136 千年を生きる苦しみを
甘くまろやかな液体に、フェイリットは夢中になった。花の香りが鼻腔をぬけて、すっと喉におちていく。美味しい。その感覚が久しいものだと気づいた時には、抗える一線を越えていた。
菓子も食事も花の香りを付けた茶も、水ですら美味しいとは思えない日々。船酔いに似た眩暈に、始終つきまとう眠気が気力を削ぐ。どれほど待っても慣れないけれど、普通の生活に戻ることはできていた。少なくとも、寝込むほど悪くはなくなった。味覚だけはどうにもならなくても。
美味しいと感じるものが、まだあったなんて。フェイリットは喉を鳴らし、魅了されるままに液体を飲む。
もっと、もっと、もっと欲しい。
……もっと……そう、もっと甘やかなあの味が欲しい。もっと身体の髄に沁み、心地よく痺れさせるあの味が。身体の底から力を湧かす、芳しい感覚が……恋しい。
彼が恋しい。
不意に浮かんだ面影が、脳裏をかすめて像を結ぶ。
――予は其方に――次代イクパル帝国の〝母〟となってもらいたい。
夢ごこちの微睡みの中。夜の空にも似た広がりのある声が、フェイリットの腰元まで下がりくる。片膝をついたその人の、手の甲に触れる唇の温かさ。求愛に似た仕草に、フェイリットは戸惑った。
「陛下……」
誰よりも逢いたい人物が、柔らかな笑みを浮かべている。
記憶の中の空想だとわかっていても、その眩しさが、どうしようもなく胸を締めつける。
――受けてくれるか?
深く、心のこもる声色だった。愛してはいないと告げた同じ口で。込められたものが何であったのか、もう確認することはできない。それでも……。
彼の唇が触れた手の甲から、痺れるほど熱が広がっていく。身体を覆うさざなみの正体が、今ならはっきりとわかるのに。
〝愛しています〟と、告げてしまえばよかった。行き場をなくした想いが、散ることもできず燻りつづけている。
――お前ならできる。
身体中の血潮が、荒れた海のように騒がしい。波を泡だてる音まで耳に響くようだった。
脈うつ血のざわめきが、燃え上がるような髄の痺れが……ひと息に意識を引きずりあげる。
「殿下! サディアナ殿下っ!」
強く肩を掴まれて、フェイリットは我に返った。
大きく開いたその瞳に、何者かの首筋が映る。白く、やわく滑らかで、ほんのりと温かい肌。
――わたし、またこんなことを?
ぬくもりを唇に感じて、フェイリットは目を瞠る。誰かの首に噛みついていた。飲み干そうとしているものの正体は、間違いなく血だ。
違う。こんなの……こんなのは人間がすることじゃない。
――でも、わたしは人間じゃない。
人間であることを拒絶して、諦めようとしたのではなかったか。化け物として死に行こうと……、
「……い、や、」
死にたくはなかった。身体を流れる竜の血が、ヒトの血を凌駕する。器が耐えきれず滅びてしまっても、
もう一度逢いたい。もう一度…………ディアスに逢いたい。
「さあ――私を喰え、サディアナ」
どこか懐かしいその声は、まるで歌のように美しく、フェイリットの耳に響いた。花の香りのする、甘美な誘惑。けれど本能が告げている。
彼女は同族だ、と。
耳を突き抜ける悲鳴が自らのものと気づくまで、フェイリットは叫び続けていた。寝台にいたはずの身体を床に伏せ、両手は頬と耳を覆って。
つややかな石がはめ込まれた床は、思いのほか冷たい。石のつなぎ目に爪をかけ、フェイリットは力を込めた。血が滲むほど強く握りしめる。
固く閉じた瞳を再び開けた先に、鎧に包まれた足先がゆっくりと並んだ。大窓から差し込む黄昏の光で、白銀の鎧は黄金色に輝いて見える。金具のこすれる音も、外套の衣ずれさえ聴こえない。常人を超えた所作の美しさに、フェイリットははっとする。
「……エレシンス」
ふと浮かんだその名を、衝動のまま口に出す。
見上げた黄金の頬に、美しい笑みが広がった。〝ようやくわかったの〟――その笑顔が答えを示す。
「サディアナ、我が愛しきタントルアス」
片膝をついたエレシンスが、爪先に血のにじむフェイリットの手をそっと持ち上げる。
「私を喰らいなさい、さすればおまえは全快する。竜の血肉には妙薬としての力が宿る。寿命を数十年のばせる。私も……おまえの手で終われる」
