135 花と微睡む
*流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
テナン王城の庭園を歩きつつ、フィティエンティは石畳を踏む足下からそっと目線を上げた。
庭を彩る中央の円舞台には、噴水が虹色の飛沫を上げている。暑い日が何日も続き、花園の風情も変わっていた。植え替えられた大輪の花々は、色も香りも濃厚な夏の報せだ。すっきりと乾くテナンの夏は、イクパルの本土ほど辛い季節にはならない。海風に吹かれ、踊るように揺れる花を楽しみながら、フィティエンティは目的の宮へと視線を変える。その先に、もう出向くことも久しい王女宮があった。
シアゼリタという主人を喪い、長く無人となっていた場所。先日サディアナ王女が移されることになって、フィティエンティは自然と世話役を命ぜられた。療養には静かな環境が必要だ、というのは建前。実際は王城――コンツ・エトワルト王との距離を、保っておきたいに違いない。指示したのが丞相シバスラフであろうことは、考えずとも察せられる。
隔絶された場所に建つ王女宮は、王城から容易に往き来することができない。空中を結ぶ連絡路は、かつて王城を囲む四つの宮に隈なく巡らされていた。王女宮を繋ぐ通路のみ、先代王が取り壊しを命じたのだ。庭園を横切り誰かの目に晒されなければ、王女宮へは辿り着けない。テナン前王バインツが施した、最大級の警戒だった。先帝に妻を奪われた、忌まわしい過去を持つがゆえの。
宮の入り口に立つ衛兵に目配せして、その横をすり抜ける。来館は伝えられているため、あとは居室へ続く長い階段を登るだけ。居住空間の無い一階部分は、人が集う応接間になっている。無人の広間を足早に過ぎ、フィティエンティは階段に沿う手すりに身を寄せた。
「ティリ・ヤローシテ夫人」
頭上に降りかかる声が、フィティエンティの足を止める。視線を上げた先に老齢の御典医を見つけて、
「ルジテ医師」
フィティエンティはそっと膝を折り礼を向けた。
「どうも。サディアナ王女の居室へお出向きですかな」
休み休み階段を降りてきたのだろうか。老医師は軽く掠れた息をついて、会釈で返す。
「どうかなさいましたか」
「……ええ。……サディアナ王女の件ですが」
顎を覆う白ひげに手を沿わせ、ルジテ医師は目を伏せる。何か言いづらいことでもあるのか。思わず身構えて、フィティエンティは続く言葉を待った。
「……月の物が始まってしまったようなのです。つまり――お子は完全に」
――流れてしまった。
言葉を最後まで続けなかった老医師と目を合わせ、フィティエンティは瞠目する。
サディアナ王女に懐妊の兆しがあったのは確か。初期段階であったのと、様々の要因も多く重なったせいで……無慈悲な結末を迎えてしまったことになる。
「ご本人には?」
診察を終えた戻りなのであろう。フィティエンティの曇った視線を受け止め、老医師は深い皺を眉間に刻んだ。
「実は今朝がたより微睡んでおいでです。言わずとも、察してはおるはずでしょうが……儂からお伝えするのは時期尚早かと」
まるで何事もなかったかのように、身体が大量の血を押し流す。初期だから、若いから、また。そう言葉をかけられても、ちぐはぐな身体と心は、他者にはどうにもできない。それをよく知るからこそ、ルジテはフィティエンティに声をかけた。
「意識の回復が見られたことは、エトワルト陛下にお伝えしました。ですが、陛下よりも前に貴女がお側におったほうが、よい気が致しましてな」
果たしてサディアナ王女の心を、〝こちら側〟の人間は支えられるのだろうか。老医師に首肯きながら、小さな不安が無視できない。
舐め合う傷なら持っている。しかし、真に癒やせるのはサディアナ王女自身と……。
「お報せありがとうございます、ルジテ医師。助けにはなれないかもしれませんが、寄り添うことならば」
フィティエンティの返答を聞いて、老医師は満足げに微笑んだ。
サディアナ王女の姿を居室の寝台に見つけ、フィティエンティはほっと胸を撫で下ろす。
静まりかえった室内には、ただでさえ不安を覚えるもの。微睡みを抜け出し、居室からそっくりサディアナ王女が消えているのでは……。などと、悪い方にばかり考えが向いてしまう。
フィティエンティは寝台の横に椅子を持ち出し、音を抑えて腰掛けた。眠るサディアナを見て、どう声をかけたものか思案する。
首までをしっかりと上掛けに覆われ、両の瞼を閉じたまま。サディアナ王女は眠りのほうへ、深く漕ぎだしているようだった。相変わらず血の気のない顔は、磁器のように白くまろやか。月の色を思わせる睫毛が、時おり微かに動いている。
そのあどけない寝顔には、未だ幼さすら垣間見えた。すでにどこぞへ嫁いでいてもおかしくはない、妙齢の娘なのに。不均衡な印象を受ける王女の眠る姿に、フィティエンティは息を漏らさずにいられない。
