159 野営地の再会
規模の大きな緑地ともなると、周辺には街が自然とできていく。盆状に広がる立地を考えれば、泉は地下から湧き出たものだ。染みないよう泥灰岩が組まれ、干上がらないよう椰子の樹で日よけがつくられている。
フェイリットは落ち着かない気分のまま、トリノにならって歩いていた。
樹々の横を過ぎれば、上空から〝点〟に見えた天幕が視界にずらりと並ぶ。なるほど、人が暮らし、物の売買も行われている街なのだ。
天幕には、大きくとられた間口のそばに織物が掲げられている。一つ一つが屋号のような柄をしていて、店を表す目印なのだ。
「贈り物にどうだい!」
「べっぴんさん! うちの果物でもっと綺麗にならんかね!」
「二人で汗流すなら塩も摂んなよ!」
絨毯売り。果物売り。塩売り。店を通り過ぎるたびに、活気のいい、からかいまじりの声が店主たちから掛けられる。見るからに国の違う、布を一枚巻いただけのフェイリットを見ても、とりたてて騒ぎになる様子はない。大らかな気風だからか、本当に娼婦に見えているのか。国を流れた女が行き着く先は、現状たいがいが娼館なのだ。
会釈と笑みを一々返すフェイリットを眺めて、トリノが笑う。
「イクパルの街商は慣れないみたいですね」
「慣れないもなにも、これまでまともに街にでたことなかったかも」
「ああ、そうでした。後宮に居たのが大半でしたね」
帝都の趣きも同じようなものだった、とトリノは語る。
「帝都から商いの場を移し替えた店ばかりですからね」
フェイリットが行動していた範囲は、ごく狭い区域のみ。コンツェと訪れた酒場でさえ、帝城にほど近い場所にあったはずだ。活気に満ち、手を握られるほど勢いのある客引きを、まだ経験したことがなかった。
「でも、フェイリット。彼らの印象に残りたくないなら、応じるのもほどほどにして下さいね」
忠言を受けて、フェイリットは頷く。いくら国の垣根が曖昧な娼婦に見えても、敵対勢力に属する事実は変わらない。そしてこの賑わいの中、大手を振って歩くほど無謀でもないつもりだ。物を買うことはもちろん、顔を覚えられることも避けるのが得策。
「立ち止まらず入ってください」
トリノの天幕は、街を囲って駐留する軍の区画にあった。言われるまま、フェイリットは急ぎ入り幕をくぐり抜ける。数人用の広さがあるが、他に人の姿はなかった。絨毯を敷いただけの簡易な寝床が三つ。トリノの分が一つとして、あと二人居ないことになる。
「他の人たちは……?」
「久しぶりの自由時間ですからね――っと、これを」
砂埃がたちこめる中、トリノは自らの荷物を解きはじめる。
「着てください」
引っ張り出した軍衣は、彼の唯一に思われた。受け取ったなら、きっとトリノの着替えがなくなる。自由時間が久しぶりなら、身体を清めて新しい軍衣に替えたいはず。
「……ちなみに、ちゃんと洗ったほうです」
言い添えるトリノに苦笑して、フェイリットは深々と頭を下げる。
「ううん、着替えとっちゃってごめんね」
袖を通した滅紫の色の軍衣は、上衣が膝丈まであるつくりだ。乗馬しても裾が邪魔にならないよう、側面に切れこみが入っている。颯爽と歩くたび裾が揺れるさまは、傍目にも美麗に映るもの。
色も型も、近衛師団を表わす軍衣だった。
「うーん。仕方ないですが、ますます密偵っぽくなりましたね」
立ち襟の釦をとめるフェイリットを眺めて、トリノがしみじみと呟く。
「うん、ますます自分が怪しく思えてきた」
同意して、フェイリットは「そういえば……」と続ける。
「自由時間って、もしかしてヤンエ砂漠での戦闘が関係してる?」
ふと浮かんだ疑問。それは砂漠のさなかに、兵力を駐留させている理由だった。皇帝直轄領からバッソス公国領、国土の中心部であるヤンエ砂漠を経由して西端ドルキア公国領へ。足取りを思えば、ここはヤンエ砂漠とドルキア公国領との中間あたりということになる。
