110 我が最愛の子ら
*後半の牢獄の場面に、暴力や流血の表現があります。苦手な方はお気をつけ下さい。
「……無念でなりません」
ひと際静まりかえった玉座の間で、ジルヤンタータはつぶやいた。しぼりだすように出たその声は、彼に対してではなく、むしろ自らへ向けたもの。
メルトローからの刺客としての役目は果たさぬまま。もう長らく国王であるノルティスに向けて、定時の鷹も飛ばしていない。放って置かれているということは、さしたる脅威にはならないと判断されているのか。
しかしその現状でさえも無念に思えてならなかった。
ジルヤンタータは顔を歪めて、少し向こうに立つ皇帝の背中を見つめた。
バスクス帝は、ただ前だけを――小さな背中が去って行った、垂れ幕の向こう側だけを見つめていた。
まるでその残像を、必死で目に焼き付けるかのように。
「なぜ逃して差し上げなかったのですか、あのまま逃れてさえいれば、」
八つ当たりのような台詞をジルヤンタータは呟いた。その選択肢はあり得なかったと、わかっているのに。
バスクス帝は振り返り、息をついて応えた。
「単なる我が儘だ」
その手に小さな琥珀色の珠が乗るのを見とめて、ジルヤンタータは眉根を寄せた。フェイリットが引き千切り、彼に投げつけたエレシンスの宝石は、室の燈にあてられて時おり美しく煌めく。
「逃したら、あれは殺されてしまうだろう」
幸せのこもる贈り物では決してない。その琥珀色の珠を大事そうに握り締めて、バスクス帝は静かに言った。
「あれはもともと、私の手には掴めぬ〝光〟だった。……私は悪い男だ。恨み言ひとつでも言わせて、忘れてもらうしかない」
メルトローがこの国に攻め入らない確約を取り付けるためには、フェイリットを渡すしか方法が無かった。他の選択肢を選べなかった彼の憤りは、きっと計り知れないほどに大きい。
「お前も早くどこぞなりに消えるべきだ、ここはもう安全ではなくなる」
バスクス帝は玉座への階段を上りながら、漆黒の外套を羽織りなおす。
シアゼリタ公女が亡くなって以来、彼は真っ黒で色味の無い衣裳を纏いはじめた。それは誰が見ても喪服と映る姿。
年若い少女のためとも、自らの生への諦めともとれるその行為を、ジルヤンタータは苦々しく見つめる。
「お待ちを。少し…昔話をしてもよろしいでしょうか」
ジルヤンタータは立ち上がるバスクス帝の背中を見つめ、声をかける。
「…昔話」
バスクス帝は振り返ることはなかったが、進みかけた足をふと止めた。
「わたくしが、この国を去ったのは二十年前のことでした。まだ三つになったばかりの息子は、ほんとうに可愛い盛りで……」
ふと、視線を感じて目を上げる。バスクス帝が少しだけ身体を傾けて、こちらの―――ちょうど床の辺りを見るともなく見ていた。ジルヤンタータは小さく息をついて続ける。
「…幾つかの策略が、その可愛い息子の命を脅かしておりました」
先帝アエドゲヌの愛妾だった、何の後ろ盾も持たぬただの遊牧民の出の娘が、四番目の皇子を産んだ。それは権力のある他の妾妃を、触発するには充分な火種であった。
「わたくしの息子は産まれてすぐに、殺される運命を背負った。第一皇子の母である、イリアス公女の手によって。彼女はわたくしに〝息子の命を延ばしたければ、こちらに渡せ〟と、自分の傘下に送るよう差し向けたのです」
ジルヤンタータは絞り出すようにして話しながら、大きくなった目の前の背中から視線を反らした。
「わたくしは、最愛の息子の存命と引き替えに、この国を去りました」
憤りだけを抱えて生きてきた。けれど、様々な出逢いが……リエダやフェイリット、そして再び舞い戻ったこの国での日々が、間違いなく癒やしとなった。
そしてきっと彼にとっても、フェイリットは大きな癒やしとなったはず。
大切なものを手離す苦しみを、これ以上の痛みを……もう何もかも喪いすぎている〝あなた〟に、背負って欲しくはない。
その願いをはっきりと口にすることは、ジルヤンタータにはできなかった。
「産んだことに後悔はあるか?」
しばらくの沈黙の後に、バスクス帝は静かな声で言った。淡々とした、何の感情も滲まない声色で。けれどその押し隠した感情の裏に、どれほどの激流をとどめているのか。