「……庭園の花々が、植え替えられていましたのよ。いずれ、ご一緒したいものですわね」
そっと囁いて、サディアナの腹部に触れる。上掛けに阻まれても、ほんのりと伝わる彼女の体温が、なおも胸を締めつけた。
ふと、閉められたままの窓に気づく。この居室の露台は、庭園には面していない。窓を開ければ少し距離を置いた場所に、テナンの海域が望めるはず。
「空気を入れかえましょうね」
塩けの雑じる海風を厭う者もいるが、サディアナにそのそぶりはなかった。
フィティエンティは椅子から立ちあがり、窓を開けて風を招く。
海を撫でた清涼な風が、窓枠に下げた紗布を大きく揺らした。波が揉まれ、優しくさざめく音も聴こえる。子守唄がわりに聴いて育つ、テナンの民の調べだ。
紗布が必要以上にはためかないよう結わえて、フィティエンティはふと手を止める。露台の方向に、何かがよぎった気がした。視界の端に映った影。海鳥にしては、随分と大きな――……、
「きゃっ!!」
露台に向けて身を傾げたところで、フィティエンティは悲鳴をあげた。
海鳥でも、風に舞いあげられた浮遊物でもない。
濃厚な花の香りが、窓から押し寄せてくる。
「何者です! どなたか!」
欄干の上に佇む、白銀の鎧をまとう美しい女。海風に巻き上げられて、黄金色の長い髪が流れていく。
女は緩やかに笑った。
「だれも呼んでくれるな。私はサディアナ、とやらの知り合いだ」
言葉の端に不可解さを残しつつも、女は弁明した。フィティエンティは力の抜けるまま、床に腰を落としていた。
「……知り合い?」
露台の向こうは、何もない。切り立った崖のような風景が砂浜まで続いている。船の搬入口が海に面してはいるが、王女宮とは距離があった。地上からここへのぼる手段は、もちろん無い。
鎧にまといつく臙脂のローブを片手で払うと、女は欄干から跳び下りた。すぐ目の前に着地したのに、鎧はかちりとも音を出さない。優美、としか形容しがたい立ち姿だった。
よろよろと身を立てるフィティエンティには目もくれず、女はその横をすり抜けていく。
「ああ、」
高くもなく低くもなく、けれど艶やかな声。女はサディアナ王女の寝台のそばに立ち、再び口を開いた。
「……ずいぶん弱ったものだな」
愛しいものでも見るかのような、優しいまなざし。膝をつき、寝台に身を乗り出してなお、女の鎧はかちりとも音を鳴らさない。
「サディアナ」
まるで噛みしめるように、女はその名前を口にした。
目の前の光景は、はたして現実のものなのか。フィティエンティは戸惑いに震えながら、見守ることしかできずにいた。それでも、女のまなざしが柔らかいことは救いだ。危害を加えるつもりではないことが、見てとれる。
「血を吐いたのか?」
黄金色の隻眼がフィティエンティを捉える。女の口から出た疑問は、どうやら懇々と眠るサディアナに向けたものではない。
「……ええ、かなりの量を」
疑問に対する答えだけを、フィティエンティは答えた。
「そうか」
女も納得したように頷き、伸ばした手でサディアナの頰に触れる。
「おまえのようなものが、生まれ落ちるとは」
幼子に語りかけるような調子で、女は再び囁く。
知り合いだ、と言ったのを思い出しながら、フィティエンティは首をひねる。若過ぎる風貌をした女は、到底サディアナの母親には見えない。顔立ちを比べても、伯父であるアロヴァイネン伯や、双子のアシュケナシシム王子ほど似てはいない。
では、一体何者なのか――。
ごとり、と音を立てて、鎧の腕部が投げ捨てられる。あらわになる女の白い腕。その内側に口をつけると、女は自らの肉を噛み切った。
「ひっ……」
飛び散った血しぶきが、白銀の鎧をくもらせる。フィティエンティは悲鳴もあげ損なったまま、女の行動を凝視した。
「死にたくはないはずだ。これから見ることは、誰にも言ってはいけない」
目線だけをフィティエンティに動かし、女は言った。血の滴る腕から唇を離せば、顔のほとんどが紅く染まる。
――まさか、血を?
サディアナ王女の頰を撫ぜ、女はそっとくちづける。
「……うっぐううぅ」
しかし、苦しみ始めたのは女の方だ。
「サディアナ殿下?」
何事かと覗き込めば、女の首すじに噛みついているサディアナの姿が目に入る。
「ひっ!」
いつの間にか起き上がり、女を寝台に抑えつけ、ごくごくと喉を鳴らして。その姿を目の当たりに、フィティエンティはようやく身体を動かした。
「殿下! サディアナ殿下っ!!」
声を張り上げ、彼女の肩を掴む。
はっ、と目を大きく開き、サディアナは我に返った。
女に馬乗りのまま、動転したように震え始める。
「……い、や、」
「さあ――私を喰え、サディアナ」
突如。張り裂けるような悲鳴を上げて、サディアナ王女は寝台から転げ落ちた。