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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第一幕:宰相の小姓
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013 宰相の庭

 紺色の薄布が、頭上でひらひら揺れている。フェイリットはうっすらと目を開けて、日差しを受け透けている薄布を寝たまま見上げた。


 洗濯を干したまま寝てしまったのだろうか…。頬を撫でていく風が暖かくて、なんて気持ちがいいのだろう。アルマ山はもう冬だというのに、珍しい日もあるものだ。


「稽古しなきゃ」

 呟いて、ふと考える。稽古はいつも昼からだ。なのに赤っぽい太陽の日差しは、明らかに夕暮れを思わせる。

 ……まさか寝過ごして、稽古をさぼってしまった?

「うっわ、サミュンに叱られっ…!」

 慌てて起こした体に、激痛が走る。その痛みが、急速にフェイリットの頭を現実へと引き寄せていった。


「ああ、」

 …そうだった。ここはもう、アルマ山ではないのだ。

「サミュン、に叱られる…か」

 鬼のような稽古をつけるサミュエルも、すでにこの世にはいない。

 ろくなお別れもできぬまま。


 フェイリットは小さな、けれど重い息を吐いた。

 思い起こせば涙でも出てくるものだろうと思っていたのに、ぽっかりと空いた虚ろな感情しか湧きあがらない。自分はもう、忘れてしまったのだろうか。痛みを。


「…しばらく剣も握ってない」

 あれほど日課にしていた剣の稽古をさぼっているなんて知ったら、サミュンは角を生やして怒るだろうな…。そんなことを考えて、フェイリットは苦笑する。

 アルマ山に移り住んでサミュンに育てられ、以来ずっと王に仕えるための勉学や武芸に(いそ)しんだ。

 お前は人間ではないのだと、常々言い聞かされて。


 フェイリットの願い―――普通に恋をして子を持ち生きることなど、この血の前では(あざけ)りにも等しい夢でしかない。

 それなのに、この身体を流れるもう半分の血が〝それでは嫌だ〟と悲鳴をあげる。


 洗濯物と間違えた紺色の薄布は、寝台に()れる天蓋(てんがい)だった。手で触れるとするする逃げるそれをめくり、フェイリットは寝台から足を降ろす。高さは膝下ほどもなく、床には毛の短い絨毯が敷かれていた。

 足裏に絨毯の心地よさを感じながら、フェイリットは部屋を見渡す。


 広い部屋には寝台がひとつと、わずかな調度品が置かれているだけ。

 視線を移した先には、中庭とこちらを区切る大窓がある。窓枠(まどわく)()め込み硝子の無い、分厚い石壁をくり()いた造りだ。


 ふと庭が見たくなって、恐る恐る立ち上がる。二三歩足を進めてみるが、不思議と痛みは感じなかった。廊下に出て円柱のひとつに身体を預け、

「すごい」

 フェイリットはたちまち瞳を輝かせた。


 窓外に広がっていたのは一面の花園。咲き乱れる手のひらほどの花弁は、艶やかな紅色だ。ちらほら、白い蝶が舞うのを見つけて、思わず庭まで降りていく。

「気持ちいい香り。何の花だろう」

 柔らかい芝生のおかげで、裸足でも痛くはなかった。


 ふと見遣れば、庭のあちらこちらに水の流れる細い水路が廻らされている。どこかから水を引いてきて、草花の根に吸わせているのだろう。

 水の少ない地域で、これだけ贅沢に花を生かすことができるなんて、さすが〝宰相宅〟とでも言うべきか。そしてこれが、イクパルに伝わっているはずが無いだろうと思っていた、灌漑(かんがい)の技術を使ったものであることに驚く。一体誰が……?

「これをもし自分で考えたとしたら…すごいわ」


 風に乗って流れる花の匂いを吸い込みながら、目を閉じる。この庭の生気が、まるで体に溢れるように染み込んでくる。

 自然を感じるなんて、アルマを降りてからすっかり忘れていたことだ。風のこえ、草花のささやき、身体に染み入る生気。ただひとつ、自分が竜であることを拒絶なく受け入れられる瞬間。


 ぼんやりしていると、庭に人の気配が混じりこんだ。感覚が戻ってきたのだろうか。フェイリットは振り返り、その気配の主を見上げる。

「薔薇というのですよ、きれいでしょう」

 エセルザ――初めて会った時はぼんやりしていたから確信はないが、アンの母上だったはず。

 精悍な印象のアンとは対照的な、温和な空気をかもし出す美しい人。フェイリットが出てきた部屋の窓縁に立って、こちらを見ている。


「ばら?」

 耳慣れぬ言葉に首をひねったフェイリットを楽しそうに見つめ、エセルゼは頷いた。

「ええ、この花の名前ですよ。棘があるから、あまり近づいては駄目。でもお好きなら後でいくらか切って、お部屋に持って行ってあげましょうね。それより、お加減はもう大丈夫なのかしら?」

「はい、お世話になってしまって…すみません」

 見ず知らずの娘を、こんな形で。感謝の気持ちを込めて深々と礼をすると、エセルザは微笑んで、いいの、というように首を横に振って見せた。


「こちらに来て三日も眠り続けていたのですよ」

「え、三日…?!」

「このまま目を覚まさないのではないかと心配していました。でもよかったわ、すっかりお顔の色もよくなりましたもの」

「そんなに眠ってたんですか…わたし」

「ええ。それに…」

 くすくすと可愛らしく笑って、エセルザはつなげる。


「三日のあいだ、色々な方がお見えになったんですよ」

「色々な?」

「そう、おかげでとても賑やかな日をいただきました。あれほど家によりつかないアンは毎日ここに帰ってくるし、コンツェ殿も暇さえあれば様子を見に来るといった感じでしたわ。ワルター殿も昨日いらして、貴女が起きていないのを残念がっていました。それに…」

 と言いかけて、エセルザはふと気づいたように口を紡ぐ。


 なんだろう? フェイリットが首を傾げてその先を促そうとするも、エセルザは曖昧に微笑んで誤魔化すだけだ。

 アンの母上というのだから年齢もそれなりなのだろう。けれど彼女には、ふと歳を重ねるのを忘れてしまったような、少女のような印象が垣間見えた。はぐらかされるのさえ心地よく感じてしまうほどの。


「さあ、もうお入りなさいな。目が覚めたばかりなのだから、あまり無理しては倒れてしまうわ」

 背中に温かい手が添えられて、フェイリットは素直に頷く。

「今アンを呼んで来させますからね」

 フェイリットを寝台の上に寝かせて、まるで子供にするかのように額の上を優しく撫でる。感じたことの無い母親のぬくもり――きっと〝母〟というのは、こういう存在なのだろう。


 自分の母も、こんな人だったらいいな……。ぼんやりと思いつつ、フェイリットははにかんだ。




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