138 恋う
通された室は、ディアスにとって強く記憶に残る場所だった。
フェイリットを伴ないバッソス城を訪れた折、最初に彼女に充てがわれた室に違いない。白虎との闘いで負った傷を手当てし、回復までの数日を過ごした場所だ。
彼女との在りし日々が、自然と頬を緩ませてしまう。幾何学の絨毯を四方の壁に掲げ、中央に寝台が据えられる室内は、この城においては二つと無い美しい装いをしている。赤茶の天蓋をのぞけば、愛らしい寝顔を見ることが叶うかもしれない。閉じたままの張りのある布地を指にかけ、ディアスは苦笑した。
「心にくい場所を選んでくれたものだ」
寝台に並べられた品々は、質素な麻地の袋ばかりだった。荷として運ばせるためなのか、駱駝に括る紐まで用意されている。
当たり前だが、そこに一目見たい少女の姿は無い。
「我々が忠誠をお誓い申し上げたのは、貴方様と、サディアナ殿下に対してですからな」
ホスフォネトが袋の紐を緩めたのを見て、ディアスは息をついた。
描かれた幾点もの人物画。そこに描かれた顔を眺めて、押し黙る。
「もしやとは存じますが、ご存知なのでは?」
年を経て飴色になった額縁を持ち上げ、ホスフォネトは言った。
「――何を」
淡い金の髪が巻いて踊り、瑠璃を水で溶いたような色の瞳が、鋭くこちらを睨んでいる。白んだ肌は磁器のように艶やかだが、豪奢な衣装と手に掲げた剣のせいで、女性らしさは感じられない。
「タントルアス王の真実を、です」
玉座から威圧的な目を向ける、かの王の姿。
ホスフォネトは徐ろにその絵を裏返すと、いくつかの留め具を外しにかかる。嵌め込みの木板を取り払えば、純白のドレスに身をつつむ花嫁の姿があらわれる。
「ああ」
観念して首肯き、ディアスは寝台のふちへと腰を下ろした。
「地下に置いてあっただろう」
「……おや、それでは相当な昔からご存知だったのですな」
わたくしどもの大きな秘密でしたのに、とうそぶくと、ホスフォネトは声をたてて笑う。
「見つけたのは十一の頃だったか」
ディアスは母親を失くした、権力には程遠い四番目の皇子だった。
遊牧民出身の母に、元来後ろ盾が無かったのは当たり前のこと。その皇子を庇護するに至った経緯を、バッソスの公王は語らなかった。ハレムに入宮させた娘に、未だに子が授からないせいか。それさえも理由となるものか、子どもの時分には分かるはずもなかった。
夏の終わりの三月ほど、滞在を勧められるようになったのは九つを数えたばかりの頃だ。
傭兵軍に混じり、小競り合いにも等しい戦闘に連れ行かれる日々。戦いのない日は決まって倒れるほどの鍛錬を積み、夜は気を失うように眠りにつく。
余裕のない日々は、三年目ともなると変わりを見せた。
隙をみてさぼることを覚えたディアスは、その足で城の片隅にたどり着く。掘り込まれた石の階段の先に、あの小さな地下書庫があったのだ。
埃にまみれた空間で見つけたのは、見たことのない肌の色をした、美しい人物の絵だった。
芸術品とはほど遠い生活をしているがため、ためつすがめつす、絵画を眺めた。その裏に隠された仕掛けに気づいたのもすぐのこと。
――頭を殴られたような衝撃だった。
純白のドレスに身を包み、愛くるしい眼差しをこちらに向ける女性。美しい、という感想が、素直に口からこぼれ出た。と同時に、朗らかに笑む眼差しが、描き手に向けられたものなのだと、ディアスは覚ってしまった。
「バスクス……」
絵を残した人物の名は、あろうことか自分と同じだった。少なからぬ縁に、複雑な想いがよぎっていく。可憐な花嫁と、彼女が慕わしげな目を向ける相手。どちらも大昔の存在であろうに、自分が成り代わるかのような感覚におそわれる。
「俺は、」
郷愁、恋慕、嫉妬。子どもには理解しがたいいくつもの感情が溢れだしていた。
遠く、自分を捜す声がまじる。鍛錬を抜け出したことが、ついにばれてしまったのだろう。こんな場所に居たと知れてはまずい。
