るかたちで、男女の声が響いた。近くの天幕から出てきたらしい二人が、腕やら身体やらを絡ませあって、すぐそばを通り過ぎていく。
フェイリットは、咄嗟にディアスの外套に潜りこんでいた。胸を撫で下ろす間も無く、気づかれたらしい彼が挨拶を受けるやり取りが聞こえる。
「まったく――……愛らしい間者が紛れ込んだものだな」
男女が過ぎ去るのを待ってから、ディアスが言った。
「間者では……!」
外套の中の彼の腕が、ゆっくりと閉じていく。包まれる感触は、たまらなく懐かしいものだった。彼の体温と匂いを、身体がまだ覚えている。
「ここは目立つ。私の天幕が嫌なら、人の無い場所まで少し歩くか」
押し付けていた顔を上げれば、後ろ髪を撫でられる。梳かれる心地よさに目を細めて、フェイリットは再びディアスの胸元に鼻先をうずめた。
「……とは言え、今はみな自分のことに夢中だがな」
沈黙すれば、どこかから甲高い嬌声が漏れ聞こえる。
トリノから聞いていたはずなのに。先ほどの男女といい、今までそのことに気がつかなかったなんて。
自分のことに夢中。フェイリットは顔を真っ赤にして、ディアスの外套を抜け出る。
「ごっ……ごめんなさい! わたしも、夢中になってました……陛下に。こういう時間だって気がつかなくて」
脳裏には、「今は自由時間だから」と言ったトリノの言葉がよぎっていた。
彼の天幕には、先ほど水辺で会った女性がいる。知らず有頂天になっていて、忘れていたのだ。「司令官狙いだから手を出すな」と、彼女に念を押されたことを。
「えーと、お待ちになっている方が……天幕にいるんですよね。あの、陛下のお気持ちは嬉しいし、わたしも同じ気持ちです。でも、わたしはその……大丈夫なので」
なにより愛妾経験もありますから! と、無理に笑顔をつくった後で、フェイリットは内心で項垂れた。
殊勝なことを、口で言えるほどには成長できた。けれど心までは器用にできない。嫉妬してしまうし、がっかりもしてしまう。
「なら、中を確認してみたらどうだ。お前も仲間に加わればいい」
後退るフェイリットを見ながら、ディアスは笑いを噛み殺したような顔で言った。〝これから〟という楽しみを邪魔されたはずなのに、どこか嬉しそうにも見える。
「え、仲間って?! 冗談ですよね?」
フェイリットは両手を伸ばして、入り口を捲ろうとするディアスの腕を掴む。
「至って本気だ」
「……そ、そんな……」
彼の奔放さを思い起こして、思わず眉をひそめる。後宮に二年も溺れていた無能の皇帝――とは、意図してつくられた虚像ではある。が、ディアスを知る人はあながち全面を否定しない。〝女好き〟という点については、よもや彼の本質とも言えるからだ。
「おいで」
天幕の入り口に掛けられた布を、ディアスが捲る。身を反らして顔を覆い、フェイリットは全身で拒絶した。
「いや……――!!」
◇あとがき◇
残念なことに、フェイリットの気持ちは全て顔に出ています。
お読み頂きありがとうございました^^