156 貴女に添う
「我が最愛の娘へ……」
コンツェは表題を呟くと、そっと頁をめくった。
特徴のある装丁と、整然と並ぶ筆跡。そして、なにより意図的につけられたであろう意味深な表題。
「この字……」
この整然とした筆跡を、目にしたことがある。言いかけたまま、コンツェは口を噤む。
すぐに思い当たったのは、ウズルダン・トスカルナ。帝国宰相の筆跡だ。
本来ならば文官の長であるはずのウズルダンは、帝国軍総司令――つまりは皇帝の代理として、長年のあいだ指令書を軍部に下していたのだ。それは当時、中隊を指揮していたコンツェの手にも例外なく渡っていた。
武官であったコンツェは、文官の最たる位置の〝宰相〟と、仕事でつながることがほぼない。そのため、指令書の字はウズルダン本人の筆跡と長く思い込んでいた。
しかし、コンツェはテナン公国の王になった。即位後、数々の引き継ぎで目にした宰相ウズルダン・トスカルナ本人の筆跡は、まったく記憶とは異なるものだった。
ウズルダンは筆跡を変えていた。それも、ただ変えていた訳ではない。皇帝の筆跡を、本人であるかのように模倣していたのだ。
頁を繰る手を止めて、コンツェは首を横に動かす。
間違いなかった。これは、帝国宰相の字ではない。コンツェが武官であった頃、頻繁に目にしていた筆跡の本来の主――、
イクパル帝国皇帝・バスクス二世だ。
そして幾百にも及ぶ口承の物語を、彼が単なる道楽で編さんしたはずがない。何かが秘められている。それはきっと、イジャローテが言う意味での〝暗号〟ではない。
皇帝はなぜ、手ずから本など書いたのか。
一見すれば、親が子に読み聴かせるための物語。表題の〝ギエータ〟も、娘を表す言葉として使われる。
だが、皇帝に子は居ない。裏にも表にも、その点は確かであることが知られている。
最愛の娘、というのが、別の者を指すのだとしたら。〝ギエータ〟が示すもう一つの意味。広義である〝若い女性〟の方を指すのだとしたら。
我が最愛の娘へ――とはつまり〝愛してやまぬ若い女性へ向けた〟とも考えられるわけで……。
「まさか……」
呟いて、コンツェは手元を凝視する。
砂漠の地に伝わる大陸創世譚。海に咲く薔薇の話。盗賊と羊飼い娘の旅話。砂漠を泳ぐ人魚の恋話。
頁をめくれば、大半が恋の物語。イクパルに伝わる大陸創世譚でさえ、愛に報われぬ太陽の嫉妬が始まりだ。
まるで恋文のようだった。
全編に渡って綴られる〝愛している〟という台詞。
――愛している。たとえ気付かれなくともいい。ただ夢におちるその瞬間に、貴女に寄り添える寝物語を。
秘められた想いに気づいた途端、全身の肌が粟立っていく。
バスクス二世は、フェイリットを愛していたのか。
浮名ばかり流していたはずの男だった。弄ばれた女は数知れず。コンツェはフェイリットもまた、弄ばれた一人であると考えていた。
まさか想い合っていたとは……それも、互いに好意を伝え合うことなく。
見ていた限り、フェイリット本人に〝両想い〟の認識は無かった。報われない片想いだと思い悩む様子さえあった。
「どうかなされたか、シマニ大公」
「……いえ、」
イジャローテに、この本の意図は汲めないだろう。
元老院は凍結され、四公たちは執政の中枢から長く遠ざけられていた。そのせいでドルキア公王は皇帝と面識が殆ど無い。筆跡を知れるはずもない位置に居る。
ドルキア公王イジャローテと、コンツェの決定的な違い。それは皇帝との距離の近さ。帝都に長く暮らし、直轄軍に身を置いていたからこその近さだ。
「これを……捕虜が持ち込んだと仰いましたか」
「そうだ」
問いに答えたのはディフアストンだった。そうして徐に、無くなった右腕をコンツェに見せる。
「ヤンエ砂漠で奇襲を受けた。白虎の姿を模した、化け物の群れだった」
その中の一頭がディフアストンを襲い――無惨にも片腕を喰らった。失血で朦朧となりながら、彼は残りの力でその白虎を組み伏せたという。
一頭を捕えると、化け物の群れは蜘蛛の子を散らすように退却していった。捕らえた一頭をよく調べれば、厚い毛皮の下に何かを隠し付けている。
それが件の本だった。
どのみち指揮官を欠いては、それ以上の進軍はできない。本が暗号である可能性をみて、暴れ狂うその一頭を連れ帰ることになったらしい。
当時の痛みを思い出すのか、ディフアストンの表情が語りながら歪んでいく。
「ザラナバルとかいう、獣に変われる一族がいるとも聞く。だが何をしようにも、あの化け物はヒトの姿に戻らん。捕虜ではあるが、捕虜協定には当てはまらない。人間ではないのだからな」
ディフアストンの殺伐とした眼差し。本が暗号でないことが分かれば、すぐにでも白虎を始末させるだろう。
ザラナバル……と心中に呟いて、コンツェは本を閉じた。
「会わせてください。その白虎がもし、皇帝の手の者であるなら……自分には面識があるかもしれません」
フェイリットを捜す。ディフアストンの信頼を得る。そして、講和の締結を働きかける。
すべてを一息に片付ける策が、コンツェには見えていた。
◇あとがき◇
いよいよ令和ですね。GW更新3話目でした。
お読み頂きありがとうございます^^
作中、字が綺麗な人ランキングを作るなら、一位はディアスかウズかというところでしょう。(ちなみにフェイリットはとりわけ字が雑)
それでは、次話の予告です。
157話「黄金の竜」は【 5月3日(金)20時ごろ 】の公開を予定しています!
平成の終わりから令和の始まりまで。
どうぞあなたのGWに、フェイリット達がお供できますように^^