慌てて〝探険〟の痕跡をかくすと、ディアスは絵画の一つを持ち上げた。
花嫁を描いたものではない。玉座に座る、責務に囲われたような堅い目を宿す王の絵だ。何者であるのか、どこの国の王なのか。確かめるために拝借して、額から抜いた紙を丸めた。
懐にぬくもりを感じながら、その後の鍛錬を続けた記憶は、今も鮮明に残っている。いずれ返すつもりだった絵はそのままディアスの手に残り、ウズルダンをはじめ、フェイリットにも見せる未来が生まれた。
「描かれた人物が千年も前の王と知ったのは驚いたが。メルトロー王国にタントルアス王の生き写しがいる、と伝え聞いたのも間も無くのことだった」
「サディアナ王女のことですな」
ホスフォネトの言葉にほんの僅か、頬を動かしてディアスは続ける。
「私は憧れていたのだろうな。タントルアスの生き写しと謳われる王女と耳にして、その存在を気にかけるようになった」
美しく可憐な花嫁と、それを描いたであろう、自分と同名の男。興味を抱く材料なら、それだけで充分だった。
「……始まりはそんなところだ。女も知らぬ子どもが、埃の積もる地下で宝物を見つけた」
自嘲気味に笑い、絵画の一つを目線に掲げる。
「まさか忘れかけた頃に、〝生き写し〟の張本人を目の当たりにするとは、思ってもみなかったが」
囚われていた頃、牢獄のはざまに見つけた自由な世界の色の空。目の前に現れたフェイリットが、同じ色の眼差しを向けてきた時――なんの冗談だ? と、神がいるならば問いただしたくさえなった。
幼い頃に憧れを抱いた女が、美しい空の色を瞳に宿して立っていたのだ。
手に入るかもしれない。あの美しい眼差しが、屈託のない笑顔が、自分に向けられることになるのなら。
頭をよぎる自惚れた考えを、否定しきれぬまま彼女に触れた。嫌ってくれるなら諦めもつく。自分には過ぎた存在だったのだと、断ち切ることが。
物足りなくなることなど、最初から分かりきっていた。
フェイリットのくれる真っ直ぐな眼差しと、分かりやすすぎる恋心……それがたまらなかった。
「ご本人には?」
「こんな恥ずかしい話ばかり、言えるわけがなかろう。まして赤子の頃から気にかけていたなど、聞いて気持ちのいいものではない」
大仰に振り返るディアスから絵画を受け取り、
「むしろ気持ち悪いと嫌ってもらったほうがよろしいのでは?」
ホスフォネトは可笑しさに声をたてて笑う。
「……言うようになったな」
額に縁取られたタントルアスはフェイリットとそっくりだった。それでも、色味だけは違う。
淡い色の金髪と、瑠璃を水で溶いたような瞳。それがタントルアスの色。白藍の色にほんのわずか、青磁を流しこんだかの色がフェイリットだ。
どちらも美しいが、求めてやまぬのはたった一人。
「この話は終わりだ。これらの運ぶ先なら、ドルキア公国でいいだろう。ウズルダンならうまく隠すはずだ」
麻地の袋の紐を閉じれば、もう中身はわからない。粗末な材に覆われてさえいれば、大抵の者は見向きもしないであろう。
「最後にもう一つだけ、陛下。この絵を描いた人物のお話と、タントルアス王の歴史に埋もれた諡号があることをお伝えせねばなりません」
ホスフォネトが合図をすると、小姓が二人、幕をめくってあらわれる。彼らは慎重な仕草で、頭と背に袋を掲げ持った。その様子を見守りながら、ホスフォネトは口を開く。
「アルジャダール・ケルバ・バスクスは、タントルアス・シフィーシュを〝砂海の至宝〟と呼んだそうです。それが我々砂漠の民にとって、特別な謂れとなったのは貴方も御存知のはず」
ホスフォネトは二人の名を、敬称も排して正式に呼んだ。その意図に眉をひそめ、ディアスの低い声が続く。
「砂海の至宝……なるほど。二代目皇帝と三代目皇帝は兄弟だったと聞いたことがある。戦に明け暮れたアルケルバは遂に自らの後宮さえ持つことなく、独り身のまま死んだと。……結婚していたのか」
