108 エレシンスの宝石
そっと押し開いた垂れ幕のむこうで、バスクス帝が振り返る。彼は寝台に腰かけて脚を組み、何かの描かれた羊皮を手に開くところだった。
「来たか」
頬を緩ませるその笑顔に頷いて、フェイリットはバスクス帝の目前へと近づいてゆく。
「それ、地図ですか?」
「ああ」
彼の隣に腰かけると、フェイリットは首を傾げた。
ウズの小姓だったころ、その部屋で何度も目にしたイクパル全土の地図。連なるアルマ山脈を北に、西のエルベ海域に浮かぶ島国テナン、大陸のふちに位置する公国ドルキア、寄り添う小国チャダ、中心部の公国バッソスと、東の境目にある公国イリアス。
けれどそれだけではない。バスクス帝の手にある地図は、藩属するすべての公国が載るほか、イクパルを囲む周辺の大国――メルトロー王国やリマ王国まで詳細に描かれたものだった。
「わぁ、こんなに詳しく描かれてるの初めて見ました」
彼の腕元まで身を乗りだすと、その手が肩にまわされる。力に従い身をあずけ、フェイリットは離された地図の片方をつかんだ。
「こうして見ると良い立地なんだが。見てみろ。東と北はアルマ山脈、西と南は海洋に狭まれているだろう。本来なら、ここは容易に踏み込めぬ自然の防壁に守られた要塞だ」
バスクス帝が噛みしめるように言うのを、フェイリットは頷いてつなげる。
「けれど資源の乏しい国に自然の防壁があったら、それはただの檻とかわらないですよね…せめて南の大陸と貿易ができたらいいのに」
バスクス帝が言ったとおりの〝防壁〟を、フェイリットは指でなぞる。砂漠で見上げた、太陽を背負うアルマ山脈の大きさは、羊皮の上では表しきれない。指でなぞった山脈から沿岸をたどれば、海に浮かぶ小さな国々が目に入る。
「ああ。周囲と隔絶せずこの地で国力を保とうとするなら、たしかに船で海を越えるのが一番いい。昔はイクパルにも最強の艦隊があったようだしな」
「最強の艦隊…」
地図から顔を上げれば、彼の吐息が首すじにかかり、次いで唇が押しつけられる。フェイリットは首をすくめてバスクス帝を見やり、彼の口に手をあてた。
「イクパルの艦隊って?」
「ずいぶん昔の話だ。最盛期の皇帝が一代で作りあげた海軍だったが、たしかどこかの王に軒並み潰されたのだったかな。最強の艦隊を名乗ってはいたが、実際はそんなものだろう。その残党があつまって今の――まあ、単なる密輸業船だが――イリアスの海賊になった」
「……それって、海軍が海賊になったってことですか?」
海軍と海賊といえば絵に描けるほどはっきりと、対局に分かれて存在するものだ。けっして混じりあわない水と油の境目がなくなるなんて。
「そうだ。もしもイクパルが海洋国と戦争になったなら、私は間違いなく海賊に戦闘要請をしなければならん。そのなけなしに借りた海賊たちの武力も、他国の軍には遠く及ばないだろうが」
首すじをたどっていたバスクス帝の唇が、徐々に肩へとおちてくる。自然と倒される背中で寝台のやわらかさを感じて、フェイリットは自分を見おろす顔を見つめた。
「あの、わたし、肩揉みに来たんですけど」
見上げた顔が、悪戯げに笑う。
「肩より、私はこっちのほうが好い」
「なっ、」
近づく顔を両手で抑えて、フェイリットはしかめ面をする。
「賭け、わすれてないですよね! わたしだけまだ何も…」
身体の横で、地図が寝台からすべり落ちる。その音に気をとられて目をやれば、隙をついた彼に唇を捕らえられる。
そっと触れあうだけの優しいくちづけ。バスクス帝はからかうように口元を緩めると、フェイリットの胸元に目を落とした。
「宝石か。瑪瑙でも琥珀でもないな」
「えっ? あ、」
視線を追って自らの胸元を見て、フェイリットは目を瞬く。
バッソス公国の王、ホスフォネトから譲り受けた球体の首飾りが、衣装のすき間からころがり出ていた。琥珀とも黄金とも表しがたい不思議な色の珠を、ホスフォネトはエレシンスの〝眼〟なのだと語ったのだが…。
「これは……ええと、」
珠をつなぐ細い革紐をつまむと、フェイリットはバスクス帝の顔をそっと窺う。
エレシンスの眼の説明を、どうすればいいものか。彼に会うときはいつも、外すかジルヤンタータに預けるかして、その目には触れないようにしてきたのだ。
「どこぞの男でなければいいが」
ふと笑って、固まるように動かなくなったフェイリットの手を、バスクス帝が珠ごと握る。
「――まったく。出会った時からだったが、お前は謎だらけだな」
手を握ったまま、彼はゆっくりと苦笑した。その顔がどこか寂しそうに思えて、フェイリットは彼を見つめる。
「出会ったとき?」
「ああ。暗闇のはずなのに、不思議な色の瞳だった」
「そ! それって光っ……じゃない、ええと。北に行けば、こういう色の人はたくさん居て、わ」
近づく彼の唇が、そっと目尻に触れる。くすぐったさに目を閉じれば、瞼にもやわらかな温もりが感じられた。
「俺もおまえも秘密ばかりだ。だが、ひとつだけ言えることはある。……おまえは一人だけだ。いくら似ている奴がいようとも。だからおまえも、己の存在はひとつだけなのだということを忘れるな」
唇を離してから、耳元で囁かれた言葉。
後から思い出すならば――、それは彼が、その日見た「真実」を示す断片だった。
「そうだな。久々にセルトでもするか」
「え、そんな急に。これからですか?」
けれどフェイリットには、気づけるはずもなかったこと。
「なんだ、復習が必要なほど忘れたか?」
翌朝に目を覚まし、隣のぬくもりが見当たらないことに気づいてから、
「わっ忘れてないですよ! 陛下の戦略なら、しっかり覚えてます。今度こそ負けません」
―――……離別は唐突に訪れる。