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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第三幕:王太子の褒美
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140 エレシンスの子守歌


 エレシンスは長いこと、不思議な旋律を(ささや)いていた。ゆったりと身体を揺らしながら、腕に抱くアロヴァ=イネセンの額をそっと撫でる。母子のような、穏やかなひと時。心臓を抜かれ、多くの血をあふれさせたのに、アロヴァの表情は安らかだった。



 ――私は、貴女(あなた)が……。



 彼の最期の言葉を思い、コンツェは自らの手に視線を落とす。微動だにしなかったせいか、指先にいたるまでが痺れたように冷たかった。

 アロヴァ=イネセンは、エレシンスを愛していたのだろうか。……それとも、憎んでいたのか。

 いずれにせよ、故人となった彼に真相を問うことは叶わない。

 だが、誰かと心を通じることは――愛する人に愛してもらえることは、なんと困難な願いなのだろう。その願いは今のコンツェにとって、途方もない奇跡を、天に祈るようなものだった。


 エレシンスとアロヴァ=イネセンに目を奪われたまま。コンツェをはじめ、丞相シバスラフやアシュケナシシム、ギルウォールさえも、長い沈黙を守っていた。

 そうして、エレシンスの囁く優しい子守歌が、三周にも差しかかった頃。コンツェはしびれた指をやっと動かし、胸につかえた息を出しきる。

 冷静になって見渡せば、アロヴァ=イネセンが倒れた血溜まりのそばで、アシュケナシシムが茫然と膝をついていた。


「……アシュ」

 血溜まりに膝をついたまま、アシュケナシシムは動かない。脱け殻になったような目で、アロヴァ=イネセンの亡骸を見つめている。

 コンツェと目線を合わせると、空色の瞳は億劫そうに揺れて応えた。

「……エトワルト。無茶苦茶に見えたけど、……それでも好きだったんだと思う」

 カランヌが。と、アシュケナシシムが呟くのを聞いて、コンツェは頷く。手を差し出し、アシュケナシシムが血溜まりから抜け出るのを助けながら、

「ああ。まるっきり、悪いやつでもなかった」

 と、微笑んで見せたのだった。


 アシュケナシシムの隔絶された塔での暮らしは、アロヴァ=イネセン、いや、〝カランヌ〟なしには不可能だったはずだ。そして、彼らだけにつながる思い出も、数えきれないほどあっただろう。

 それらを全て否定するほど虚しく、寂しい制裁はない。


「長く生きると、大事なものが見えなくなることがある。アロヴァはおまえという存在を、もっとじっくり考えるべきだった。……でも、ほら」


 エレシンスはそう言って、アロヴァ=イネセンの胸元あたりから、水色の小さな布を一枚引き抜いた。布に残る黒ずんだ染みは血のように見えるが、今し方の鮮血ではあり得ない。

 アロヴァ=イネセンをそっと床に横たえると、エレシンスは立ち上がった。布をアシュケナシシムに渡し、美しい顔をくしゃりと歪める。笑ったようにも、泣き顔のようにも見える表情だった。


「ああ、僕の……手巾(ハンカチ)だよ」

 なんで持ってるんだよ、と掠れた声で言いやり、アシュケナシシムは渋面をつくる。

「贈り物なんかじゃない。なんなら、投げつけてやったものなのに」

 空色の瞳からは透明なしずくが膨れあがり、ほろほろと床に落ちていった。手巾にに顔を押しつけると、ついにはむせび泣く声が漏れ聞こえる。

 推し量るには余りある(いつく)しみが、きっと彼にもあったのだ。


「放っておいた私の責任だ。私の甘さ(、、)が、おまえたちを巻き込む結果になってしまった」

 すまない、とエレシンスが頭を下げる。濃金の髪がするすると背を凪ぐ様子は、風にそよぐ麦穂の海を連想させた。豊穣をもたらすという竜の伝説に、相応しい風貌。その頭上を見やって、コンツェはそっと首を横に振る。


「責任なら自分にもあります。ですが、誰が悪いとか誰のせいだとか、今は議論すべき時じゃない。戦争は続いているし、もう何人も死なせてしまった」


 妹の虐殺を大義名分に、報復をうたい挙兵した。

 しかし妹・シアゼリタを殺したのは、アロヴァ=イネセンだったのだ。

 その間違いに気づいた今。そして、メルトロー王国の間接統治領でありながら、いにしえのイクパル皇帝の墓を、守り続けた歴史を知った今。

「……終わらせなければ」


 コンツェが言い終えるや否や、静まりかえった空間にかすかな音が響いた。

 衣擦れに似た、何かを引きずるような音。はじめに気づいたのはエレシンスのはずだが、彼女はほんの少し視線を床に走らせただけで、動こうとしない。

 大扉の、細い隙間ごしに聞こえくるもの。

 シバスラフが近づいていき、扉をそっと開け放つ。

 

