158 砂漠のオアシス
「ひょっとしてお相手かい? なんだ、若くていい男じゃない」
女の言葉は、フェイリットに向けられたものではない。背後にいる〝誰か〟に向けたものだった。
男、と聞いて、フェイリットはいよいよ気を張り詰める。顔見知りであったなら、どう言い繕えばいいものか。それまで身体を拭いていた布を頭に被り、フェイリットは身を竦める。
「……あんたねぇ」
この後に及んで往生際の悪い、と女が呆れた声で続ける。そうして溜め息ながら、フェイリットの背中を男の方へ押しやるのだった。
「いつもは前金だけど、この子慣れてないみたいだから。好きにするといいわ」
じゃあね、とあっさり去って行く女に、フェイリットは渋い顔を向ける。出身地を聞かれただけで、名乗り合うことはしていない。微妙な関わりを持ったけれど、礼を言うのもなんだか違う。かける言葉もないまま、フェイリットは女がひらめかせる衣装の裾を見送った。
厚みのある布のお陰で、視界は全くといっていいほど無い。自身の裸足と、すぐそばに男のものと思われる軍靴が見える程度だ。
自分は娼婦ではない。
目の前の男に、どう説明すれば納得してもらえるだろう。女を見送った後しばらくの間、フェイリットは考えあぐねていた。
「……あの、大丈夫ですよ」
沈黙に耐えかねたのか、目の前の男が口を開く。
「僕は……宦官ですから、貴女に害は加えません」
「えっ……?」
それは、知っている声色と口調だった。
堪りかねて布を外せば、懐かしい顔が瞠目していく様が見える。
「トリノ!」
「フェイリット?!」
偶然にも助け舟をくれたのは、親友のトリノだったのだ。
互いに手を取り、再会を喜びあう。しかしその熱はすぐに冷めていき、トリノは青い顔で呟いた。
「びっ……くりした……でも、何でここに? まさか密偵……」
今や敵同士。トリノが青くなるのも無理はない。メルトロー王国の王女として、帝都を去ったのは数ヶ月前。別れの挨拶はできなかったけれど、トリノもあの場に居たはずだった。
「ち、違うよ! 密偵とか工作とか、そういうのじゃない。お願い、騒がないで」
「でも、どうして裸? 娼婦たちに紛れて工作しに来たとしか……」
「ほんとうに違うの! 迷子みたいなもので、というかここがどこかも分かってなくて!」
友人の両腕をがっちりと掴み、フェイリットは弁明する。自分は竜で、ここまで飛んできたのだ――などとは、勢いに任せても告げられない。
秘密だらけで、今までひとつも明かすことができなかった。他国の王女ということも、トリノは又聞きに知ったはずだ。
「……トリノ」
と掴んでいた腕から手を離して、フェイリットは肩を落とす。
「ごめんね、秘密ばかりで……信じられないのも分かるよ」
幾分伸びた身長で、トリノの目線は少し高い。見上げた格好になって、離れていた日々が決して短い時間ではなかったことを実感する。
「この通りわたしは裸だし、辿り着いて初めて会ったのはさっきの女の人。密偵も工作も、まだ何もしてないの」
両手首を差し出して、フェイリットは苦笑する。
「でも、疑いが晴れないなら大人しくする」
捕らえてもいい、という意思表示だった。トリノなら、きっと公正に調べてくれるはず。
信頼を寄せた行為に、トリノは沈黙した。フェイリットの手首を見下ろして、何かをじっと考えている。
「……あの日、」
言いながら、トリノがフェイリットの手をそっと掴む。
「去っていくあなたの背中を見ていました」
ディアスに〝愛していない〟と突きつけられ、失意のまま帝都を去った。あの日を、トリノはやはり見ていたと言う。
「また、笑えるようになっていてよかった」
手を掴んだまま、トリノは震える声で続けた。
「国というものは、つくづく厄介な壁ですね。友人を労いに行くこともできない。――きっと国を背負ったら、厄介な壁はもっと分厚くなるはずです」
そうして言い添えたトリノの言葉に、フェイリットははっとする。けれど〝厄介な壁〟が意味するものを、考える間もなく手を引かれていた。
「軍衣を貸しますから、僕の天幕まで行きましょう。今なら、堂々と歩いても目立ちません」
「……今なら?」
布を身体に巻きながら、フェイリットはトリノに従う。彼の言う〝今〟が、先ほどの女性に関わることは確実だった。
軍の駐留地に、娼婦を招いている。
複雑な心境で「ああ、」と相づちを打ったフェイリットに、トリノが申し訳なさそうな視線をくれる。
「街娼をわざわざ招き入れているのは、僕みたいな宦官や、少数の女性兵士を守るためなんです」
長い行軍をするほど。そして行軍が長引くほど、鬱積も欲求も溜まっていく。それらの捌け口が弱者に向くことがないように。生業とする者に頼っている、とのことだった。
宦官や女性兵士だけではない。駐留先や侵攻場所で問題を起こさせないためでもある。そのために、時に契約まで交わして街娼を雇うのだ。
全てを丁寧に説明しながら、トリノは額を下げた。
「ですからその……すみません、気を悪くしないでください」
「……どうしてトリノが謝るの? わたしが気を悪くする点なんて一つもないのに」
人間の性をよく考えた、仕方のない策だ。恋人や夫を送り出す側にしてみれば、気を悪くするのも頷ける。けれどフェイリットに、そういった相手はもういない。
「いえその……だってここには、あー……」
歩きながら、トリノが吐息で笑う。
「そうですね。僕が謝っても仕様がない」
笑っているのに、悲哀のこもった眼差しだった。フェイリットは訝しみながらも、話題を変えるために手を打つ。
「そうだ。ね、トリノ。さっきの女の人が、司令官狙いだと言ってたけど。ここの司令官って誰なの?」
娼婦から乞われるなんて、よほど人気者なのだろう。好奇心のまま、どんな相手なのか訊かずにはいられない。
トリノがここに居るということは、上官ならワルターかシャルベーシャか――、
「……バスクス二世陛下です」
遠慮がちに、けれどきっぱりとトリノは告げる。
「…………バ」
開いた口が塞がらないまま、フェイリットは突っ立っていた。
「まさか……本当に知らないで来たんですか……?」
◇あとがき◇
お読み頂きありがとうございました。
次回、フェイリットとディアスが再会します!