「ええ、それもただ一人の女性と。アルケルバ様はタントルアス殿下に生涯を捧げたのでしょう」
一夫多妻や一妻多夫。夫婦の概念そのものが希薄であることが多い砂漠の民だが、一夫一妻の慣習そのものがないわけではない。
砂海の至宝――それは、この世界に相手が唯一無二であるという、強い誓いの言葉だった。
「そしてタントルアス王も、砂漠の民の古き誓いを喜び受けました。諡号を自ら〝砂海の至宝〟と定め、死してのち他の贈り名で呼ばれることを禁じまでしたのです」
諡号とは死してのち、在りし日の主君を想って名付けられるものだ。それを自ら禁じ、ひとつに定めてしまうとは。結ばれた絆の強さは、いかほどであったのか。
「耳の痛い話だな」
アルケルバの遠い想いが、痛いほどによくわかる。そして〝単婚〟が許された身の上であったことが、羨ましくもあった。
〝砂海の至宝〟の誓いは、自分たちには赦されない。
――それでも。
「それでも、心に留めておこう」
綻ぶような笑みを残すと、ディアスは再び城壁へと身を翻したのだった。
◇ ◇ ◇
自分の名を呼ぶ者たちの声を、遠く向こうに聞いていた。懐に入れた可憐な王の絵に小さな手を添え、ディアスは城壁を駆け抜けた。
城をぐるりと囲む塀の果てに、あの場所はあったのだ。
大人の身幅ほどの階段が、ぽっかりと空へ向けて口をあけていた。強い日射しが塀にかかり、真っ黒な影がさす。そこに開いた階段の向こうに、雲間から注ぐ太陽の帯が見えていた。
吸い込まれるように登りきり、そこでディアスは声を失う。
自分と同じに空を見上げる、小さな子どもがいたからだ。
肌の色は駱駝の乳ほどに白く、薄い色の金の髪は短い。普通に暮らしていたら、知り得ることのない体色だった。普通に暮らしていたなら。
しかしディアスは傭兵王ホスフォネトが地下に隠した〝秘密〟を、すでに暴いていた。埃にまみれた薄暗い空間で見た、メルトロー王国の古代王の絵画だ。
雲間からの光を受けて、その子どもは神々しいほどに輝いて見えた。麻でつくられたぼろを着ていてもわかる。
短い髪は柔らかく巻き、風に遊ばれてほうぼうに散り、その瞳は――。
「あっ」
金色の子どもが振り返り、ディアスの存在に驚きを見せる。
ディアスは懐に忍ばせた絵を、取り出して広げそうになっていた。それほどに目の前の子どもは、地下で見つけた美しい王に似ていたのだ。
こぼれそうに大きな瞳が、いっそうに愛らしく輝く。
「みつけた」
まるで、探していた人物を見つけたかのような言葉。そうではないと知りつつも、親しげに寄せられた満面の笑みを、受け止めてしまう。
「迷子……なのだろう、親はどこへ行った」
「わかんない」
自信なさげに呟いて、金色の子どもは首を傾げた。
「いっしょにいてくれるでしょ?」
多く見積もっても四つくらいの齢だろう。迷子と気づいても、涙ひとつ浮かべない。嬉しそうに手をとられ、並び立って空を眺める。
光の柱が空から注ぎ、等間隔に並んでいた。美しい光景に口を開けていると、金色の子どもが繋いだ手を引いてくる。
「きれいよね、あたし、あそこをとんだの」
夢見心地な顔をして言う。眠りながら歩いてしまう病があると聞くが、この子どもがそうかもしれない。思いながら、ディアスは透明な色の眼差しを見つめた。
「そうか」
否定も肯定もせず、ただ子どもを見続けた。似ている。唯一知る北の種族である、絵画におさまるかの王に。
邂逅は、ほんの短い刻で終わった。姿の見えない皇子を捜して、従者が数人追いついてきたからだ。
呼び声に、慌てて階下へ返事を返す。そこまでしてから、ディアスははたと振り返った。
そこに居たはずの金色の子どもは、一瞬の隙に居なくなっていた。まさか落ちたのだろうか。ぞっとして、屋上から身をのり出す。
眼下の砂漠には、まばらに生える覇王樹が見えるだけだった。周囲を見回せば、優しい紫の空が目に映る。
尾を引きたなびく金色の雲が、ゆうゆうと、はるか遠くへ流れていった。
◇ ◇ ◇