122 永遠の命
晴朗な鐘の音が、半球を形づくる空間に鳴り響く。天井の光窓から、太陽のすじが幾重にも玉座を包みこむ厳かな光景。その光の細工は、さぞ見るものに畏怖を植え付けることだろう。
貝殻装飾の施された、白亜の玉座に座するテナン公王。
コンツェはその目前に片膝をつきながら、血の繋がらぬ〝父〟の瞳を静かに見上げた。
「――コンツ・エトワルト・シマニ」
「――はい」
郎とした声で名を呼ばれて、コンツェは掠れた声を返す。
「誓え」
父の鉄紺の瞳がゆっくりと細められ、厳しい色をもって向けられる。
何度も諳んじてきた、立太子への宣誓文。それを頭の中に反芻して、コンツェは重さに瞼を下ろした。
避け続けてきた王太子の座――それがもう、目と鼻の先にある。
「我が血はテナンの炎となりて、国土と民を幾久しく灯し」
正統な血筋の兄たちを押し退け、偽りの自分が王太子となることへの罪の意識。そして兄達はみな、方々の拠点を守るために散らされていった。
この姿を目にすることもなく、兄達は開戦を迎えるのだ。
「強き風の吹くかぎり、燃ゆる血汐で敵をも溶かさん」
頭をゆっくりと傾けて、コンツェは父に礼を向けた。目線の先の床には、群青と黍の色の絨毯が敷かれている。剣と蠍を織りこまれた模様を目に映し、コンツェは立ち上がった。
とうとうこの背中に、毒針を負う日が来たのだと覚悟しながら。
「我がテナンの新しき王太子をここに示す」
王の返事とともに、背後の大扉が軋みながら開かれる。振り返ったその先に、フェイリットの姿があった。緊張の糸がすっとほぐれるのを感じながら、彼女の会釈に頷き返す。
大扉を抜け出た〝サディアナ王女〟の手には、群青に垂れる布とそれに包まれる長剣が掲げられた。テナン王家が代々継ぐべき、片刃の長剣だ。
玉座まで続く絨毯を歩ききり、フェイリットはテナン王の目前で膝をつく。
「生涯をかけて誓います。親しき貴方と我が国とを繋ぐ――使命を」
父王の眉がぴくりと動いたのを、コンツェは見逃さなかった。息子と婚姻を結ばせたい王女が、儀礼通りの台詞を言わない。そのことへの疑問と苛立ちが顔にのぼる。
差し出された長剣を受け取り、コンツェは気づかぬふりをした。
「おめでとう」
そっと囁いて、彼女は見たことのないほど美しく笑んだ。たとえ彼女の身に纏うのが、詰襟の軍衣でなく、王女のドレスだったとしても。その綺麗な出で立ちの前では、どのみち衣装など霞んでしまう。
「ありがとう」
顔を綻ばせて返事をすると、王が仕方なしに息をつき笑うのがわかった。
「新しき時代……か」
ふと何を思ったのか、小さな声で呟くのを耳にする。コンツェは父王を見やって、その額に浮かぶ汗の粒を眺めた。
二人で揃って王の前に礼をして、フェイリットだけが後ろに退がる。
その瞬間だった。
玉座から王が立ち上がり、崩れるように前へと傾ぐ。
「陛下……?!」
父の土気色の顔と、浮かぶ脂汗。信じられぬ思いで見つめながら、コンツェは咄嗟に手の中の剣を放り投げた。
ざわめきや悲鳴がひと息に押し寄せて、事態の異変に騒ぎ立てる。
抱きとめた父王の重みは、想像よりずっと心許ないものだった。コンツェは支える腕に力を込めて、呻く。
「父上……なぜ、」
放り投げた王家の剣が、後ろでガラン、と音を鳴らして転がった。
* * *
「随分前からです。陛下は胸を病んでおられました」
父王と同じ年齢のはずの丞相が、申し訳なさそうに声を落とした。王の部屋へと向かう道すがら、コンツェは額に手をあて項垂れる。
「お支えするまで気がつかなかった。あんなに痩せられていたとは……」
数名の御典医と丞相、そして長兄のデーテンのみが知っていたのだと聞かされた。重大な機密さえ明かされぬ、名ばかりの王太子。その事実を改めて思い知り、憤りを感じずにはいられない。何も知らぬまま、踊らされようとしていたなど……まるで道化だ。
「余計な懸念を抱かせたくなかったのでしょう。特に殿下には、立太子を切望なさっておいででしたから」
「父は――陛下はそれほどの憎しみを、帝国に抱いていたということか」
コンツェが苦々しく吐き出したところで、丞相はそっと歩みを止める。その眼差しに柔らかな光を見つけて、コンツェも戸惑いに足を止めた。
「人は面白いものですな。表に見える一面だけを、過信し評価する。そのことにすっかり、慣れてしまっている」
目前の扉に目を移して、丞相は深い息を吐き出した。
「……お父上は誤解の多きお方です」
扉を叩くために引き上げた手を、コンツェはそっと下ろした。
すすり泣く圧し殺した声がこちらまで聞こえてくる。シアゼリタの母親、クレイリダ公妃のものだろう。娘を亡くし、夫まで。行き場のないその哀しみを想い、コンツェはほぞを噛んだ。
「継母上、」