 扉向こうに見えたのは、尻を床につき、ずりずりと後退あとじさる従僕の姿だった。顔は蒼白で、可哀想なほど激しく震えている。彼が扉の隙間から目にしたであろう一部始終《、、、、》は、衝撃にすぎるものだった。仕え主が目の前で心臓を抜かれ、こと切れる姿など。

 従僕は「ひっ」と悲鳴のような声を上げたが、それでも姿勢を元に戻した。片膝を床につき、胸に手をあて、ぶるぶる震えながら深くこうべを垂れる。


「……わ、私めは、アロヴァイネン伯爵様の従僕にございます。ですが、何とぞ、どうか命だけは……」

「落ち着きなさい。心配せずとも、大丈夫です」

 丞相シバスラフが気遣いを込めた声色で語りかけ、従僕の背に手を添えた。撫でられるまま、従僕は肩を上下させて荒い息を続ける。

「恐れながら、お伝え、しなくてはなりません」

 宜しいでしょうか。と、請うように向けられた視線を受け止め、コンツェは頷く。

「なぜ、そこに控えていたんだ」


 従僕はよろめきながら立ち上がり、懐から書簡を一通取り出した。金のロウで封されたそれを掲げ、震えの残る声で続ける。

「これはアロヴァイネン伯爵様ご自身が、エトワルト王陛下へお伝えなさる手はずだったものです。しかし、ご存知の通り。書簡持ちの私めを残し、伯爵様は先にお入りになられてしまいました」


 鉄の胸当てと小脇にたずさえた(かぶと)、腿からつま先までを覆う脚当て(グリーブ)。軽装だが、従僕の出で立ちは間違いなく戦場帰りだった。元は光を帯びていたであろう金属の防具は、ところどころ濁り、赤錆(あかさび)色の汚れを目立たせている。そして、彼が尻をついていた辺りには、アロヴァ=イネセンが脱ぎ捨てたであろう、揃いの防具も置かれていた。


 アロヴァは、メルトロー王国の第一王子・ディフアストンの参謀役として、連合関係を結ぶイリアス公国へ渡っていった。その彼が参謀の任を放り、テナン公国に戻り来た本来の理由とは。

 書簡は従僕からシバスラフの手を経て、コンツェの元に渡った。受け取った皺の寄る古紙を眺め、コンツェは眉をひそめる。嫌な想像ばかりが頭をよぎっていくのだ。

 戦争を終わらせる。そう決意した途端の、言いようのない胸さわぎ。


「……陛下?」

 そうして封を開け、書簡に目を通したまま。コンツェは玉のような汗を額に浮かべ、困惑していた。

「ディフアストン殿下が……、」

 言いかけて、もう一度書簡に目を向ける。何度読んでも、確認しても、書いてあることは変わらない。

 先を続けることができないコンツェの沈黙を振り切り、従僕が伏して礼をとった。



「――惜敗(せきはい)なさいました」



 〝バッソス公国へ兵を向け、その道すがら奇襲を受けた。ディフアストンは存命だが重傷。部隊は壊滅的な打撃を受け、退却した。〟


 書簡の文面をもれなく説明し終えると、従僕は「申し訳ございません」と、声を震わせて言った。

 うな垂れるようにも見えるその頭上を、居合わせた皆が呆然と眺める。


「な……なんですと、」

 真っ先に反応を見せたのは、丞相シバスラフだった。

「メルトロー王国の〝軍神〟ともあろうお方ですぞ……」

 痰でも絡むような唸り声をあげて、よろよろと歩きはじめる。どこかに身を寄せようにも、玉座の間とは名ばかり。椅子はおろか、柱もない半球状の空間に、老齢のシバスラフが息をつく場所はなかった。


