表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年の竜血の契りを、あなたに捧げます  作者: 凛子
第二幕:皇帝の妾妃
110/174

109 はじまりとさよなら

 頬をなでてゆく優しい手。追うように手で触れてから、ただの風だと気づいて目を開けた。横を見やると、そこにあったはずの温もりは消えている。

 まだ夜明け前なのに、彼はもう起き出して行ったのだろうか。

「お気がつかれましたか」

 小さな疑問を考えているうち、低い声が頭の上から降りかかる。聞き慣れたその声の主に目をやって 、フェイリットは微笑んだ。

「おはよう、ジル。珍しいね、ここまで起こしにくるなんて」


 ハレムから隠し通路が続いているとはいえ、バスクス帝の寝所は女人禁制の皇帝宮に位置している。侍女であるジルヤンタータが寝所の内にまで単独で入り込むなんて、これまでには無かったこと。

「…フェイリットさま」

 寝台から起き上がりその縁から脚を下ろすと、フェイリットはジルヤンタータを見つめた。

「え、どうしたの?」

 ジルヤンタータの面差しに、泣き腫らしたような赤い瞳が並ぶ。目覚めた時からの小さな違和感。その片鱗を、彼女の中に見つけてしまう。


「メルトロー王国がついに、貴女を渡すようにと公式な申し立てをしてきました」

 ジルヤンタータの顔は、蒼白を通り越してもはや表しようのない色をしていた。


 〝サディアナ王女はイクパル皇帝の元に隠れている。〟


 それはすでにメルトロー国王の耳には入っていたものだろう。あまりにも静かな日々が続いていて、カランヌのことも国王のことも、意識の外に追いやっていた。

「カランヌが玉座の間に居ります。皇帝と謁見しているあいだに、裏口からお逃げください。わたくしも同行いたします」

 ジルヤンタータは背負えるほどの布で包まれた荷物と、背の丈ほどもある長い棒を指し示した。旅支度は済んでいて、今にも出て行けると。そうしてジルヤンタータは目前に跪き、まるで縋るようにフェイリットの両腕を掴んで言った。

「お願いです。わたくしと、逃げてください」


「待って、ジルヤンタータ。ディアス、陛下は……?」

 ディアスは何か言っていなかったか。その問いに、ジルヤンタータは首を横に振る。

「あの男は、貴女をメルトローに引き渡す心づもりのようです」

「そ……」

 一瞬の間をおいて、フェイリットは口を開けた。

 仕方がない、という気持ちよりも、落胆の方が優ってしまう。傍目にも分かるほどに肩を落として、フェイリットは息をついた。

 メルトロー王国は、イクパルが戦っても負ける相手なのは確かだ。もし何かの条件をちらつかされたなら、一国の元首として拒否することは出来ない。


「…そんな」

 けれど〝仕方がない〟と納得できるほど、心は強くなれなかった。

 頬を伝った涙が、太ももに落ちて流れていく。ジルヤンタータに背を撫でられて、フェイリットは奥歯を強く噛み締める。

「フェイリットさま、今お逃げになれば、また機会はいずれ出来ましょう。カランヌは抜け目のない男です。その手に落ちたなら、もう二度と」

 ジルヤンタータに促されるまま、のろのろと立ち上がる。そうして移した潤んで見えない視界の向こうに、黒い影を見つけてしまう。


「陛下…!」

 フェイリットはジルヤンタータの腕からすり抜けて、咄嗟に足を踏み出した。いつもの癖でそうしてしまったことに気づいて、はっとする。


「…お前をメルトロー王国に返すことに決めた」

 彼はその腕を広げて〝おいで〟と(いざな)うことを、もうしなかった。

 いつの頃からだっただろう。まるで喪服のような漆黒の衣装を、彼が身に纏うようになったのは。

「お別れだ」

 目前に立つ、冥界への使者にも似た出で立ちのディアスは、微笑むこともなくただ淡々と言った。

「待ってください……選べと、言ってくれたじゃないですか…、わたしは陛下が、ディアスが」

「一度でもお前に、愛していると言ったことはあったか?」

 憤りを超えた空虚のような冷たいものが、頭を這うようにして覆っていく。


 ―――そうだ。〝好きだ〟も、〝愛している〟も、彼の口から聞いたことは無い。形にした言葉は、なにもなかったのだ。


 そばにいられる安心感だけで、不安なんて吹き飛んでいた。疑問に思ったことさえ。

「いいえ…ありません」

 自分たちには、証明できるものが〝何もない〟。

 突如襲いくる衝動のまま、フェイリットは首から下げた琥珀色の珠を引き千切り、彼にむかって投げつけた。少し離れたその胸元にぽとりと当たって、エレシンスの瞳と云われた宝石は転がってゆく。

 視線だけで胸元を見下ろして、ディアスは小さく息をついた。


「鎖で無理やり連れ行かれたくなければ、諦めて玉座の間へ来い」

 サミュンを失った悲しみを、溶かしてくれた存在。どこかで彼に、サミュンの面影を重ねていたことは言うまでもない。

 ―――……失ってしまうのか、また。

 項垂れるままに、彼の大きな背中について仕切りの幕を抜けてゆく。

 玉座の間に身をくぐらせて、フェイリットは瞼を閉じて息を吸った。乳香の優しい香りをさいごに胸中に満たして、ゆっくりと目を開ける。


「お迎えにあがりました、サディアナ王女殿下」


 そこにはアルマ山で自分を連れだした男が、まったく変わらぬ姿で(かしず)いていた。

 その手に握られた鉄製の手枷や首輪を忌々しげに見やって、フェイリットは嗤う。


「要らないわ、そんなもの(、、、、、)。心配しなくとも、もう逃げも隠れもしない」


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


ブックマークや評価、ご感想など戴けますと
続けていく勇気になります^^

web拍手へのお返事はこちら
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