139 渇き雨
墓廟のある地下から頭を突き出し、コンツェは強い光に目を眇めた。
地下を照らす明かり取りの天窓が、割れて無くなっている。何事か、と影をつくった腕から覗き込めば、黒革の長靴が視界に並んだ。
「御機嫌よう、墓守の王」
細めたままの目で見上げて、コンツェは瞠目した。
目の前に佇むのは、北方由来の美しい女。しかしコンツェが驚愕した要因は、容姿ゆえではなかった。
女のまとう濃い花の匂い。よく似た香りを、知っている。
「竜……?」
テナン公国に渡ったあたりから、フェイリットが漂わせはじめた花の香り。まったく同じと言っていいほど、女の香りはフェイリットに似ていた。
「おや、察しがいい」
その通り、と女が手袋から抜いた素手を、差し出す。
半身を地下に埋めたままであることに気づき、コンツェは首を横にした。女の助力を辞し、地下の穴から自力で這いあがる。
「誰なんだ」
北方の顔立ちをした女。詰襟の軍衣は、イクパルのものと酷似していた。
ただ違うのは、肩当ての下に連なる弾帯に加え、イクパルでは有り得ない反りのない大振りの剣を履いていること。膝までを覆う長衣の下は、足の形に沿う下衣と長靴だ。
――酷似しているが、イクパル帝国の軍衣ではない。
濃金の髪は頭上高く括られていた。くせ毛は波のようにうねり、肩すじをあふれて腰元にあそんでいる。
美しいのに、どうにも色香より畏怖を起こさせる立ち姿だ。
「誰? それをこの下で見てきたのではないのか?」
崩れた玉座の下。今しがたコンツェが這い出てきた場所を指で示し、女は言う。
同時に息をのむ音が背後から聞こえた。目をやれば、アシュケナシシムが驚愕に顔を歪めている。
「有り得ない……エレシンスだろ、あんた、何で」
異質な侵入者に、外の衛兵が騒ぎ立てる様子はない。天窓の硝子を突き破ったのち、床まで着地したであろう女は、怪我もなく平然として見えた。
エレシンス、と名を呼ばれて、女は冗談めかすように首を傾げてみせる。
「……おまえ、名は?」
「アシュ……ロティシュ・アシュケナシシム」
答えたのはアシュだった。驚きを隠せない顔のまま、食い入るように女を見つめている。
「やはり双子か……どうりでな。サディアナも二つあった」
「二つ?」
歩き出したエレシンスが、アシュケナシシムの目前まで移動する。
「子宮だ。そもそも、竜は対の臓器を持って生まれる」
子宮まで二つあるのは珍しいけれど、と繋げて、エレシンスは自らの下腹を指す。
「死にたくなかったら、覚えておくといい。あの子が身篭ったら、ヒトの形のまま産ませてはいけないよ。おまえたちの母親のようになるから」
エレシンスは青い顔になるアシュケナシシムに微笑み、その腕の中に抱き込める。
――重度の産褥病だった。アシュケナシシムが墓廟で語った、彼らの母親の最期。
しかし、死因は産褥病でも何でもない。竜を生むことに、人間の身体が耐えられなかったのだとエレシンスは語る。
「さて、墓守の王よ。私は過去よりの責をまっとうしに来たのだけれど」
「責? 〝墓守の王〟ではなく、俺はコンツ・エトワルトだ」
苛立たしげに言いやると、エレシンスはアシュケナシシムから身を離した。おや、と驚くような目をして、コンツェを見つめる。
「そうか、エトワルト王。見てきたのだろうが、私はタントルアス王と契約した竜だ。名をエレシンスという」
「フェイリット……いや、サディアナ王女と逢ったのか」
〝やはり双子か、どうりでな〟と彼女は言った。実際に会わなければ、出てこない言葉でもある。
墓廟で見た〝壁画の竜〟であるなら、数百年は生きている計算だ。そんな化け物に対峙して、フェイリットは無事なのか。冷や汗が、コンツェの背を伝い落ちていく。
「私は女性を好むけれど、サディアナに手は出していない」
なにより娘みたいなものだから、と続ける表情は、とても冗談のようには聞こえない。
「安心しなさい。生命を分け与えてきただけ。……ああ、側女にはほんのすこし、唾をつけたけれど」
気にするほどのことではない、と笑って結ぶ。
コンツェは混乱しはじめた頭を振って、エレシンスを睥睨する。
「過去の何が〝責〟だと言うんだ。タントルアスと契約したことか?」
折れた話の腰を戻したはずなのに、エレシンスは楽しみを取り上げられたような顔をみせた。
「契約したことに後悔はない。後悔があるとするなら、その子どもたちが争い、奪い合っていること」
エレシンスは自らが契約した相手が、タントルアスと、母胎に宿った胎児であると告げた。その胎児が、イクパルの皇帝との間に儲けられた子であることも。
彼女の話が本当ならば、メルトロー王国とイクパル帝国、両方に契約が結ばれたこととなる。
「独立? 簒奪? ふざけるな」
鋭い眼差しを投げ、エレシンスはコンツェの胸ぐらを掴んだ。
「……と言いたいところだったが、私の加護ももう薄い。荒れてしまった現代を見ては、もう何も言うまい」
胸ぐらを掴んだまま、エレシンスはもう一方の手をコンツェの頭に置いた。