「シバスラフ」

 コンツェが差し出した腕を遠慮がちに掴み、シバスラフは渋面のまま呟く。

「何かの間違いでは?」


 惜敗した。

 〝誰に〟という疑問を、誰も口にはしなかった。

 帝都が陥落するはるか前、帝国宰相ウズルダンは遥か東に逃げ去っている。切れ者とうたわれるウズルダンは現在、陣頭を仕切れる位置に居ない。分かりきった事実だ。

 残るはワルターか、あるいは……。


「……場所を移ろう。皆を集める。いいな? それから委細を聞かせてくれ」

 王の執務室へ。コンツェは言い添えながら、意を決した。他の誰もが口にしない疑問を問うために。

「で、帝都に沈めたはずのバスクス二世の首は、見つからない(、、、、、、)んだな?」

 従僕は返事の代わりに、礼と沈黙で応える。

「……そうか。シバスラフ、」

「は、」

「どうやら伝え聞いていたものと随分違ったみたいだ」


 シバスラフも沈黙ののち、頭を下げる。是とも非とも、判別がつかない応対だった。

 〝先ずは内政を〟――そう諭し続けたシバスラフが、手にした戦線の情報を留め置くのは予想がつく。

 コンツェは前王よりも血の繋がりのある祖父を見つめ、言葉を続けた。

「責め立てるつもりはない。自分に力が足りていないのも、十二分に承知してる」


「陛下」

 たしなめるような声色で、シバスラフは首を振る。それでも、コンツェは言葉を留めようとはしなかった。

「だからここを……テナンの国土をシバスラフに任せたいんだ」

「陛下? それはなりませぬ! 貴方様が直に戦地へ出向くことは、承知致しかねます」


 眼鏡をはずし、手に持ちながら、シバスラフは目を見張る。

「丞相としても、貴方の祖父としても」

 シバスラフの渋面に刻まれた(しわ)は、いっそう深く見えた。本当ならとっくに隠居して、穏やかな日々を送っているはずのよわいだというのに。前テナン公王バインツの側で何十年と国政を支え、代をうつっても退く考えを示さない。

 祖父に染みこんだ堅い決意を洗うことは、コンツェにも難しいことだった。


「シバスラフ、案じてくれる気持ちはありがたい。だが、この戦争をおさめるにはもう、俺が行くしかないんだ」

 おそらく、ディフアストン王子は負けを認めない。自らの命を全力で燃やしながら、返報にたずなをひき返すはずだ。そして闘いは、泥沼の一途をたどる。

 コンツェが駆けつけ、ひれ伏してでも終結を求めないかぎり。


「それに、デーテン兄上が行方不明の件もある。現状、兄上の捜索に人を割けてもいない。俺がテナンの近衛を引き連れていけば、」

 いずれにせよ、捜索に充てる人員や時は許されないだろう。甘い考えと分かっていても、願わずにはいられない。本来ならば、自分よりもよほどテナンの玉座に座るべきだった、長兄の存命を。


「……貴方様がた御兄弟の仲睦(なかむつ)まじさ、このシバスラフ、かけがえなく思っております」

 シバスラフは何の含みもなく、真っ直ぐな目をコンツェに向けて言った。彼の言う〝御兄弟〟は、テナン公国での兄達の話だ。しかしもう一人、血の繋がりのある〝兄〟が頭をかすめて、コンツェははっとする。

「デーテン兄上も、サテハージ兄上も、ハイデン兄上も、ラル兄上も、……俺は大事に思ってるよ」


 テナン公国に生まれ、兄達と生活したのは十年足らずのこと。その後は前公王について、領地(テナン)本土(イクパル)とを行き来する暮らしをしていた。ワルターの目にとまり、小姓に落ち着いたのは十三歳になる前だったか。皆に可愛がられ、些細な不満はあれど、不自由ない生活ができた。


 帝位を争って命を脅かされたことも、牢獄に入れられたこともない。


「もちろん、祖父御殿(そふごどの)も大切だ」

 コンツェは微笑を浮かべ、丞相シバスラフに告げた。幼少にはよく呼んでいた呼称も、何十年かぶりに口にすると照れくささが残る。


 コンツェの意思を受けとり、丞相は決心したように首を動かした。

「分かりました。陛下の仰る通り、皆、落ち着ける場所へ一度移りましょう」

 居合わせた一堂に礼を向けると、シバスラフがふいに視線を移す。


 その目が捉えたのは、今度こそ城に仕える衛兵の姿だった。

 フェイリットの離宮から来たであろう彼は、シバスラフの耳に何かを伝え去っていく。あっさりとした伝達を目の前に、コンツェは気を引き締める。


「陛下、王女宮からもご報告が」

「王女宮から」

 フェイリットが目覚めたことは、地下の墓廟で耳にしている。そして、その次の報せも気にならないはずがない。

 シバスラフがこの場で全容を語ってしまわないのは、国王(、、)が向かうべき場所を、暗に示しているからだった。


「如何なさいますか」

「……まずはディフアストン殿下の現状と、デーテン兄上の捜索を」

 コンツェは手ずから壊した玉座に目を向け、静かな声色で告げた。



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