静かに開け放った扉の先で、寝台の膨らみに被さる継母の背を見つける。
「エトワルト……」
しかし掠れた声を上げたのは、呼びかけたクレイリダ公妃ではなかった。
「父上? お目覚めだったのですか」
昏睡と伝えられた父の、土気色の腕が寝台からふわりと上がる。飛びつくようにその手を握って、コンツェは王の顔を覗きやった。
「よいか、エトワルト」
大きく息を吐き出して、王は〝準備〟した。遺言を語ろうとする姿勢に、コンツェは首を横に降る。
「どうぞ何も言わず、身体をお休め下さい。父上、」
そして力を込めて握られた、皺だらけの手を見下ろす。揺るがない決意が宿るように、王は強い眼差しをコンツェに向けていた。
「〝王〟は、いろいろな所で物を考えなければならない」
「父上……」
「まるで一つの城に――いくつにも区切られた部屋が存在するように。そして王は、その部屋をくまなく見つめなければならない。王はたったひとつのことを、考えてはいられない」
刻々と悪くなる顔色。状態の悪さからは想像もつかぬほど、凛とよく通る声色だった。
「……俺にそんな器量はありません。こっちの部屋を見ているうちに、向こうの部屋では何かが起こっている。それを、俺は感じ取ることはできない。だから俺は、王になどと」
父はこの世に区切りをつけようとしている。その事実に、面と向かうことが出来ないでいた。王太子となった瞬間、玉座も民も約束された場所にコンツェは立つ。それでもなお、戴く王を失くしてしまう恐怖のほうが強く勝る。
「陛下、俺は王にはなれません。王になる器などありません」
「エトワルト。必要なのは、一人でも多く、その部屋を見極められる人物を側におくことだ、エトワルト。暴君が暴君たらしめるのではない。時代の不運が、暴君をつくりたらしめるのだ」
そして息を吸い込んで、いっそうに引き締まる声で父は続けた。
「――暴君と呼ばれるのはお前か? それともバスクス二世か? それを知るのは、神でも天でもない。時代のみだ……わかるな」
「神も天も、気まぐれです」
小さく笑って、父は横たわるまま天を眺めた。
「女と同じだからな」
天蓋しか見えぬはずのそこに、まるで一面の空が広がるかのように、瞳を遠くへやりながら。
何を考えているのか、誰を想っているのか……想像もつかないほど、自分は父のことをよく知らない。
コンツェは父から目を反らして、自分の足元を見つめた。
「テナン公国は、本当に独立すべきだったのですか」
確かにテナンは、他の公国とは違う。帝国に頼らずとも、自分達の手で国を動かしていける力量がある。そしてそれを今、帝国のためだけに使ってもいる。独立で帝国の恩恵が受けられないということは、まずない。
それどころか、自国を潤すことにだけ集中できるのだ。
――しかし、
「停滞は……好かぬ。イクパルは長く、停滞しつづけていた。誰かがそれを、壊さねばならんかったのだ。テナンはイクパル帝国から離れ、新しい時代を歩む時期だと儂は思った」
「父上」
「……その実、帝位の簒奪などどうでもよかったのだ。もしお前の周りにイクパルの帝位がちらついているとすれば、それはメルトローの策謀であろうよ。お前の血のことは理解しておるし、悪いことをしたと――……いいや、今さら謝るべきことでもあるまいな」
コンツェは僅かに目を細めて、口を噤んだ。
「随分と苦しんだであろう。お前も、お前を産んだ母親も」
苦しんだというのは、誤謬がある。出生のせいで生まれた国では育つことができなかった。けれどそれは、他では得られぬ大きな肥やしとなったのだ。
テナンで生まれ、本土に連れ行かれることなく公子としての環境で育っていたなら、きっと今の自分ではなかった。
「儂はお前の血が、帝位を簒奪するものではなく、帝位と対等に渡り合える血であると、そう願っているぞ――コンツ・エトワルト……息子よ」
最期まで、しっかりとした口調であった。
息をひきとる瞬間に、ほんの少し、深い溜め息のような呼吸をのこして。
アルケデア大陸に夏の兆しが見える頃――……テナン公国の老王は、この世を静かに去っていった。
◇◇◇
「エトワルト王陛下、これより貴方が、このテナン公国の頂となります。どうぞ、最初のご指示を」
丞相の声は、静かだが朗々として、まるで唄にも思えるような響きだった。
横たわる父は、もう目を開くことがない。長きにわたって「狡猾」と誹られた男には、あまりにも穏やかな最期。
――父のような穏やかな死を、自分も遂げることができるだろうか。
目を閉じて、瞼に隠された父の瞳の色を一瞬だけ思う。そうして振り返りざまに、コンツェは丞相を見据えて言った。
「宣戦の布告を。我がテナン公国は、独立の宣言を撤廃しない。認めぬなら本土侵攻を以って答えとすると。――これは公女シアゼリタの死に対する報復でもある」
◇◇◇