160 愛している
「…………フェイリット?」
猛禽じみた鋭い眼差しを、柄になく丸めて。驚いた様子の彼は、天幕から二、三歩いてその足を止めた。
「ディ!? あっ……」
ディアス、と呼ぶことができず、フェイリットは口籠もる。主従の関係もなく、今は愛称を呼ぶほど近しくもない。迷っているうちに、とにかく何か言わなくては、という焦りも出てしまう。
「……ええと……その、そう、散歩してたら迷って……しまって……」
口から出るのに任せれば、苦し紛れの言い訳にしかならなかった。帝国近衛師団の軍衣をしっかりと着用し、金髪もターバンで隠している。こんなにあからさまな擬装をしておいて、敵対する勢力の陣地に「散歩して迷いこんだ」なんて。不自然にもほどがある話だ。
「なるほど散歩か」
驚いたように様子を見ていたディアスは、吐息だけで軽く笑った。
以前と変わらない表情。別れの時を経ているのに、昨日ぶりのような態度。影のおちる眼窩の瞳は、なぜだか少し緩められている。
「散歩……というか、なんというか……」
耳まで赤くなりながら、フェイリットは縮こまっていた。
怪しさに気づきながら、彼はどうして人を呼ばないのか。戦争相手国の王女――末子ではあるけれど、捕らえて捕虜にでもしてしまえば利用価値はいくらでもある。指揮官である彼が、行動を起こさない理由がまるで分からない。
「突然現れるのが好きだな、おまえは」
どこか懐かしむようにディアスが続ける。
「…………す、」
〝好きだ〟という言葉の一部を切りとって、フェイリットは喜びそうになっていた。
自分を指して言われたわけでは決してない。理解しているけれど、〝好きだ〟も〝愛している〟も言われたことがないせいで、過敏になってしまう。
――一度でもおまえに、愛していると言ったことはあったか?
そして、唐突に思い出される別れの言葉。
ディアスの言った通り、二人の関係を形にした言葉は何もなかった。恋人でもなく、愛人でもない。愛妾という肩書きも所詮は仮初めだった。単なる片想い。そして、好きだと伝えてすらいない。
「す、……みません。本来なら、お会いすることも控えなければならない立場にありながら」
消え入りそうな声と勇気を、必死になってかきたてる。一国の王女然とした振る舞いを。そう思うのに、うまくできている気が微塵もしない。
フェイリットは一度視線を漂わせ、結局またディアスを見てしまっていた。
癒しと温もりと安堵をくれた人。そう思うと目が離せない。じっと合わせられる視線を、反らすことができない。
別れを告げられて片想いとわかっても、かけがえのない日々は消えなかった。……会いたかった。会ってその手に触れたかった。深く沁み入る声を、ずっと聴きたかったのだ。
「――大好きなんです」
すべり出てしまった本音の後で、フェイリットは「あっ」と自らの口を手でふさぐ。
……言ってしまった。
隠しきれなかった感情が、じりじりと胸を灼いていく。
――どうしよう。また、この想いを切って捨てられるのだろうか。蒸し返して辛い思いをするのは、分かっていたはずなのに。
「……もう、会うことはないと思っていた」
二の句に困っていると、低い声でディアスが応える。それは、フェイリットの心を砕くのに充分な返答だった。
未練がましく押しかけたのだと思われても、仕方のない状況。別れを告げた相手に対し、〝会いたくない〟〝関わりたくない〟と感じるのは当然のこと。
拒絶されるとわかってなお、飛び込んでしまったのだから。その結果ざくざくに切り刻まれても、自分が迂闊だったとしか言えない。
「そう……ですよね、」
胸がたまらなく苦しかった。竜化で身体がばらばらになるより、よほど辛い痛みだ。うまく息ができずに、フェイリットは首もとを掴む。
耐えなければ。耐えて、この場をまるく収めなければならない。
「のこのこと押しかけてごめんなさい。わ、わたし、密偵でも間者でもなんでもないんです。ただ、お顔を遠くからちょっとだけ拝見したく……ってあれ、違うな。……あなたが手の届かないところに居るのがいや……あれ? あああ、わたしは一体なにを!」
耐えようとするほど。取り繕おうと考えるほど、言葉がしどろもどろになっていく。墓穴しか掘れない自らの口を両手で覆い、フェイリットは首を横に振った。
トリノに視線を向けても、助け舟はもらえそうもない。彼はフェイリットの横にいて、フェイリットよりも青い顔をしていた。
「……知っている」
そうして乱れた心のまま、ディアスの声を耳にする。おそるおそる彼を見れば、顔に置いた片手の隙間から、眉をひそめているのがわかる。不快というよりも、何かを堪えるような苦悶の表情。
「おまえの想いも……痛みも苦しみも知っている。何を言っているのかも分かる」
深く、優しい声音だった。けれど彼の言わんとすることが、フェイリットには分からない。ゆっくりと首を傾げて、その闇色の瞳を見上げる。
「トリノ、暫く外してくれるか」
フェイリットの傍らにいる少年に目を向け、ディアスは問うた。トリノは蒼白のまま頷いて、天幕の向こうへと去っていく。
「あの……?」
一人残されたフェイリットは、混乱し始めていた。彼とかけ引きなんてできない。けれど優しい眼差しを向けられる今。気持ちをすっかり打ちあけるべき時なのではないか。そう思うのに、かけるべき言葉がなにも浮かばない。
あれこれと考えているうち、ディアスが一歩だけ近づいたのに気づく。
「私は、おまえに何も伝えていない」
低い声で呟いて、ディアスが探るような眼差しを寄こす。
「おまえを遠去けておきながら、もう信じてはもらえないだろうが……」
一歩、また一歩。ディアスとの間の距離が、ゆっくりと縮まっていく。
「……あの時。告げてしまっていたなら、おまえは祖国に殺されていただろう」
生きていてくれてよかった――そうディアスが独りごちるのを、フェイリットは遠くの方で聞いていた。立ち尽くしたまま、茫然と闇色の瞳を見つめる。
彼の柔らかい表情と、そのむこうに秘められていた想い。
――一度でも、おまえに愛していると言ったことはあったか?
――愛しているが、おまえに告げることはできない。告げてしまったなら最後……手離せなくなるから。滅びゆく皇帝の宿命に伴わせてしまうから。何よりも、無事でいて欲しいから。
「――愛している、フェイリット」
ディアスの飾らない言葉が、心を深く貫いていく。
「もうずっと以前からおまえを愛している」
◇あとがき◇
フェイリットの可愛さにうっかり悶絶するディアス。
お読みいただきありがとうございました。