150 戦女神の大恩寵
フィティエンティの身体越しに、何隻もの船が並んで見える。木造の帆船で、どの船も錨を上げていた。水路は整備されて新しく、海への出口はすぐそこだ。吹き込んでくる風が水面を揺らし、陽射しできらきら輝いている。
何人もの兵たちがところ狭しと動きまわり、彼らを避けるのもひと苦労するほど。ぶつからないよう気を配りながら、三人は目的の船に向かう。
「よう! 来たな」
声の方向を見やると、ギルウォールが舳先から身を乗り出していた。勲章や褒章がわんさかついた軍衣に、肩からは豪奢な紺のローブ。古めかしい帆船とは、どうにも釣り合わない格好だ。
船にははしごも付いているのに、ギルウォールは舳先からひょい、と飛び降りた。水路から伸びる桟橋に降り立つや、人好きのする笑みを浮かべて言う。
「じゃあな妹よ、おにいたまは別行動だ」
そうして芝居染みた仕草で、ギルウォールはフェイリットの肩をぽんぽんと叩いた。
「えっ、まさか、わたしたちと行かないんですか?」
ギルウォールが、斜めに傾いで肯定を示す。
「なんで……」
勲章だらけの軍衣に、豪奢な紺のローブ。引っかかっていた彼の出で立ちの意味に、フェイリットは小さく唸る。
「ノルティス王のところへ?」
メルトロー国王に謁見するための正装。それを今から着用しているということは――ノルティス王は、王城にいない。それよりももっと近く。テナン側に〝移動している〟と捉えるべきだ。
「まぁな。命じられた仕事もあるから……」
「お願いします!」
ギルウォールの両腕を掴み、フェイリットは頭を下げる。
講和に向け、道しるべを定めた今。ノルティス王の説得は最大の関門だった。ディフアストンを説き伏せ、講和に応じてもらう以前に、ノルティス王の同意が必須。そこで匙を折られてしまったら、テナンはおろか、イクパル本土まで失いかねない最悪の事態が訪れる。
「どうかノルティス王の狙いを阻止してください。そしてわたしたちが講和に動き始めていることを、ぎりぎりまで伏せて欲しい」
悲痛な声で懇願するフェイリットを眺めて、ギルウォールは息をもらした。笑ったのか呆れたのか。頭を下げ続けるフェイリットには、わかるはずもない。
「見くびってもらっちゃ困るな。おまえたちの反乱を、ちょろまかせるだけの手腕は持ってる」
任せとけ、と続ける彼の顔を、フェイリットは恐る恐る見上げた。
「イリアス沿岸に向かうんですよね」
海軍を掌握するギルウォールを呼び戻す、ひとつの理由。きっとそれは、海に面するイリアス公国の海域を制圧すること。ギルウォールが海軍を指揮して海から攻め入ったなら、皇帝勢力が立て直しを図っているであろう地・ギスエルダン旧市街を、挟み込む構図ができあがる。
「……まあ、気づくよな」
残念そうに首をすくめて、ギルウォールが認める。
「さすが王弟サミュエルの……」
「おにいたま」
メルトローを裏切ってくれ、とは口に出すことはできない。ノルティス王に命じられたら、動く。それだけの理由が彼にもきっとあるのだろう。
フェイリットは力を込めて、自らの唇を噛み裂いた。血の味が口の中に広がってすぐ、ギルウォールの肩に飛びつく。
「ぐっ」
口移して与えたのは、唇から流れ出た少量の血。
ギルウォールは苦しげに呻いて、桟橋の木板に膝を落とした。その腕にフェイリットを抱えたまま。
「ギルウォール殿下?!」
口から血をつたわせる主人の異変に、ギルウォールの侍従たちが騒ぐ。見守っていたコンツェやフィティエンティも、事態を収拾させようと慌てはじめた。
「毒か」やら「医師を」やらの言葉じりを聞いて、フェイリットは次兄の瞳を覗き込んだ。同じようにして血を受けたフィティエンティを思えば、彼の拒絶反応は軽く見える。断りもなく寿命を延ばすなんて。無責任なことをした自覚は、充分にあった。一歩間違えば、拒絶で命も危ぶまれるのだ。エレシンスを責めたてておきながら、同じことをしてしまった。それでも、フェイリットに後悔はない。
「騒ぐんじゃねえ! 毒じゃねえよ」
荒い声でまくし立て、ギルウォールは床に手をついた。堪えるように身震いをすると、険しい顔を侍従たちに向ける。
「毒どころか……戦女神の大恩寵だ」
苦しげに胸を押さえながら、それでもゆっくりと立ち上がる。妹からの〝戦勝祈願〟だ、と切れ切れの息を吐き出しながら、ギルウォールは続けた。
「……こんなに苦しいもんだとは」
無理やりつくった笑みを頰に貼り付け、仕返しとばかりにフェイリットの額を小突く。
フェイリットはその拳を受けながら、ギルウォールから身体を離した。
「ご武運を祈ります。イリアスの海神が、どうか見ていてくれますように」
どうか手出しだけはしないで。イリアスの街に砲撃を降らせることなく、講和が成るまで見ていて欲しい。
言葉の裏に隠した願いが、ギルウォールに届いたかは確かめようもない。けれど彼は、返事の代わりにそっと笑った。
「ああっ、もしかして大事なところを見逃した?」
水路に伸びる横穴から、ドリューテシアが駆けつける。隣にアシュケナシシムを伴って、大きめの布袋を抱え持っていた。
「はいこれお茶。美味しそうにがぶがぶ飲んでたって、ギルに聞いたからね」
布から漂う独特の匂いを嗅いで、コンツェが顔を顰めている。ドリューテシアとアシュケナシシムから、それぞれ一袋。多すぎる量を受け取って、フェイリットは困ってしまう。
「ありがとうございます……でも、これ全部ですか?」
「炎症を抑える効能があるから、怪我してるディフアストンにもお土産になるし、月のものの痛みにも効くんだ」
眼鏡ごしの目を細めて、ドリューテシアは言った。
「私も飲んでるから保証する」
そして付け加えられた囁きに、フェイリットは目を丸めた。
「えっ、えっ?!」
未だよろめいているギルウォールの肩をとりつつ、ドリューテシアが笑う。
「女の人……?」
上背の高さと低めの声で、疑ってもみなかった。フェイリットは驚きのまま、自らの身体を触り倒した人を見つめる。最初に話してくれていたなら、もっと素直に従ったのに、と。
「戻ったら、ゆっくり話そう」
そう言うと、ドリューテシアは隣のアシュケナシシムを見やった。何か言いたげにしている彼の様子に、頰を緩めている。
「姉さん、エトワルト。間違っても死なないでよね。何かあったら鷹を飛ばすから……」
アシュケナシシムに抱きついて、返事の代わりに背中をさする。今生の別れでは決してない。わかっていても、寂しい。きっと同じ気持ちなのだと感じながら、フェイリットは双子の弟と目を合わせる。悪戯げに細められる彼の目を見て、その考えが伝わった。
「エトワルト」
「コンツェ」
身体の片側に隙間を空けて、その手を広げる。渋々歩み寄ったコンツェを巻き込み、
「……じゃあな」
三人は別れの抱擁を続けた。
波はとても穏やかで、背を推して良い風が吹いていた。別れを済ませ、すぐに船は旅立つ。エルベ海を北に。
彼らがドルキア公国へたどり着いたのは、二日の日取りを、ぎりぎり費やしてのことだった。