つまり駐留しているのは、ヤンエ砂漠で起こった戦闘――ディフアストンが一時撤退を余儀なくされた戦闘に、勝利を挙げた者たちだ。
「……詳しくは答えられませんが、無関係ではありません」
言いにくそうに答えるトリノを見て、確信する。図らずも、ディフアストンを撃退した部隊に迷い込んでしまうとは。
「なんてこと……」
頭を抱えたい気分になりながら、長い息を吐き出す。ディアスが居るというのも、それならば頷ける。勝利した部隊を鼓舞し、褒美を与えに訪れたというわけだ。
「それはそうと。帰れそうですか? 迷い込んだって言ってましたけど、どこかへ向かう途中だったとか」
「うん……」
ここの正確な場所とイリアス公国への方角がわかれば、帰り道は容易い。しかし、その情報を面と向かって欲すれば、本当に密偵をして帰ることになる。
せめて人目のない場所でひっそりと竜に変われたら。上空から確認できたら、見覚えのある地形をたどって戻ることができる。それはおそらく夜になってからで、陽の高い今では無茶な話だった。
「日暮れまで、しばらく隠してもらったりは……できないかな?」
祈るような気持ちでトリノに問う。一人用ではない天幕で、隠してくれ、というのも難しい話。けれど、頼れる人物は今のところトリノだけなのだ。
ディアスに会いたい。その気持ちに嘘をつくことはできない。叶うなら、遠くから彼を見てみたい。それだけで充分だった。
もし顔を合わせてしまったら、秘めてきた想いをきっとこらえられなくなる。
「僕は今、小姓の任を解かれてワルターさんとは別の部隊にいます。古巣から離れたので顔見知りも少ない……」
どうしましょう。渋い声で唸って、トリノが考えはじめる。
「ここはじきに仲間が戻ります。なので、ここよりもっと奥にある家畜用の泉に向かいましょう。椰子の木の陰なら、馬に水を飲ませながら日暮れまで語らっていても、不思議には映らないはず」
久しぶりの自由時間ですからね、とトリノが繰り返す。そうして荷の中から長い布を引き出すと、フェイリットを手招くのだった。
「ターバンも巻きましょう。フェイリットの身長なら、目深に巻きさえすれば、他者からは頭しか見えなくなりますから」
言外に〝背が低い〟と言われたのだろうが、トリノの名案が純粋に喜ばしい。
「よかった……本当に助かったよ、トリノ」
イクパル民族は長身の部族。ぐるぐるにターバンを巻いたフェイリットに対し、先ほどのように揶揄う店主はなくなった。彼らの目線は、一つも二つも高いところにある。その上、たいていが品物を積んだよりも高い台に座しているのだ。同じ軍衣を纏う兵士とすれ違っても、トリノと居ることが擬装となる。彼に倣った敬礼をするだけで、とりわけ疑われることはなかった。
「ばれないね」
元来た道を歩きながら、フェイリットは囁く。ばれたら困るのだが、緊張感と達成感がないまぜになり、不思議と心が湧きたっていた。
「飛び跳ねて楽しんだりしないでくださいね」
そんなフェイリットを尻目に、トリノは溜め息を返す。
「……しないよ、そんなこと」
楽しいのは確かだった。高揚する気分のまま、フェイリットは周囲を見回す。こんなに擬装が分からないなら、密かに抱いていた希望が叶うかもしれない。
――遠くからディアスを一目見たい。
そのためには、彼の居るであろう天幕を特定しなくてはならなかった。トリノが選んで歩いているのは、軍の区画の外側。先ほどの商業区をぎりぎりに抜け、幕僚がいるであろう場所を迂回して歩いている。入り組んで並べられた天幕のすきま道からは、向こう側を遠く見晴らすことは不可能だ。
