105 喪の皇帝
白塗りの陶磁で壁をかこんだ室は、ゆるやかな丸みをもった円状であった。
見上げた丸い天井からは、たくさんの黒紅色の垂れ幕が下がり、視界のほとんどを遮っている。それは普通に歩いたなら、垂れ下がる布に身体を絡めてしまうほどの間隔だ。
彩りを添える意味合いより、守備の目論みがつよい装飾の一つだが、実際にここで乱闘が起きたなら、敵も味方もなくごった返すであろうことは誰が見ても予想がついた。
元老院の議会が催されていたこの室は、帝城の北区で唯一、屋根が半球に盛りあがる〝塔〟の形状をしている。かつては円形の壁に沿うよう議席がいくつも置かれていたが、その光景ももはや凍結までの話だ。
垂れ幕を避けて敷かれた中心部の絨毯には、三人の男たちが重苦しい沈黙に支えられ腰をつけていた。人数分の絨毯は、人ひとりが大の字で手足を広げても、余りあるほどに広い。
居合わせた三人は互いに顔を知り、他愛のない雑談を交わせるほどの間柄であるはずだった。しかし今、そこに居る誰しもが口を閉ざし、会話など忘れてしまったように沈黙の時間を堪えている。
沈黙の原因の一端は〝空白の席〟。
三人の男たちは、その誰も座らぬ絨毯を眺め、みな一度は顔を曇らせた。
群青と黍色の毛が複雑に折り込まれた図案は、 蠍が剣を抱き込む。それは間違えるはずもなく、独立の噂の上がる島・テナン公国が用いる家紋。
「……先帝の即位以来、ですかな」
いよいよ沈黙も四半刻にさしかかり、耐えかねるように乾いた声を、三人のうちのひとりが上げた。
「……ホスフォネト公は、先帝の崩御時にはお越しになりませなんだからな」
沈黙を破った男――バッソス公王ホスフォネトに、隣国のイリアス公王ジルドゥラが口を返す。
先帝の即位を最後に、顔を合わせたのはもう何十年も前になる。昔は同年の雰囲気が漂っていたはずなのに、今はどうにもバッソス公王ホスフォネトに〝老い〟を感じることができなかった。
同じく七十にもさしかかる年齢で、彼の横顔はどう身繕っても四十代の半ば。
イリアス公王ジルドゥラはホスフォネトの横顔を見やりながら、渋るように首を傾げる。
「なにか秘術でも会得なされたか?」
ふと呟くように言ったジルドゥラの言葉に、ホスフォネトは小さく息をついて笑った。
「竜でも喰えば、よい秘術となりましょうがな」
皮肉らしくもない、苦々しい顔をして返すホスフォネトに、ジルドゥラの脇に居たドルキア公王・イジャローテが鼻を鳴らす。
「さんざん踊らされたその竜狩りも、空言だったというではないか。お蔭でどこかの慌て者が、尻尾を出して独立なんぞと騒ぎおる」
「おやおや、そのようなことを仰ってよいのですかな。聞くところによれば、貴国の旗印も、よもやどこかの慌て者に変えられようとしておるとか。いやはや人の噂とは恐ろしいものですな」
「ふん、たかが噂じゃ」
ジルドゥラの言及に、ドルキア公王イジャローテが頑として腕を組む。
「海風に流された〝煙〟が、昨今なんとも息苦しくてかなわんのでな。どこぞで火が焚かれているのではと思ったまで」
鼻で笑って、ジルドゥラは返した。
「ほう、エルベ海の豊かな海風が、よもやイリアスくだりまで届くとは。驚いたものじゃ」
「なんだと? 言わせておけば、」
「それはこちらの言い分ぞ」
立ち上がろうとしたイジャローテが、ふとその動きを止めて横を見る。
突然の所作につられ同じ方角を見やれば、そこには黒のターバンに黒のローブを纏い、腰に履く湾刀まで漆黒の男が、こちらを見下ろして立っているのだった。
「……陛下」
―――まるで喪服だ。
おそらく居合わせた者の誰しもが、彼の姿を見てそう思ったことだろう。
陛下、と声を出したイジャローテは、けれどその先につなげるべき挨拶の儀へ、身体を動かすことができなかった。
政治には一切手をかけず、女の寝所にばかり通う皇帝。そう耳にすれば、ふ抜けた優男なのだと想像するのが人の常。けれど目の前に立つ喪服の皇帝は、よもやふ抜けたと言うには相応しくなかった。