「ございません。今も昔も」
迷いなく口にしたジルヤンタータは、視線を真っ直ぐに玉座へと上げる。皇帝の椅子には座ることなく、その階段の中ほどで背を向けていたバスクス帝は、ゆっくりとこちらを振り返った。
そこには漆黒の、闇に溶け込む静かな双眸がならんでいた。
「牢獄に居た頃、俺は空ばかり仰いでいた。小さな拳ほどの穴から、わずかながらに注ぐ薄い青の光を。あいつの瞳を初めて見た時―――焦がれた光をとうとう見つけたような気になったものだ」
「…ディルージャ」
バスクス帝はふとして小さく笑うと、合わせられたその瞳を足下へ戻す。
「立ち去るがよい。もう二度と、会うこともないだろう」
* * *
背に打ち据えられた鞭は、時をかけず肉を腐らせた。
痛みはすぐにわからなくなる。神経までえぐり出す焼けるような苦しみには、耐えることもできる。だが血と膿で腐りきった背中から、特有の甘臭が発せられるのは、なかなか慣れるものではなかった。
牢に収容されているのは、皇族に恨みを持つ者ばかり。そのために、いたぶられる理由には事欠かなかった。
纏いつく血の臭い、膿んだ身体の臭気、牢特有のすえたような異臭――出される食事は些末とさえ言えぬ家畜同様の餌で、顔をしかめるほど腐り落ちているものばかり。
そうして絶望のまま一年を暮らし、彼は着実に死へ向かった。
発熱のせいでままならぬ意識がある日捉えたのは、石壁を切り取られた小さな小窓と―――美しい色の空。
暗闇の中で唯一の光を仰ぎながら、ぎりぎりの命を繋いでいた。
やがて銀髪で肌色の薄い男が現れるようになって、いつの間にか看守が一人、また一人と減っていく。
その男は名を〝ウズルダン〟といった。
渡された毒薬で、看守の一人を殺した。成り代わったウズルダンから食事を与えられ、徐々に体力を戻していく。
牢で朽ちることは考えず、玉座で朽ちることを考えよと、その言葉に再び闘志を湧き上がらせて。
身体を鍛えて落ちていた筋肉を取り戻し、続く体罰にも耐え、狂ったふりさえして見せた。
ろくな抵抗も見せず狂ったように振る舞う第四皇子が、真っ当な食事を与えられ身体を鍛えていることなど、誰しも気づくことはなかった。
「では、参りましょうかバスクス二世帝陛下」
……眩しさに腕をかざし、空を見上げていた。
ウズルダンが笑うのを、思えばこの日初めて見たのだ。陰気に満ちたこの男でさえ、至福の微笑を知っている。
眩しそうに太陽を浴びるディアスを見て、安堵したように笑ったウズルダン。その彼に、笑顔を返すことはできなかった。
この色。水色とも緑色ともつかぬ、淡く微妙な色合いの空――まるで湖の水を、ひっくり返し天に浮かべたような。遥か彼方にまで広がる、天空の湖の色だった。
眩しさに目を細めるだけで、手を伸ばしても、その飛沫の快さに触れることは叶わない。
それは、自分には手に入れることが出来ない、手の届かない清涼さだ。
――生きて戻りたいと願った、外の世界の美しい色。
そこに自由という名の幻を見た気がして、彼は小さく自分を嗤った。
狂いそうになりながら焦がれた色彩を、〝あの娘〟は併せ持っていた。その姿を目にしたとき、自分はどんな顔をしていただろう……。
陽の光に煌めくあの日の空そのままに、目前の娘の瞳は輝く。
夜明け間近の、薄闇の中にあってもなお。
「……不思議な娘だな。明かりもないのに、お前の瞳の色がわかる」
娘は驚いたようにその瞳を大きくし、さっと目線を他にはずした。
「月明かりの……せいです」
消え入るようなその声は、身体が震えるほど透明で、
―――不思議と耳に心地がよかった。
◇――――――――――――――――◇
【 千年の竜血の契りを、あなたに捧げます − 第二幕・終 − 】
◇――――――――――――――――◇
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
お気に入りや評価、ご感想など、作者に勇気と希望の糧をいただけますと嬉しいです…!
次幕もどうぞ、お楽しみくださいませ^^