155 君に捧げる伽物語
「フェイリットは、貴方に向けて微笑みました」
フェイリットがディフアストンを〝サミュン〟と呼び、駆け出してからの僅かな時。コンツェは止めようと手を伸ばして、彼女の素早さに間に合わなかった。背をかすめ、空を掴んで、コンツェはたたらを踏む。
フェイリットは既に、実兄であるはずの男に首を掴まれていた。
ディフアストンは文字通り、包帯だらけの上体をしていた。フェイリットが驚いたのは、もっともな反応だろう。
赤黒く血が滲むディフアストンの右腕は、肩をすぎたあたりから先がない。重症と知らされていたものの、片腕を失っていたとは。
縫合を終え、とっくに塞がっているはずの傷口。微かに漂うのは――まさか腐臭だろうか。
フェイリットの淡い色の金髪が、ふわりと浮かんでいた。やわらかな光が背中あたりから漏れ出して、あっという間に彼女の身体を包んでいく。
彼女をディフアストンから守らなくては。踏みだしたコンツェの足は、いつのまにか止まっていた。それに気づかないほど衝撃を受けていた。
フェイリットが微笑んだのだ。
ディフアストンに向けて、そしてコンツェに向けて。
フェイリットの肌を無数の白光が裂き、大きく膨らんでいく。あまりの眩しさに、コンツェは延べていた腕で顔を覆った。
――再び目を開けた時、もう彼女の姿はなかった。
黄金のきらめきが、真っ直ぐに空を貫いた後だった。
「殿下へ向けたあの微笑みが、逃亡を企てる者の表情には思えません」
コンツェは明瞭な口調で告げる。
「きっと戻ります」
ディフアストンは瞠目して、鼻で嗤った。
「……恋仲でもないお前が〝きっと戻る〟だと?」
「彼女を信頼しています」
ぎり、と奥歯を鳴らす音がした。ディフアストンの苛立ちが、張りつめた空気を伝わってくる。
フェイリットを信頼している。それ以上に真摯な言葉を、コンツェは持っていなかった。たとえ、彼女からコンツェへの信頼は無かったとしても。
「俺は何者も信用しない、コンツ・エトワルト・シマニ。……だが、互いに国をけん引する者同士。形ばかりの友好として貴殿の意見も取り入れてやろう。サディアナが自らの足で帰るならば、逃亡の疑いを晴らす。だが、我々が捕らえれば命はない。……期限は一昼夜のみ」
それは意見の尊重というより、試されている、というほうが合うものだった。ディフアストンはこの強引な〝友好の印〟を、コンツェが断れないと踏んでいる。
「……分かりました。では、自分も捜索に加わりましょう」
渋い顔を見せぬよう、コンツェは細心の注意を払う。
この状況下。戦争の終結を表明したところで、一笑に付されて終わるだろう。思わぬ遠回りをすることになった。
フェイリットを捜し出し、ディフアストンの信頼を得る。おそらく、話し合いが持てるのはその後だ。
「ついでに私からも宜しいかな」
唐突な声は、ドルキア公王イジャローテだった。コンツェが許諾を応える前に、イジャローテは進んでくる。
「お久しぶりですな。大きくおなりで」
刈り込まれた白髪と、褐色の精悍な顔だち。壮年も板についた歳のはずだが、温和に微笑んでさえ、侮れない空気が垣間見える。反皇帝派として長くありながら、父――先代テナン公王とは決して馴れ合う仲ではなかった。
コンツェは眼前に立つ男に向けて、丁寧に会釈する。
「齢二十一になりました。再びお会いでき光栄に思います」
イジャローテは温和な顔のまま頷き、「これを」と懐から取り出した何かをコンツェに向ける。
「……本、ですか?」
手渡されたものを見ると、美しい布で装丁された書物だった。水色とも翠色ともつかぬ微妙な色合いをしている。
「捕虜が持っていたもので、なにかの暗号ではと考えておる」
本を凝視したままのコンツェに、イジャローテが言い足す。
「我が最愛の娘へ……」
コンツェは表題を呟くと、そっと頁をめくった。
◇あとがき◇
GW更新2話目でした。
お読み頂きありがとうございます^^
次話はいよいよ令和元日です!
【 5月1日(水)20時ごろ公開を予定しています 】
平成の終わりから令和の始まりまで。どうぞあなたのGWに、フェイリット達がお供できますように^^