103 小国の娘
風を取り込もうと開け放した回廊から、黒い影が射し込んだ。刺繍をしていた愛妾アジィクムは、ふと自然に目を上げる。
「アジィクム」
その声に発作的に立ち上がると、手にあった布がはらりと床に落ちてゆく。そこに来た人物を理解して、なおさらにアジィクムは唇を震わせた。
「……陛下」
五度の寵を受け、もっとも妾妃に近いと言われてきた。
バスクス帝を離さぬために、彼が居ないときでさえ身を立てに駆けずり回る――そんな努力をしてきたというのに、今や各国から集められた女たちが、いとも簡単に妾妃の地位を得ている始末。
自分はといえば、今夜中にも後宮を去らねばならない身というのに。
身の振り先は、帝都に住まう子爵家のひとつ。資産は持っているけれど、俗にいう成り上がりの家だ。当然ながら後妻で、すでに子は十人もいる老人の元。
転落、というに相応しい、一夜にして転がり落ちた自らの命運が口惜しい。
「しばらくぶりだな」
彼は厳しい顔をほんの少し緩めて、回廊からこちらに一歩踏み出る。書面ひとつと伝令の宦官一人。それで別れが済まされるのだと思っていたが、そうではなかったらしい。
「ええ」
アジィクムは頷くと、恨みごとひとつ言わぬまま微笑んだ。
バスクス帝を誘惑する衣装も、いざなう香もつけてはいない。ハレムを去れと言われた身で、彼が訪ねてくるとは思いもよらなかった。
けれどそれでも、
「寂しい夜ばかりでしたわ」
アジィクムは微笑むと、艶やかな仕草でその胸板に身を添わせた。目先にあった彼の手をそっと持ち上げ、唇を寄せて闇色の瞳を見やる。
「思い出していただけて?」
愚鈍と言われているけれど、底の知れぬ理知がある。思えばそれに気づいてから、アジィクムは彼に従順になった。
この男の関心さえ引き寄せられれば、故郷である小国チャダは存続できる。
彼の子を産めば、それはなおのこと。
「…わたくしを」
彼の手に唇をあてたまま、片手で結わえていた髪を解き、身体をおおう衣装を下ろす。挑戦的に微笑めば、彼はきっと乗ってくる。そう計算して。
滅多に微笑まぬその目をゆっくりと細めると、バスクス帝は指でアジィクムの唇を割った。
「アジィクム。お前に、ギョズデ・ジャーリヤになる覚悟はあるか」
口腔を弄ぶ指に夢中になりかけて、はっと目を上げる。そこに厳しい眼差しを見つけ、アジィクムは唖然となった。
「 妾妃……? このわたくしが?」
指が抜かれて解放されても、動くことはできなかった。静かに頷く彼を見て、身体が震えてよろめく。
ずっとずっと、喉から手が出るほどに欲していた地位。子爵の後妻となったなら、もう二度とその道は開かれない。
後じさったあとで、力の抜けた膝に引きずられ倒れそうになった。寸でのところをバスクス帝に抱え止められて、アジィクムは自分の足先を見下ろす。
「……追い出されるものとばかり、」
ぼんやりと呟いて、自分を抱える人を見上げた。
「そういう訳にいかなくなってな」
苦笑、というのに相応しい笑みを唇にのせると、バスクス帝はアジィクムを抱える腕に力を込める。
縋っていた身体を起こされて、地面に足がついてから、アジィクムは堪えていた息を吐き出した。
「お前がギョズデ・ジャーリヤに就くと言えば、チャダ小国との絶対の国交を保障しよう。猶予はないが、決められるか?」
答えはもちろん決まっている。
アジィクムは頷くまま、バスクス帝を銀朱の垂れ幕の中へ引き込んだ。