157 黄金の竜
天色の空には、雲ひとつ浮かんではいなかった。太陽を遮るものは何もなく、真っ白な強い光が目を眩ませる。
まぶしい。けれど、不思議と恐怖は感じない。
吹きつける風が、身体をふわりと押し上げる。上へ昇るほど空の色は濃く、海に似た深い瑠璃色が視野を染めていく。
フェイリットは気流に任せて飛びながら、眼下の景色を惚れ惚れと眺めていた。
青い空と黄色い大地。
くっきりと別れる地平線にまじって、おぼろげな街の影が遠くに見える。
あれは帝国領土の最東端。イリアス公国の――ディアスがいる公国の街並みだろうか。
考えてしまって、フェイリットは視線を地平から無理やり反らした。
戻るべき場所は、ドルキア公国の城館だ。飛び立ったのと同じ場所に降りる。そして、講和に向けて動かなくてはならない。コンツェとともに。
身を捻らせて向きを変えれば、砂漠にぽつんと緑地が見えた。椰子の木が水辺をまわって群生している。そしてオアシスに散らばる、おびただしい数の黒い点。
――まずい!!
とっさに高度を上げながら、フェイリットは思わず叫んでいた。
黒い点の正体。それは、砂色の天幕が作り出した〝影〟。覚えのある天幕の形は、イクパルに来て初めて見た、近衛師団のものとよく似ている。
少なくとも、ディフアストン側の勢力ではない。
よく見れば、ちらほらと人影が動く様子まで確認できる。
身を隠せるほど厚い雲はない。飛び去るにもすでに遅すぎた。今ごろきっと、空を飛ぶ金色の〝何か〟を、目撃している者がいるだろう。
さっさとドルキアの城館に引き返せばよかった。のんびり景色を楽しんだせいで、姿を晒してしまう結果になってしまった。悔やみつつも、フェイリットは隠れられる場所を探しはじめる。
――どうしよう。見られたら、きっと騒がれる。
雲がだめなら、人目に分からない高さまで飛ぶ。それしか方法は無いように思われた。
高度を上げるため、視線を上空へと移す。鼻腔から流れ込む空気は凍えるほど冷たい。フェイリットは風の助けを借りるため、身体をひと息に持ち上げた。
「!?」
が、事態はさらなる悪化をたどる。
尻尾の辺りから、するすると力が抜けていく。大地に引き寄せられるような感覚だった。驚いて、フェイリットは自身の身体を凝視する。
竜化が解け始めている。
だめだ。こんな場所で変化が解けるなんて、絶対にまずい。
逆立った毛が、風にただよって消えていく。このままではまた落ちる。
身体を旋回させながら、フェイリットは狼狽えていた。
風の流れがどこにもない。先ほどまで身体を包み、容易く気流にも乗れたのに。高度はみるまに落ちていき、オアシスが眼下に迫っている。
上空からは、椰子に囲まれた水場がかろうじて見えた。泉にうまく飛び込めれば、身体を地に打ち付けるよりは無事に済むはず。とっさの覚悟を決めて、フェイリットは眼下を見据える。
椰子の樹々がざわざわと揺れ、泉が陽光できらめいていた。
鼻先に近づく大地が美しい。水面が、手招くようにやわらかく波うっている。
泉めがけて、フェイリットはまっすぐに落ちた。水音は思ったほど鳴らず、ふわりと身体が包まれていく。
澄んだ水の中で両手を見れば、もう完全に人の手だ。足の指まで確認して、ほっとする。真っ逆さまに落ちたのに、怪我は負っていなかった。
そうして、とぷん、と小さな音をたてて水面から顔を出し、
「ぎゃっ!?」
ようやく出たヒトの声で、フェイリットは悲鳴をあげた。
目の前にあったのは、見知らぬ女性の乳房。自身のそれの、倍はあろうかという豊かな丸みだった。
泉なのだから、裸で水浴びをする人物がいても不思議ではない。けれど、問題視すべきはタイミングだ。竜から人へ変わる瞬間を、見られたかもしれない。どう確認したものか、とフェイリットは目前の乳房から視線を上げる。
「……なんなの?」
乳房の持ち主が、もっともな不満を述べる。木の実形の瞳を歪めて、不快さを口調に滲ませていた。蜂蜜色の頰に、濡れた黒髪がすべり落ちる。造作なくそれをはねのけ、女はフェイリットを睨みつけて言う。
