111 虚空の雨
真っ白にけぶる湿度の高い霧が出て、船出をするには最悪の日和だった。
埠頭へたどり着いた頃には、まだ波も穏やかで雲間から青空さえ臨めていたのに。追い打ちをかけるように粒の細かいさらさらとした雨まで降り出して、身体に優しく吹きつけてくる。
「この天気じゃ、馬でも使わないと大変だな」
コンツェは黒塗りの鉄でできた軍艦の甲板に立って、追ってくるはずの人物に向けて目を凝らした。この視界の悪さなら、出港もすぐには叶わないだろう。
目立たないよう気をつけねばならないのは、イクパルで顔の知れたコンツェだけだ。あの三人なら、なんの憚りもなく馬で最短の距離を移動できるはず。そうしたなら、ここへの到着はもうじきなのだが。
「おーい、王子さんよ」
かんかんかん、と梯子を登る音を背中に聞いて、コンツェは後ろに目をやった。
まといつく霧を煙たそうに手で払いながら、真っ白な空間から男が一人すべり出る。
「いつまで突っ立ってる? ベタベタになっちまうぜ、身体」
特にこういう日はなぁ、と言って男は右手でしきりに霧を払う。扇ぐものでも持たせてやりたい気持ちになりつつ、コンツェは男に向けて小さく会釈を返した。
「ギルウォール王子殿下。俺を〝王子さん〟とお呼び下さるのは、色々間違ってますよ」
「そうかぁ?」
ギルウォールは人好きのする笑窪を頰に乗せて、自らの短く刈り込んだ淡黄色の髪を掻きやった。
「くそ、もうベタついてきただろ。湯浴みは暫くできねぇが、お前も我慢しろよ」
「いえ、自分は風呂無しにも慣れているので」
「そっか、軍人だったっけ。俺もなぁ、いっそ坊主にしてぇくれぇなもんだが、…周りの奴らが煩くてな」
「はぁ」
〝痒い〟とか〝塩が〟とか言い続ける目の前の男に向けて遠慮がちに笑みを返しながら、コンツェは相槌をうつ。
メルトロー王家には詳しくないが、それでも北の王族の人間は誰しもが長髪であることが慣例だ。その中でもギルウォール王子は、よほどの変わり者なのだろう。聖職者も驚嘆するほどの刈り込んだ髪を、さらにびっちりと後ろに流して固めている。
先ほど掻きむしったせいでぼさぼさに変わったそれを見やって、王族の体面を保つのも大変なんだな…と他人事のようにコンツェは思う。
「そんで、カランヌとアシュケナシシムはまだなのか?」
言いながら、ギルウォールは懐から小さな単眼の望遠鏡を取り出し覗いた。
「……見えますか?」
「……ああ真っ白だな」
こともなげに返事を返して、彼はまた懐に望遠鏡を差し戻す。コンツェは暫くギルウォールの灰色の瞳をじっと見つめて、何も言わずに頷いた。
「カランヌの野郎に鷹で連絡はもらってある。バスクス二世は予想通り、サディアナを引き渡すのを渋ったそうだぜ」
「…そうですか」
アルマ山から瀕死のところを拾われて、成り行きのままにウズルダンの小姓となった少女。フェイリットがメルトロー王国の第十三王女というのを知らされて、バスクス二世もウズルダンも、さぞ驚いたことだろう。
「まぁ、こっちの軍艦に脅されちゃあ、手も足も出なかったようだがね」
甲板に張り巡らされた鉄製の手すりを爪で弾き鳴らして、ギルウォールは言い結んだ。
こんなものを造れる大国に対して、一体なんの抵抗ができるだろう。文明の進みに於いて百年の開きがあるとは、よく言ったものだ。
イクパルの湾刀と石弓では、メルトローの火薬を使った大砲や銃には敵わない。
「暗い顔すんなよ、エトワルト。独立したら明るい未来! 自由な貿易! だろ?」
聞かれたわけでもないのに、名前を普通に呼ばれたことにコンツェは驚く。