眉間には浅くはない皺が、そして眼差しには隙がなく、じっとこちらを見据えている。肉食の獣に対峙したかのような緊迫を肝に感じて、ドルキア公王イジャローテはようやくその身を平伏させた。
「儀礼はいらん」
短く言うと、バスクス帝は自らの席である一段奥まった位置へは行かず、立ったままで言葉をつなげる。
「テナン公女シアゼリタ・ロアの訃報は、よもや届いているだろう」
テナン公女の暗殺。その訃報は、なによりも早く各国の中枢へと届けられた。
――そう、なによりも早く、異常な確かさをもって。
「どのように届いているのか、配慮はせん。ただ一つだけ言う。これから話すことが事実であり、真実に近いものであることは、」
小さな間を開けた後、その鋭い目がわずかに伏せられ上がる。
「――保証する」
深く、落ち着きのある静かな声は、先帝のアエドゲヌとよく似ている。ただその異常に強い眼差しは、父親とはまったく別の方向を見つめていた。
玉座の上の安寧や保身ではなく、彼自身を襲った過去と……おそらくは自らのすすむ道筋を。
八年前、異母兄弟を殺害した容疑をかけられて、監獄に送られるまま〝狂った〟と判断された、最後の皇子。それがバスクス二世だった。
暗殺の魔の手を逃れ、唯一イクパル帝国を継承できる立場についたはずの彼は、〝刑を覆せば報復で殺されるだろう〟という忠言のせいで、父帝に恐れられるまま五年の歳月を監獄で暮らした。
父であり、当時の皇帝だったアエドゲヌは、己の座る椅子だけが大切だった。次々に息子たちが死に、その容疑がまた自らの息子にかかっても、真実を突き止めようと動く男ではなかったのだ。
「シアゼリタ・ロア公女は知っての通り、暗殺された。状況が示す判断は無数に存在するだろう。たとえば、この私が暗殺の指示を出した、などだ。……残念なことに、否定できる証拠も犯人を示すことのできる証拠も、今のところ何もない。提示できる事実は、元・元老院議長であり、元・元帥であったトゥールンガが、公女の首を保持したまま自害しているのが発見された――ということのみ」
三人の公王たちは、何も言わずに目前に立つ皇帝を見上げていた。
バスクス二世を監獄へ入れろと提言したのも、彼が狂ったから出すべきでないと押し切ったのも、玉座を狙い、あわよくば報復を企むはずだと忠言したのも、たったひとり。
ここには居ない、かの国の公王。
「ハレムを縮小した。お前たちの公国から、公女をひとりずつ選抜しギョズデ・ジャーリヤに仕立てたのは、テナン公王――シマニから先帝アエドゲヌの血をひくコンツ・エトワルトを引き剥がし、妾妃を人質にこの帝国の玉座に座らせるためだった。お前たち四公王に私を殺させ、コンツ・エトワルトに報復させる形でな。……だが、水面下に進めるはずのこの計略を、私がここで口にした意味が、わからぬお前たちではないだろう」
――計略は、成功の日の目を見ぬままに終わる。そのことを言外に口に出し、バスクス二世は鋭い眼をまぶたの内に覆い隠す。
「この事実を話した上で、お前たちに自由をやろう。テナン公国に与し独立の加担をするもよし、ここで予と無様に足掻くのもよし」
喪服の意味は、シアゼリタ公女への敬弔なのか、それとも自らの死の暗示なのか。
テナン公国がメルトロー王国と手を組んだのは、もはや周知の事実。大陸に富を誇るあの大国とまともにやりあったなら、死は必然となるだろう。示された自由の中に、皇帝であるはずの彼の選択肢は、どこにもない。
「たしかに……陛下が狂われていると判断し、先帝に忠言したのはシマニです。が、その忠言に同意の署名を記したのは、我々三人であることは言い逃れできませぬ」
ホスフォネトは小さな息を肩でついて、ゆっくりと立ち上がった。
先日、バッソス公国で忠誠を誓ったことに、偽りはない。彼女と彼女の愛する人間に、残りの余生を捧げてもよいと思えたからだ。
「それ故、儂にその自由は必要ございませぬ」
立ち上がった視野の隅で、残る二人が下を向く姿をとらえる。
何も言わぬまま頷き、ローブを翻して去っていく皇帝を見届けながら、ホスフォネトは彼の座らなかった玉座を目に焼き付けた。