109 はじまりとさよなら
頬をなでてゆく優しい手。追うように手で触れてから、ただの風だと気づいて目を開けた。横を見やると、そこにあったはずの温もりは消えている。
まだ夜明け前なのに、彼はもう起き出して行ったのだろうか。
「お気がつかれましたか」
小さな疑問を考えているうち、低い声が頭の上から降りかかる。聞き慣れたその声の主に目をやって 、フェイリットは微笑んだ。
「おはよう、ジル。珍しいね、ここまで起こしにくるなんて」
ハレムから隠し通路が続いているとはいえ、バスクス帝の寝所は女人禁制の皇帝宮に位置している。侍女であるジルヤンタータが寝所の内にまで単独で入り込むなんて、これまでには無かったこと。
「…フェイリットさま」
寝台から起き上がりその縁から脚を下ろすと、フェイリットはジルヤンタータを見つめた。
「え、どうしたの?」
ジルヤンタータの面差しに、泣き腫らしたような赤い瞳が並ぶ。目覚めた時からの小さな違和感。その片鱗を、彼女の中に見つけてしまう。
「メルトロー王国がついに、貴女を渡すようにと公式な申し立てをしてきました」
ジルヤンタータの顔は、蒼白を通り越してもはや表しようのない色をしていた。
〝サディアナ王女はイクパル皇帝の元に隠れている。〟
それはすでにメルトロー国王の耳には入っていたものだろう。あまりにも静かな日々が続いていて、カランヌのことも国王のことも、意識の外に追いやっていた。
「カランヌが玉座の間に居ります。皇帝と謁見しているあいだに、裏口からお逃げください。わたくしも同行いたします」
ジルヤンタータは背負えるほどの布で包まれた荷物と、背の丈ほどもある長い棒を指し示した。旅支度は済んでいて、今にも出て行けると。そうしてジルヤンタータは目前に跪き、まるで縋るようにフェイリットの両腕を掴んで言った。
「お願いです。わたくしと、逃げてください」
「待って、ジルヤンタータ。ディアス、陛下は……?」
ディアスは何か言っていなかったか。その問いに、ジルヤンタータは首を横に振る。
「あの男は、貴女をメルトローに引き渡す心づもりのようです」
「そ……」
一瞬の間をおいて、フェイリットは口を開けた。
仕方がない、という気持ちよりも、落胆の方が優ってしまう。傍目にも分かるほどに肩を落として、フェイリットは息をついた。
メルトロー王国は、イクパルが戦っても負ける相手なのは確かだ。もし何かの条件をちらつかされたなら、一国の元首として拒否することは出来ない。
「…そんな」
けれど〝仕方がない〟と納得できるほど、心は強くなれなかった。
頬を伝った涙が、太ももに落ちて流れていく。ジルヤンタータに背を撫でられて、フェイリットは奥歯を強く噛み締める。
「フェイリットさま、今お逃げになれば、また機会はいずれ出来ましょう。カランヌは抜け目のない男です。その手に落ちたなら、もう二度と」
ジルヤンタータに促されるまま、のろのろと立ち上がる。そうして移した潤んで見えない視界の向こうに、黒い影を見つけてしまう。
「陛下…!」
フェイリットはジルヤンタータの腕からすり抜けて、咄嗟に足を踏み出した。いつもの癖でそうしてしまったことに気づいて、はっとする。
「…お前をメルトロー王国に返すことに決めた」
彼はその腕を広げて〝おいで〟と誘うことを、もうしなかった。
いつの頃からだっただろう。まるで喪服のような漆黒の衣装を、彼が身に纏うようになったのは。
「お別れだ」
目前に立つ、冥界への使者にも似た出で立ちのディアスは、微笑むこともなくただ淡々と言った。
「待ってください……選べと、言ってくれたじゃないですか…、わたしは陛下が、ディアスが」
「一度でもお前に、愛していると言ったことはあったか?」
憤りを超えた空虚のような冷たいものが、頭を這うようにして覆っていく。
―――そうだ。〝好きだ〟も、〝愛している〟も、彼の口から聞いたことは無い。形にした言葉は、なにもなかったのだ。
そばにいられる安心感だけで、不安なんて吹き飛んでいた。疑問に思ったことさえ。
「いいえ…ありません」
自分たちには、証明できるものが〝何もない〟。
突如襲いくる衝動のまま、フェイリットは首から下げた琥珀色の珠を引き千切り、彼にむかって投げつけた。少し離れたその胸元にぽとりと当たって、エレシンスの瞳と云われた宝石は転がってゆく。
視線だけで胸元を見下ろして、ディアスは小さく息をついた。
「鎖で無理やり連れ行かれたくなければ、諦めて玉座の間へ来い」
サミュンを失った悲しみを、溶かしてくれた存在。どこかで彼に、サミュンの面影を重ねていたことは言うまでもない。
―――……失ってしまうのか、また。
項垂れるままに、彼の大きな背中について仕切りの幕を抜けてゆく。
玉座の間に身をくぐらせて、フェイリットは瞼を閉じて息を吸った。乳香の優しい香りをさいごに胸中に満たして、ゆっくりと目を開ける。
「お迎えにあがりました、サディアナ王女殿下」
そこにはアルマ山で自分を連れだした男が、まったく変わらぬ姿で傅いていた。
その手に握られた鉄製の手枷や首輪を忌々しげに見やって、フェイリットは嗤う。
「要らないわ、そんなもの。心配しなくとも、もう逃げも隠れもしない」