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千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
111/174

110 我が最愛の子ら

*後半の牢獄の場面に、暴力や流血の表現があります。苦手な方はお気をつけ下さい。

 「……無念でなりません」

 ひと際静まりかえった玉座の間で、ジルヤンタータはつぶやいた。しぼりだすように出たその声は、彼に対してではなく、むしろ自らへ向けたもの。

 メルトローからの刺客としての役目は果たさぬまま。もう長らく国王であるノルティスに向けて、定時の鷹も飛ばしていない。放って置かれているということは、さしたる脅威にはならないと判断されているのか。


 しかしその現状でさえも無念に思えてならなかった。

 ジルヤンタータは顔を歪めて、少し向こうに立つ皇帝の背中を見つめた。

 バスクス帝は、ただ前だけを――小さな背中が去って行った、垂れ幕の向こう側だけを見つめていた。

 まるでその残像を、必死で目に焼き付けるかのように。


「なぜ逃して差し上げなかったのですか、あのまま逃れてさえいれば、」

 八つ当たりのような台詞をジルヤンタータは呟いた。その選択肢はあり得なかったと、わかっているのに。

 バスクス帝は振り返り、息をついて応えた。

「単なる我が儘だ」

 その手に小さな琥珀色の珠が乗るのを見とめて、ジルヤンタータは眉根を寄せた。フェイリットが引き千切り、彼に投げつけたエレシンスの宝石は、室の燈にあてられて時おり美しく煌めく。


「逃したら、あれは殺されてしまうだろう」

 幸せのこもる贈り物では決してない。その琥珀色の珠を大事そうに握り締めて、バスクス帝は静かに言った。

「あれはもともと、私の手には掴めぬ〝光〟だった。……私は悪い男だ。恨み言ひとつでも言わせて、忘れてもらうしかない」

 メルトローがこの国に攻め入らない確約を取り付けるためには、フェイリットを渡すしか方法が無かった。他の選択肢を選べなかった彼の憤りは、きっと計り知れないほどに大きい。


「お前も早くどこぞなりに消えるべきだ、ここはもう安全ではなくなる」

 バスクス帝は玉座への階段を上りながら、漆黒の外套を羽織りなおす。

 シアゼリタ公女が亡くなって以来、彼は真っ黒で色味の無い衣裳を纏いはじめた。それは誰が見ても喪服と映る姿。

 年若い少女のためとも、自らの生への諦めともとれるその行為を、ジルヤンタータは苦々しく見つめる。

「お待ちを。少し…昔話をしてもよろしいでしょうか」

 ジルヤンタータは立ち上がるバスクス帝の背中を見つめ、声をかける。

「…昔話」

 バスクス帝は振り返ることはなかったが、進みかけた足をふと止めた。


「わたくしが、この国を去ったのは二十年前のことでした。まだ三つになったばかりの息子は、ほんとうに可愛い盛りで……」

 ふと、視線を感じて目を上げる。バスクス帝が少しだけ身体を傾けて、こちらの―――ちょうど床の辺りを見るともなく見ていた。ジルヤンタータは小さく息をついて続ける。


「…幾つかの策略が、その可愛い息子の命を脅かしておりました」

 先帝アエドゲヌの愛妾(ジャーリヤ)だった、何の後ろ盾も持たぬただの遊牧民の出の娘が、四番目の皇子を産んだ。それは権力のある他の妾妃(ギョズデ・ジャーリヤ)を、触発するには充分な火種であった。


「わたくしの息子は産まれてすぐに、殺される運命を背負った。第一皇子の母である、イリアス公女の手によって。彼女はわたくしに〝息子の命を延ばしたければ、こちらに渡せ〟と、自分の傘下に送るよう差し向けたのです」

 ジルヤンタータは絞り出すようにして話しながら、大きくなった目の前の背中から視線を反らした。


「わたくしは、最愛の息子の存命と引き替えに、この国を去りました」


 憤りだけを抱えて生きてきた。けれど、様々な出逢いが……リエダやフェイリット、そして再び舞い戻ったこの国での日々が、間違いなく癒やしとなった。

 そしてきっと彼にとっても、フェイリットは大きな癒やしとなったはず。

 大切なものを手離す苦しみを、これ以上の痛みを……もう何もかも喪いすぎている〝あなた〟に、背負って欲しくはない。

 その願いをはっきりと口にすることは、ジルヤンタータにはできなかった。


「産んだことに後悔はあるか?」

 しばらくの沈黙の後に、バスクス帝は静かな声で言った。淡々とした、何の感情も滲まない声色で。けれどその押し隠した感情の裏に、どれほどの激流をとどめているのか。

「ございません。今も昔も」

 迷いなく口にしたジルヤンタータは、視線を真っ直ぐに玉座へと上げる。皇帝の椅子には座ることなく、その階段の中ほどで背を向けていたバスクス帝は、ゆっくりとこちらを振り返った。