持ち上げた手に唇をつけて、エレシンスは笑った。
「……が、それは私の勝手だな。〝眼〟を持っているだろう? せめてそれを飲み込め。喪った血をつくりだす助けにはなる」
目の前に跪いたエレシンスの目は、片側に宝石の散らされた帯が巻かれていた。つまり〝無い〟のだと悟って、フェイリットはその意味を考える。エレシンスの眼だという宝石を、たしかに譲り受けたことがあった。バッソス公王から近づきと詫びのしるしにと。
「まさか、ないのか」
驚いたように眉を上げる美しい顔を見つめて、フェイリットは慌てて口を開く。
「ご、ごめんなさい……!」
ただの綺麗な石だと思っていたなんて、口が裂けても言えない。まして、怒りにまかせて恋しい人に投げつけましたとは……言えるわけがなかった。
「ええと……」
身体の一部を失くされて、さぞ激怒することだろう。下げた頭で、フェイリットは代わりになる言葉を必死に探す。失くした、忘れた、投げつけた……けれど良い説明など浮かびそうもなかった。
「抜けているのは変わらないのか」
ふと柔らかい口調になって、エレシンスは肩を揺らす。
「へ?」
「そこの、女。サディアナの側女か?」
しばらくの間があって、〝はい〟と返事が返ってくる。そこで初めて、室内にいるのが自分とエレシンスの二人ではないことにフェイリットは気づいた。側女、という表現が適当ではないにしろ、フィティエンティが世話を焼いてくれているのは確かだ。声の方に目を向けると、少し離れた場所に立つ彼女の姿が見える。
「殿下のお世話をさせていただいている者ですわ」
フィティエンティはそっと笑みを寄こして言い添えた。その視線を受けて、フェイリットは頰を緩める。倒れ込んでからこれまで、ずっと気にかけてくれたのだろう。顔ににじむ疲れの色が、フィティエンティの優しさだ。
「私の血を、おまえにもやろう。サディアナの側に居たければ、だが」
エレシンスが歩きはじめて、フィティエンティの目の前で止まる。
「我らが普通の人間でないことは、もう理解できているだろう?」
声にした返答は、フェイリットには聞こえなかった。
フィティエンティは促されるままにエレシンスの首もとに唇をつけ――間を置かず卒倒する。
「フィティエンティ!」
「しばらくは生死を彷徨うだろう」
駆け寄ったフェイリットを尻目に、エレシンスはあっさりと告げた。重要なことを、伝えぬまま血を飲ませるなんて。
「そんな、」
「まったく平気な奴も中にはいるが、血を与えるときは気をつけろ。寿命を分け与えることに代わるのだからな」
「分け与える……」
繰り返して、フェイリットは表情を曇らせる。考えたのは、フィティエンティの生死ではなかった。
「サディアナ」
けれど名を呼ばれ、つかみかけた思考が散っていく。エレシンスに視線を返した時には、何を思い出そうとしていたのか分からなくなっていた。
「私の世はとうに終わっているが、主人を喰い殺した身では眠り続けることしかできない。おまえは、一体どうしたいのだ?」
フィティエンティを寝台に横たえて、エレシンスが振り返る。黄金の眼差しがきらめいて、フェイリットは眩しさに目を細めた。
「竜は、たった一人の人間を悠久に愛することができる。相手がどんなに冷たかろうが、他のものを愛そうが……たとえおまえを忘れてしまっても。竜が愛を捧げられるのは、たった一つの魂だけだ」
エレシンスは哀しげに囁き、フェイリットの頰をそっと撫でた。母、姉、親友、恋人……。どれともつかぬ感覚が起こり、撫でられた頰に涙がつたう。
「私の可愛い子――……身をもって実感するがいいわ、千年を生きる苦しみを」
身につけていた鎧をひとつずつ外しながら、エレシンスは花が咲くように笑った。がちり、と落ちる金属の音が、鎧の重みを物語る。
「そして、千年も愛すことのできる素晴らしさを」
それを理解できるものが、おまえのほか誰も居なくとも。エレシンスは小さく言い添えて、露台へと身を躍らせた。あっという間に欄干に跳ねて、海のあるほうへ落ちていく。
フェイリットが手すりから顔をのぞかせた時には、すでに飛沫さえ見つけられなかった。
「……逢いたい」
この感情は、きっと竜の本能でしかない。けれど紛れなくその本能が、どこへ向かうべきか告げていた。