「…そうだったらいいのですが」
テナンの王太子になったのだから、知られていても当たり前か。と思い直して、目線を手すりに乗せた両手に向ける。
「なんだかお前は俺のダチに似てるな」
沈黙のまま真っ白な海を見つめていると、ギルウォールが零すように言った。
「……あいつは多分死んだがよ。お前はその堅いアタマを、絶望には持ってくんじゃねぇぞ」
見透したような言い方をして、それでもギルウォールは明るく笑う。
進んでいる未来が、希望に向かうのか絶望に繋がるのか。それはきっと、すでに運命られているのだ。
コンツェは彼の〝死んだ友人〟というのを、詳しく聞く気分になれなかった。
「おお、お出ましのようだぜ」
遠くから近づく馬の蹄の音がして、ようやくほっと息を吐き出す。
フェイリットの朗らかな笑顔が見たい。それが今、コンツェにとって一番求めているものだった。
* * *
軍艦から岸へ掛けられた梯子を、エトワルトは二段ずつも飛ばしながら駆け寄ってくる。
その様を複雑な気分で見つめて、アシュケナシシムはそばに立つサディアナに目を向けた。
「姉さん、着いたよ」
艶やかな黒毛の馬からするりと下りて、サディアナはそのたてがみに指を絡める。そして礼を言うように額を馬の首筋に近づけたのち、そのままじっと動かなくなった。
あの赤い城を出てからこれまで、サディアナは全く、ただの一度も抵抗することはなかった。用意していた頑丈な鎖の手枷も、轡も、足枷さえも〝必要ない〟と示して。
そうして自ら馬を進めて迎えの艦が待つ港に辿り着いた彼女は既に、エトワルトの知る〝フェイリット〟ではなくなっていた。
「ど…うしたんだ…フェイリット? 大丈夫か?」
恐る恐る近づいて、エトワルトは彼女の肩に手を置いた。
サディアナは馬のたてがみにしがみつくようにしていたのに、はっと気づいて顔を上げる。
「……平気、大丈夫」
どこか遠くを見ていた瞳を、わずかに揺らして笑ってみせる。それは虚ろと呼ぶのがしっくりとくる、感情を置き忘れたような笑みだった。
「フェイリット?」
サディアナはエトワルトの呼ぶ声に、それ以上反応することは無かった。案内も待たずに、繋がれた人形のように歩いて艦の梯子を上ってゆく。
唖然としてそれを見送ったあとで、エトワルトは拳を握る手に力をこめた。
「いったい……一体、何をして連れてきたんだ! お前か?!」
カランヌの胸ぐらに掴みかかる彼の背中に、アシュケナシシムはようやく触れた。
「待って、エトワルト。玉座の間で姉さんに会ったときにはもう、あんなだったんだ。カランヌも僕も、何もしていない」
無理強いすることも、彼女の心を苛む発言も自分たちはしていない。
メルトローに帰ることに、彼女が心の奥で拒絶を示した。それが単純な真実。そう…もしかすると彼女は、
「そうか、…またあいつか」
エトワルトは、奥歯を音が鳴るほどに噛み締めて…震える声で言い切った。
「あいつが……フェイリットに何か吹き込んだんだ」
確信を持って握られたその拳を見つめて、アシュケナシシムは胸が苦しくなるのを堪える。
イクパルを潰し合わせるために。そうなるように仕組んで、完成してしまった縮図。彼と敵対したくはないと、そればかりを考えて隠してきた策謀の真実。
引き返すことはもう出来ない。
「…そうだよ。バスクス二世が、君の妹を殺して、僕の姉さんを壊した」
もう君を、心から親友だと呼ぶことはできないだろう。
アシュケナシシムは心で泣いて、怒りに震える〝親友〟の肩をそっと抱いた。