 そこには漆黒の、闇に溶け込む静かな双眸がならんでいた。


「牢獄に居た頃、俺は空ばかり仰いでいた。小さな拳ほどの穴から、わずかながらに注ぐ薄い青の光を。あいつの瞳を初めて見た時―――焦がれた光をとうとう見つけたような気になったものだ」

「…ディルージャ」

 バスクス帝はふとして小さく笑うと、合わせられたその瞳を足下へ戻す。

「立ち去るがよい。もう二度と、会うこともないだろう」






* * *


 背に打ち据えられた鞭は、時をかけず肉を腐らせた。

 痛みはすぐにわからなくなる。神経までえぐり出す焼けるような苦しみには、耐えることもできる。だが血と膿で腐りきった背中から、特有の甘臭が発せられるのは、なかなか慣れるものではなかった。


 牢に収容されているのは、皇族に恨みを持つ者ばかり。そのために、いたぶられる理由には事欠かなかった。

 纏いつく血の臭い、膿んだ身体の臭気、牢特有のすえたような異臭――出される食事は些末とさえ言えぬ家畜同様の餌で、顔をしかめるほど腐り落ちているものばかり。

 そうして絶望のまま一年を暮らし、彼は着実に死へ向かった。

 発熱のせいでままならぬ意識がある日捉えたのは、石壁を切り取られた小さな小窓と―――美しい色の空。

 暗闇の中で唯一の光を仰ぎながら、ぎりぎりの命を(つな)いでいた。



 やがて銀髪で肌色の薄い男が現れるようになって、いつの間にか看守が一人、また一人と減っていく。

 その男は名を〝ウズルダン〟といった。

 渡された毒薬で、看守の一人を殺した。成り代わったウズルダンから食事を与えられ、徐々に体力を戻していく。

 牢で朽ちることは考えず、玉座で朽ちることを考えよと、その言葉に再び闘志を湧き上がらせて。

 身体を鍛えて落ちていた筋肉を取り戻し、続く体罰にも耐え、狂ったふりさえして見せた。

 ろくな抵抗も見せず狂ったように振る舞う第四皇子が、真っ当な食事を与えられ身体を鍛えていることなど、誰しも気づくことはなかった。


「では、参りましょうかバスクス二世帝陛下」


 ……眩しさに腕をかざし、空を見上げていた。

 ウズルダンが笑うのを、思えばこの日初めて見たのだ。陰気に満ちたこの男でさえ、至福の微笑を知っている。

 眩しそうに太陽を浴びるディアスを見て、安堵したように笑ったウズルダン。その彼に、笑顔を返すことはできなかった。

 この色。水色とも緑色ともつかぬ、(あわ)く微妙な色合いの空――まるで湖の水を、ひっくり返し天に浮かべたような。遥か彼方にまで広がる、天空の湖の色だった。

 眩しさに目を細めるだけで、手を伸ばしても、その飛沫(ひまつ)の快さに触れることは叶わない。

 それは、自分には手に入れることが出来ない、手の届かない清涼さだ。


 ――生きて戻りたいと願った、外の世界の美しい色。


 そこに自由という名の幻を見た気がして、彼は小さく自分を(わら)った。



 狂いそうになりながら焦がれた色彩を、〝あの娘〟は併せ持っていた。その姿を目にしたとき、自分はどんな顔をしていただろう……。

 陽の光に煌めくあの日の空そのままに、目前の娘の瞳は輝く。

 夜明け間近の、薄闇の中にあってもなお。


「……不思議な娘だな。明かりもないのに、お前の瞳の色がわかる」


 娘は驚いたようにその瞳を大きくし、さっと目線を他にはずした。

「月明かりの……せいです」

 消え入るようなその声は、身体が震えるほど透明で、


 

 ―――不思議と耳に心地がよかった。




◇――――――――――――――――◇

【 千年の竜血の契りを、あなたに捧げます − 第二幕・終 − 】

◇――――――――――――――――◇


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

お気に入りや評価、ご感想など、作者に勇気と希望の糧をいただけますと嬉しいです…!


次幕もどうぞ、お楽しみくださいませ^^



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