153 家族ごっこ
「――サミュン!!!」
飛びついた衝撃で、メルトロー式の巨大な寝台が強く撓む。
フェイリットが筋肉の張る硬い胸元に頰をあてた時、すでに彼の上体は枕の山に沈み込んでいた。低く漏らされる、苦しげな声。
どこか違和感を感じて顔を上げれば、紺碧の鋭い眼差しに視線がぶつかった。
「……サミュン、じゃない」
鼻でいっぱいに吸い込んだ匂いは、懐かしさとは程遠い他人のもの。けれど、強い癖をもつ髪はサミュンと同じ。寝台の上に、麦穂色の波をうねらせている。鍛えられた大柄な身体も、瞳の色だって同じだ。ただひとつ。隻眼であったはずの彼の目が、二つ揃っていることを除けば。
フェイリットは自分の記憶の間違いを正そうと、彼の全身に目を走らせていた。そうして一つ一つを記憶と比較させていく。同じところ、違うところ。目の前にいる男は、サミュエルのようでどこか微妙に違う。
そして徐ろに、彼の肩を過ぎたあたりで息を飲む。剥き出しの上体は、厚く包帯で覆われて――、
……右腕が、肩の先から見あたらない。
「うで、が……ひぐっ!」
呟いてすぐ、フェイリットの首を衝撃が襲った。苦痛に喘ぎながら見れば、サミュンと間違えた人物に、首を鷲掴まれている。
「……結論から先に教えてやろう」
ぎりぎりと食い込んでくる指先は熱く、容赦がない。揃った両目で覗き込まれて、フェイリットは慄いた。
「俺の母とサミュエルの母親は、双子の姉妹だった。……そんなに似ているか」
「か……はっ」
肺に残った少ない空気を、吐き出してしまう。言葉を出すことはできそうもない。
問われた質問に、フェイリットは瞬きを返すことしかできなかった。ぱちりと閉じた瞼から、はずみで涙が落ちていく。
「阿呆と予想はしていたが、王家の血筋の系譜も知らんとは」
ヒョルド・ディフアストン。メルトロー王国の第一王子で、ノルティス王の右腕とも称される男……。
ぱっと見た容姿で勘違いしてしまうほど、彼はサミュンにそっくりだった。ディフアストンがドルキア城館で養生していることは、予め知らされていた情報なのに。
予測できたはずなのだ。ドルキア公王とともに、ディフアストンが出迎えるだろうことも、……血筋の系譜も。
「家族ごっこをしに来たのなら、鎖で繋いでメルトローに送る」
意識が遠のいていく。けれど、簡単に気を失うわけにはいかない。フェイリットは奥歯を噛んで、両瞼を強く閉ざした。
彼を、他でもないディフアストンを説き伏せに来たのだ。戦争を終わらせるために、講和に協力をしてくれるようにと。
つまり、ここで負けるわけにはいかない。
再び視界を取り戻して、ディフアストンを正面から見る。そして首を掴む彼の左手に、フェイリットは自らの手を重ねた。筋肉が浮きたち、隆々とした腕。この体格差なら、どうあがいても敵わない。
けれど、ひとつだけ。彼を怯ませる方法がある。
フェイリットはほんの一瞬、苦しみを堪えて微笑む。これから起こることは、敵意からくるものでは決してない。そう彼に伝えるためだった。
目を閉じて、広がる闇に手を伸ばす。
呼び起こしたくなかった感覚は、すぐに身体に襲いきた。骨の髄から沸くような、血の沸騰。熱さは背中から四肢へ広がって、強烈な痛みとともに力が満たされていく。
そうしてフェイリットは、力尽くでディフアストンの手を自分の首から剥がした。
「サディアナ、やめろ」
再び開いた視界は赤い。何事かと思えば、目から溢れおちる涙だった。透明なはずの涙が、赤く染まって流れている。
痛い。見ている視界も、感じる匂いも。皮膚を取りまく空気さえ、肌を刺してくるようだった。
力負けしたせいなのか、それとも〝変化〟の予兆を目にしたせいか。ちらりと確かめたディフアストンの顔は、驚愕に歪められている。
彼の左手を掴んだまま、フェイリットは遠い記憶を追いかけていた。
サミュンの……剣豪と讃えられた大きな手。頭を撫でるぬくもり。その手で仕留められたとりどりの食材と、作られる温かい食事。蜂蜜を溶かした山羊の乳に、硬くて歯が立たない大きなパン。辛くて温かい毎晩のスープ……。
村の子と喧嘩をして泣きながら帰っても、剣稽古でぼろぼろに打ち負かされても。変わらず笑って食卓を囲んだ。甘え癖は直さねば、と言いながら、彼はいつも甘やかしてくれていた。
他人に恐れを与えた強面さえ、フェイリットは大好きだった。表には見えない彼の優しさを、誰よりも感じていたから。表には見えなくても、彼は誰よりも優しかった。
生きているはずがない。サミュンの死は、他でもない自分が見取ったのだ。
「……かはっ! げほっ……!! ぐうぅ」
やっと呼吸を取り戻して、フェイリットは激しく咳き込んだ。ままならない息のまま、ディフアストンを睨みつける。
全身が総毛立ち、髪は空気に揺れていた。
「家族……ごっこじゃない……わたしは、」
あなたの家族だ。そう言おうとして、できなかった。言葉の代わりに口を出たのは、低くて恐ろしい獣の咆吼。
――どうしよう、言葉を話せない。
気づくと同時に、身体の痛みが増していく。おかしい。一体自分は、どうなってしまったのか。両手を確認するために、フェイリットは視線を下げた。その先でディフアストンの目が、自分を追って上向いている。彼が急激に離れていく。
ああ、と理解した頃にはもう、フェイリットは天井を突き抜けていた。