「どこから出てきたの。まさか、ずっと潜ってたなんて言わないでよ」
泥灰岩で組まれた人工的な泉は、淵に階段状の段差があった。その最下に座っていたらしい女は、深みから現れたフェイリットが、不審で堪らないらしい。
「向こうの端から、潜ってここに」
言いつくろって、女の顔を探るように見つめる。反論がなければ、正体は悟られていないはず。
硝子玉のような黒の瞳が、ゆっくりと細められていく。
「あんた、まさか逃げてきたのかい?」
「逃げ……、え?」
突然の問いかけに、フェイリットは困惑する。
ディフアストンから逃げてきたわけではないけれど、逃げてきたように見えるかもしれない。しかし、この女性がディフアストンを知っているはずがない。いったい〝逃げてきた〟とは何のことを言っているのか。
疑問が疑問を呼んで、答えを選べない。
「……あのねえ、厳しいこというけど」
立ち上がり、女は足下から大判の布を拾い上げた。身体を拭き始めて、水に浮かんだままのフェイリットにちらりと視線を寄越す。
「新人でも、見逃してあげたりしないからね。衣装をほっぽり置いて来たなら、自業自得もいいところ。そのまま戻ってしっかり相手なさいな」
身体を拭き終えると、女は肌が透けて見えるほど薄い衣装を纏った。深緑のヴェールは美しい照りがあり、黒硝子の瞳をいっそう魅力的に見せている。金銀の腕環や耳飾りを余さずつけて、身じたくは完成のようだった。
そして、女は手をひらひらと振る。水から上がってこい、という意味の合図だ。
今ひとつ状況が飲み込めないまま、フェイリットは一番低い階段の淵に足を乗せる。
「へぇ……」
頭の先から足の先まで。露わになった身体を、女の視線がたどっていく。どこか覚えのある眺め方だった。後宮に居た頃の、愛妾たちの値踏みするような視線と似ている。
「生まれは?」
「……メ、ルトロー」
「ふーん、あっそ。あたしはバッソス公国生まれ。司令官さま狙いだから、くれぐれも邪魔はしないでよね」
「……はい……?」
なんとなく流れのままに、フェイリットは頷いた。
〝逃げてきたのか〟と尋ね、値踏みするような目で見て〝司令官狙い〟だと宣う。肌も露わな衣装は、砂漠の強すぎる日差しの下に、長くは居られない。旅つづきの隊商とは思えなかった。
「ちょっと新人!」
女がまなじりを吊り上げて叫んだ時。フェイリットは後退りながら、再び身体を泉につけるところだった。
「あたしの話、聞いてなかったのかい?!」
「あの、わたしは違うんです。決心したら必ず出ていくので」
「決心? だから、見逃さないって言ったはずだよ」
泉に足を戻して、女が手を差し出してくる。
「最初はねぇ、思い切りが肝心なの。じっとしてたら稼げないまんま、あっという間に引き上げ時になっちまうよ」
「でも、」
「〝でも〟は言わない! いったいどこから逃げて来たんだい。天幕まで送ってやるから、ほら来な!」
女の剣幕は、いよいよ断れない域にまで達していた。
フェイリットが水から上がると、文句を言いながら身体を拭いてくれる。
「で? 誰の天幕から逃げてきたんだい」
「あ、ええと、わたしより背が高くて」
「……そりゃ大抵の男はあんたより高いでしょうよ」
「髪は黒くて」
「……大抵黒いね」
「肌は蜜色で、」
当たり障りのない特徴を挙げながら、この場をどう切り抜けたものか考える。そうして問答が〝天幕の場所〟になったとき、フェイリットは肩を震わせた。
背後に、新たな人の気配が混じる。
「おや、」
女もそれに気づいたのか、フェイリットを透かして視線を動かす。
「ひょっとしてお相手かい? なんだ、若くていい男じゃない」
女の言葉は、フェイリットに向けられたものではなかった。その背後にいる、〝誰か〟に向けたものだった。
◇あとがき◇
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次話「砂漠のオアシス」は【 5月5日(日)20時ごろ 】公開の予定です。