112 王太子の首輪
拘束されることもなく、実におとなしく船室に籠もったサディアナは、しかし食べものをまったく口にはしなかった。
給仕につけた女が毎食ごとに手のつかない食器を持ち帰り、申し訳なさそうに首を横に振る。
「……帝都を出て何も口にしていないのか」
カランヌの問いかけを受けて、給仕は持ち帰った食器ののる盆を卓上にそっと置いた。
「ええ」
赤っぽい金髪を編み込んで結い上げ、かっちりとした首までのドレスを身にまとう女。テナンの中流貴族の婦人とは聞いていたが、名前はおろか、サディアナ王女に宛がわれた経緯さえまだ訊ねてはいない。
それでも形のいい赤茶の瞳が細まるさまは、彼女が本当にサディアナ王女を心配しているかのように見受けられた。
「最初のお食事は食べられていたようです。ですが、そのあとお戻しになって」
「吐いた? 本当か?」
……初耳だった。サディアナには監視の目が常につけられ、その様子は逐一報告するよう命じている。
食事を食べていないことは見知っていたものの、それが体調によるものだとは思いもよらなかった。
「…船酔いか」
わずかに眉を寄せて、カランヌは声を静める。生まれてから一度も、波に揺られた経験のないサディアナにはあり得る話だ。
「……ええ、口止めされましたわ。船酔いごときで、医者やら何やら煩わされたくないからと。少しでもと思い、しばらくはお食事の時間を挟んでスープをお持ちしていたのですが。先ほどは、もうそれさえいらないと」
その口ぶりは、彼女が給仕の立場を越えてサディアナの世話をしていたことを窺わせた。それがありがちな同情心からなのか、女特有の単なる世話焼きにすぎないのか――カランヌには判断することができない。
わずかに目を細めて、見極めるように女の方を眺める。そうしておきながら、カランヌはつとめて平静を装って口を開いた。
「失礼ですが、お名前を窺っても宜しいですか?」
急に丁寧に変えられた言葉尻に驚いてか、女はふと目を丸くする。
しかしそれには構わず、カランヌは女に好まれると自覚する柔和な笑みを、頬にそっと加えて先を促した。
「フィティエンティ・ティリ・ヤローシテですわ。……亡きシアゼリタ王女の側近を務めさせていただいておりました」
頬を赤らめることも、微笑み返すこともせず、女は儀礼通りに膝を折って頭を下げた。
シアゼリタ王女の側近、と聞いてカランヌは納得したように頷く。
「ああ……なるほど」
噂には聞いていた女性の名前を、記憶の隅から探し当てる。
「エトワルト王太子の愛人、ですか」
それは独身の王子の手綱を引くために、たいていの王国で頻繁に取られる手段だった。
愛人と称して身持ちの堅い既婚の夫人や未亡人を傍に控えさせ、まるで飼い犬のように自国の王子を手懐けさせる。首輪と鳴り鈴の役目もすれば、閨の手解きもする―――要は国にとって都合のいい女。
独身の王子ならばともかく、妻をひとりでも娶ってしまえば、愛人は公的な立場を取らなくてはならないのがテナン公国の法。一夫多妻を基礎とする帝国領土の中では珍しく、メルトロー王国をはじめとする北の近隣諸国に似通う考えをもっている。
正式な伴侶との婚姻と併せて関係を解消することも無くは無いが、大抵の輩は手取り足取りの〝初めて〟の女を棄てることが出来ない。
だからこそ、愛人はたとえ不本意でも妃に取り入る必要があった。
公的であると認められるために、コンツ・エトワルトと婚姻の噂のあるサディアナ王女に近づいた――そう結論づければ、この女の度を過ぎた関わりは腑に落ちる。
視線を受け止めて、ティリ・ヤローシテは片方の眉を動かした。それでも表情を怪訝に歪めなかったのは、〝さすが〟ととらえるべきか。
カランヌは繕うように声をたてて短く笑い、その肩をさっと竦めて見せる。
「ご安心ください。貴女をサディアナ殿下から遠ざけようとはしませんよ、ティリ・ヤローシテ婦人」
「ティリ・ヤローシテは夫の名です。どうぞ、夫人と」
夫、の部分を強調させた発音に、思わず頬が緩む。話しているのはメルトロー言語だったが、婦人と夫人を混同して覚えていないあたりは教養の高さも感じさせる。
おおよそ必要のない敵国の言語を、それも政治に関わりのないご婦人が習得していること自体、珍しく感じなくてはならないのだが。
「それはそれは、失礼致しました。ティリ・ヤローシテ夫人」
穏やかではあれど、しっかりと帆を張れる海風の下にゆったりと艦は揺れていた。見かけだおしの鉄で造られた〝装甲艦〟は、帆の力だけでは思ったように推進できない。風を見る目が余程に優れていなければ、ただの浮かんだ砲台に成り替わる。唯一ギルウォールだけが動かせる、この軍艦の覆しようのない弱点だった。
慣れた者には〝この程度〟と思えるほどの揺れではあったが、サディアナの身体にはどうにも合わないのだろう。
出航して二日ともなれば、いくら波に弱い者でも物を食べるくらいには回復できるはずだろうに。
「短い船旅ゆえに、お口に入りやすいような果物などはなにも積んでいない様子。せめて水分と、塩気のあるものを少しだけでも召し上がっていただかなくては、余計に御加減が悪うなりましょう。サディアナ王女殿下に、好物のものでも見つかればよいのですが」
「好物……」
呟いてから、カランヌは思わず苦笑した。
彼女がおいしそうに何かを食べる光景――そうしてはじめに考えついたのが、サディアナを育てた男の焼いた、歯に突き立つほどに硬いパン。そのパンに蜂蜜を塗り、干し肉を煮た塩味の強いスープに浸して口に運ぶ。
サディアナを迎えにいった〝あの夜〟――王宮の華やかな料理に慣れてしまったカランヌにとって、その貧しい卓は食事にも値しなかった。
けれどそれをおいしそうに口にする彼女が、なぜだかずっと忘れられない。
「蜂蜜……」
そうして口から漏れ出た一言を、ティリ・ヤローシテ夫人はすかさず聞き取ったようだった。
「蜂蜜? ああ、それならば調味棚にあったのを見かけましたわ」
言い置くや否や、夫人が身を翻して船室から出ていく。その背中を静かに見届けて、カランヌは目を閉じた。
「あれからもう半年近くもたつのか」
彼女を迎えにアルマ山に入り、そして逃してしまったあの日から。
ずいぶんな回り道をしてしまったが、お陰で大きな土産もできた。イクパル帝国をついでに崩壊させるという布石が。
卓に乗せられた盆の皿には、薄く切られた酢漬けの魚が盛りつけられていた。白身で淡白な味のそれを一切れ摘まんで、カランヌは口に入れる。
「……酸っぱいな」
海洋国の料理は不得手なものが多いな…と眉をひそめて、カランヌは操舵のギルウォールに会うために船室を離れた。