129 恋文
月明かりに照らされた砂の大地に、波紋の模様が遥か彼方までつづいていた。
人の歩かぬ夜間、風が砂粒をさらい美しい模様を描いてまわる。それは〝神のらくがき〟とも呼ばれる、自然がつくりだす現象だ。
砂のぬかるみに足をとられながら、シャルベーシャは砂紋を歩く。
幼い頃から、この一番乗りの風景が好きだった。遊牧から隊商まで、一族がこなした仕事はたいていが夜も明けやらぬ早朝に始まる。
誰よりも早く起き、風の描く未知の世界を探索する。その高揚は何歳になっても忘れられるものではない。
「……敵?」
緩やかな勾配の、ちょうど窪地にあたる場所だった。ぽつんと点をうつように、黒い影が遠目に見える。シャルベーシャは目を凝らしながら、慎重になって身を屈める。
ヤンエ砂漠を走り抜け、バッソスへ辿り着くことのできた軍勢はおよそ一万と少し。帝都侵攻を出迎えた数から、三千余りを欠く結果となった。
敵の追随を切り抜け、戦場を一つ内陸に引き寄せる。――当初の目的は達成されたわけだが、けっして楽観はできない。
シャルベーシャ率いる後続の遊撃隊が、バッソス公国に辿り着いて丸一日。敵の斥候が追いついていても、不思議ではない時期だ。ゆっくりと身を伏せ、判別しようとしたところで、その人影が不意にこちらを振り返る。
「ちっ、」
なんと敏感な奴なのか。殺気など無に等しく抑えていたはず。なのに、その人物はじっとこちらを見据えている。
砂の勾配を一気に下りながら、シャルベーシャは変化のために気を集めた。どこかに仲間を隠していることも考えられるが、現状は一対一。姿を変えてしまえば、勝ち目はこちらにある。
そうして漸く目視できる距離まで近づいてから、毛の逆立ちに足を止める。
「王族? ……くそ、敵じゃねぇだろうが紛らわしい奴め」
ザラナバル――それは白虎に変貌できる一族の総称だったが、太古には〝王を喰わせる〟目的で野に放たれた経歴がある。特殊な王の匂いに反応し、本能のままに喰い殺す。竜、白虎、海獣……数多ある伝説の中で、たった一つ実在する化身。
制御の効かぬ本能の衝動におそわれ、シャルベーシャは歯を食い縛った。
牽制しあえる仲間が遠く離れている今、気を抜けば〝かれ〟を殺してしまう。息を吐き出し肺を空にして、自らの腕に牙をたてる。そうしてようやく、気の昂りが収まり始める。
「……あらかた敵を撒いて来たとはいえ、いつ斥候が追いつくとも限らねえ」
声の届くぎりぎりの場所で足を止めて、シャルベーシャは目前の人物に渋い目を向けた。
声をかけずに立ち去るには、危険すぎるほど陣地から離れた場所。黒の外套を纏うその人物は、月に照らされた明るい砂漠の中で浮きたつように目立っている。
「何してんですかね、供も連れず」
じっとこちらを伺っていた視線を外して、かれ――皇帝ディルージャ・アス・ルファイドゥル・バスクスは嗤った。
「秘密だ。……というわけにもいかん顔だな、」
そうして小さく息をつくと、ディアスは手に持つ羊皮の紙束を揺らして見せる。
「ざっくり言うなら恋文だ」
「はぁ?」
〝冗談は通じない顔だ〟と言い切った直後に、それは冗談としか言えぬ台詞だった。苛立ちも隠すことなく声を上げたシャルベーシャに、ディアスは肩を竦めて見せる。
砂紋の上に胡座を組んで、何かを羊皮紙に書きつけていたことだけは確か。その光景を黙って見つめ、シャルベーシャは首を捻る。
「冗談だ。集めた伽話を書き遺している」
暗愚の仮面を脱いでから、ディアスは時おり笑うようになった。それはどうにも皮肉めいた顔で、場を和ませることはけっして無い。なのにその瞬間に浮かんだ彼の笑みは、終ぞ見たことのないほど柔らかなものだった。
「伽話……閨で誰かに読み聞かせでも?」
「誰かに語り聴かせることは、もう無いだろう」
数百とありそうな羊皮紙の束に、シャルベーシャは再び目を向ける。木材があまり手に入らないこの国で、羊皮紙はものを書き記すのに専ら使われる道具だ。羊の皮を鞣して作られるその品は、手間が多く価値も高い。
誰かの為でなければ、説明のつかない量の束だった。
「そんなの、自己満足にしかならねぇだろ」
誰の手に渡したいかなど、わかりきった話。
あえてその名を口にしない男の横顔を見て、シャルベーシャは息をつく。恋文じゃねえか、という台詞を飲み込んでから、彼が最初に口にした言葉を思い出す。
「冗談にしておけよ。……新しいテナン公王と、メルトロー王国の末子の王女。娶せる日取りが進められてるって話だぜ」
ほんの一瞬、書き続けるその手を止めて、ディアスは息だけで笑った。
「……ならば一層、私の名が分からんようにせねばならんな」
手に渡り、読まれるだけでいい。
集めた数百の伽話を、編者の名も記さず〝フェイリット〟の元に。その込められた想いを、のちに大衆はなんと呼ぶのだろう。
償い、恋情、後悔、思慕、……はたまた健気とさえ呼ぶ者もいるかもしれない。
目前の男に最も似合わない言葉を連想してから、シャルベーシャは苦笑った。
――遠く儚い未来は、想うだけでも気が滅入る。
「気障ったらしいな、女狂いの皇帝サンがよ」
ぎりぎりでハレムに残したジャーリヤたちは、彼自身が血盟関係を結ぶための贄だ。その女たちを、しっかりとイリアス公国まで逃がしてやって。本人はといえば、戦場のただ中たった一人の女を気にかけている。女狂いが聞いて呆れる姿だ。
「私の代わりに渡してくれるか」
装丁のための厚みのある布を被せて、空けていた穴に紐を結わえていく。その手際を眺めながら、シャルベーシャは首を横に振った。
「お前になら頼める」
「ハッ、名前も書いてねえモンを渡せねえよ」
返した言葉は、断るための口実だった。
シャルベーシャの返事に苦笑したまま、ディアスは装丁の一番上に何かを書き加える。見聞きしていた男の像とはかけ離れた、綺麗に整う字面が並び……、
「我が最愛の娘へ?」
書かれた字を声にして読んで、シャルベーシャは首を傾げた。
単純に考えたなら〝親が子に読み聞かせるための伽話〟という意味の題名だろう。しかし〝ギエータ〟が持つ言葉の意図は、それだけではない。本来なら少女、若い女を広く指して言うのだ。
「名前の代わりだ」
緑がかった薄い青の微妙な色合いの装丁。受け取る人物の瞳を思わせる厚布を、よくこの短期間で捜し出したものだ。感心さえ覚えてしまって、シャルベーシャはやれやれと息をついた。
「あんたが自分で持ってたほうがいいんじゃねえのか。俺だって渡せるかどうか分かんねえ。白虎に化けたら素っ裸で、身体にくくれる荷も限られる。失くしちまうかもしれねえんだぜ」
「失くしてしまったなら、それで構わん」
「それじゃあ、」
「……いい加減、手元から離すべきかと思ってな」
彼が見上げたその先には、満ちた月が静かに浮かんでいた。
寂しげな横顔を見てしまっては、もう断る言葉さえ出てこない。シャルベーシャは手の中の分厚い〝恋文〟を、苦い気持ちでじっと見つめた。