希望が叶うかも、と考えた矢先に、フェイリットは肩を落とす。
周りには見張りも大勢いるだろう。それらを掻い潜り、気配を消して距離をつめることはできる。が、それでは助けてくれたトリノに迷惑をかけてしまう。
「フェイリット」
くるくると表情を変える隣人に、トリノは渋面を見せる。
「なんとなく考えていることが分かります」
もう一度溜め息をついて、トリノは天幕のひとつを左に曲がった。
「あれです」
と視線で示すトリノに、フェイリットは目を丸くする。
彼が指す場所には、他と変わらない天幕が張られていた。見張りの姿もなく、変わったところが見つからない。
けれど――分かる。ディアスが居る。
理屈では説明しようのない確信が、フェイリットの鼓動を高鳴らせる。
「わたし……ダメだ、お願いトリノ。わたしが駆けて行かないよう抑えていて」
震える手でトリノの腕を掴む。
思えば、根本的なことが念頭になかった。たとえ褒美という名目をとっても。主人たる者が率先して〝息抜き〟をしなければ、部下は倣うことができない。そして、ディアスは来るものを拒まない人だ。
ここから天幕は、ほどよく離れた場所にある。けれど走ったなら、あっという間にたどり着ける距離だった。
閉じられた天幕の中に、ディアスが居る。そして、おそらくは先ほどの女性も。
――一度でもお前に、愛していると言ったことはあったか?
痛みが、じわりと胸を刺していく。
もとから自分には、彼の懐に飛び込む権利がない。嫉妬する権利さえない。
痛む胸を両手で押さえ、フェイリットは息をのむ。ディアスの腕の中に、他の誰かが居る。その現実を、初めて深く考えたのだった。
一目見たい、だなんて虫が良すぎた。きっぱりと別れを告げられたなら、もう諦めるしか道はないのに。今さら彼を見つめたところで、報われない想いが募るだけ。忘れられない痛みが増すだけなのに……。
耳をすませば、かん高い女声が天幕のあちらこちらから聞こえくる。
「……やっぱり、辛い」
しゃがみ込んで、震える身体を抱きしめていた。背に添えられるトリノの手が、ことのほか温かい。
「大丈夫ですか」
トリノが優しい声色で問う。
支えられるまま立ち上がり、フェイリットは苦笑した。
「ごめん、分かってた。わたしったら、ばかみたいだ」
唇を噛みしめて、吐き出すように言う。視界は滲んでいたけれど、涙はこぼれてはこなかった。
「フェイリット……」
後宮に居てさえ、嫉妬に打ち震えたことはなかった。そんなフェイリットの姿を目にして、トリノは言い澱んでいる。
「付き合ってくれてありがとう、トリノ。……もう満足した」
そっと口にして、胸にあてていた手を解く。そうして閉じられた天幕を、最後だと思ってじっと見つめた。
顔を見ることはできない。けれど彼が生きていることは分かる。それだけでいい――と思いたかった。帝都陥落の折、バスクス二世が死んだと聞かされたときの衝撃を思えば。生きてさえいてくれたなら、傷が癒えた後に笑いかけることができる。たぶん、きっと。
「行こう」
と、トリノの顔を見上げた時だった。
ばさりと音をたてて、天幕の入り口が撥ね上がる。
抜け出てきた長身の男と目が合って、フェイリットは思わず動きを止めた。
まず目にとまるのは漆黒の髪。ターバンこそ巻いていないが、額から後ろへ流された髪は、乱れひとつ見当たらない。身に纏う漆黒の軍衣も、腰に履いたままの湾刀も。その姿のすべてが、彼が寛いでいたわけではないことを示している。
「…………フェイリット?」
猛禽じみた鋭い眼差しを、柄になく丸めて。驚いた様子の彼は、天幕から二、三歩いてその足を止めた。
◇あとがき◇
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