「だから、私をおまえの側に置きなさい」
〝だから〟とは何だろう。コンツェは撫でられる頭に目をやりつつ、眉をひそめる。省略されたはずの理由が、どうにも理解できない。
「助けてやらないこともない、と言っている。それに、」
と視線を移した先、玉座の間の大扉を眺め見て、エレシンスは首を傾げた。
「あの扉の向こうの男の話も、聞いておきたいから」
玉座の間の白い扉が、重々しく開かれてゆく。
貝殻彫刻の華やかな蔦模様が、彩りを添える美しい扉。それがわずかな隙間をあけたと同時に、するりと男がすべり出た。
男の顔を見て、コンツェは我が目を疑う。
「カランヌ・トルターダ・アロヴァイネン?」
「エトワルト国王陛下」
神妙な面持ちで、カランヌは片膝を折って頭を垂れた。ゆるりとした優雅な仕草のあとに、言いようのない違和感が残る。
「一体……」
呟いたコンツェを尻目に、エレシンスが軽やかな声で笑う。
「アロヴァイネン、か」
エレシンスを前に、カランヌは小さく微笑んだ。
嫌味なほど美しい所作は変わらない。にもかかわらず、立ち上がって見せた顔は別人のようだった。鋭く細めた目が、ちらと動く。
退路を定めている――そう知れた時にはすでに、エレシンスの方が早かった。
大剣を引き抜くと同時に、カランヌに向かって振りかぶる。
カランヌはというと、目を疑うほどの速さでエレシンスの剣先を顎でかわした。跳び退いた先は、アシュケナシシムの隣だった。
人質に捕らえられ、アシュケナシシムは瞠目する。目の前で何が起こったのか、理解できない顔だった。
「何、なんなの、カランヌ!」
盾にされて、アシュケナシシムが裏返った声をあげる。
「アシュ」
動こうとしたコンツェをも目で制し、カランヌは笑った。
「この子らの〝伯父〟というのは、うまい隠れ蓑でしたよ」
「……引っかき回してくれたわけだな」
「ええ、お陰で貴女が出てきた」
長いお膳立てでしたよ、と首を鳴らすカランヌから、物腰の柔らかさは消えている。
「母を殺した貴女を、長く追ってきました。何匹も何匹も竜を狩り、貴女が出てくるのを誘っていたのに」
荒んだ空気をまとい始めたカランヌを眺め、エレシンスは微笑む。
「私が愛するのはタントルアスだけだ。胎児じゃない、アロヴァ=イネセン」
吹き出すような息を返し、カランヌは首を振った。
「私は、母に代わって何百年と治世を布きました。貴女に似た女を大陸中からかき集め、ずっと行方を捜しながら……なのに、」
肩で息をし、震える拳を握りしめる。カランヌ――いや、アロヴァ=イネセンは、壮絶な顔で笑うのだった。
「貴女の主人は私です」
人間らしさを越えた凄味に、捕らえられたままのアシュケナシシムが竦みあがる。彼を長くそばに置き、息子のように育てきたはずの情は、もうカランヌには感じられない。
すべてを取り繕っていた。抜け目なく、飄々とした印象を見せていたカランヌの正体が暴かれていく。
「言いたいことはそれだけ? 私に逢いたいがためにリエダを産ませ、王に近づけ、挙句サディアナまでつくり出し――そして今、テナン公女を殺し、人心を操って紛争をしかけている」
歴史に名を残した名君が、闇にも落ちたものだ。エレシンスは厳しい目を向けるまま、アロヴァを正した。
「テナン公女、シアゼリタを……?」
繰り返すコンツェに、首肯いて見せたのはアシュケナシシムだ。
「そうだよ、シアゼリタを殺させたのは、バスクス二世じゃない。カランヌ……この男だったんだ」
……ごめん。そう言って、アシュケナシシムはくちびるを震わせる。ぼろぼろと涙をこぼし、悔やむ表情に嘘は見えなかった。
呆気にとられるまま、コンツェはよろよろと躓く。
――では、いったい自分は、何のために戦っていたのだろう。
妹を殺された怒りを皇帝に向け、宣戦を布告した。
そこに誓った〝報復〟という大義名分が、よもや偽られたものだったなど。いったい……、
「エトワルト」
肩を掴まれて、コンツェははっとする。
いつのまにか横に居たギルウォールが、「お前がすべきことは過去なのか?」と問うた。
動いてしまった歯車を、巻き戻すことはできない。
止めるか、壊すか、直すのか。過去を悔やむ時間は、もう残されてはいない、と。
「貴女はようやく現れた。しかしもう、どうにもならないほどに、時代は動いていますよ」
アロヴァ=イネセンの言葉が、玉座の間に響き渡る。
時代は動く。それは、過去の遺物でしかない我々には、手の下しようもないこと。そう語りながら、彼は高らかに笑う。
エレシンスが動いたのを、その場の者たちが視認することはできなかった。
そして気づいた時にはもう、彼女の手に握られた心臓が、赤いしずくをこぼしていた。
「わ、たしは、あなたが……」
アロヴァ=イネセンはくぐもった声をもらし、がくりと、エレシンスの胸に倒れた。
「おやすみ、アロヴァ」
幼子をあやすように彼の背を撫で、エレシンスは穏やかに言う。
彼女の否定した愛情が、そこに間違いなくにじみでていた。