101 ロカイユの箱
〝それ〟が納められていたのは、精密でうつくしい曲線の描かれる、純白の貝殻装飾の箱だった。
「コンツ・エトワルトは?」
「謁見を終えてさきほど前にお帰りになりました」
「そうか」
ウズはトリノの報告を横に聞きながら、足早に皇帝宮の廊をすぎてゆく。
報告を終えたトリノが、なにも言わずとも後ろについて来るのは、この手に抱える箱が何であるかを理解している証拠だ。
軟禁状態にあった元元老院議長にしてイクパル帝国元帥・トゥールンガは、すべての肩書きを没収されて監禁へと移った。ウズが彼の室を訪れた時、卓にうなだれるようにしてつくその姿の脇に、その〝箱〟は並んでいたのだ。
箱――すなわち、テナン公女シアゼリタの首が。
「陛下の下へ急ぐのです。この箱が我々の手にあってはまずい」
「はい」
公女暗殺の罪人としてトゥールンガをテナン公国に輸送する。そんなことをしたら、おそらく事態は悪化するだけ。
これは向こうの策略なのだ。テナン公国に身柄を引き渡した途端、トゥールンガは命を乞うために「暗殺を命じたのはバスクス二世だ」と言いはるだろう。
そしてそれを、テナン公国側も望んでいる。
バスクス二世がテナンの公女を殺したとあれば、彼を糾弾する恰好の大義名分となるからだ。そうなればもう、戦争をしても皇帝を殺しても、テナン公国が〝正義〟。
この立ち位置では、玉座を奪われても報復などもっての外。〝簒奪は当然のことだった〟と、世論ができあがるのだけは避けたかった。
「陛下」
ウズは一声かけながら、玉座の間の仕切り幕を引き上げて身をくぐらせる。室の中にバスクス帝の姿はなかったが、時を待たずにその私室へとつながる仕切り幕が、ばさりと鳴る。
「どうした」
タブラ=ラサが共に居るはずの私室から来たわりに、着衣の乱れが目につかない。
とっくに身支度を終えていたのか、行為に及ばず彼女が下がったのか。トゥールンガに付きっきりだったせいで、彼らの動向が把握できない。
「タブラ=ラサは」
その所在を問う質問に、バスクス帝は息を一つついて答えた。
「眠っている。……その箱は、」
そして気づいたように目線をよこし、彼は眉をひそめる。ウズはそれに頷きながら、両手に持った箱を彼の方へと掲げた。
「首です、シアゼリタ公女の」
ウズの言葉を耳に、彼は一瞬だけ時を止めて固まる。
「――そう、か」
まるで苦いものでも飲み込むかのように、彼の蟀谷が動く。
低い声を口にし玉座からの段を降りてくる皇帝の姿を、ウズは黙って見守った。
「こうなってしまっては、隠蔽も公表も得策ではない。裏の動きをすべて明らかにせん限りな」
「では、」
目前に立ったバスクス帝が、小さな息で肩を動かす。
隠蔽も公表もできない。ならばいったい、どうすれば。
けれど、絡み合った糸にもかならず解き目はあるはずだ。トゥールンガに首を〝運ばせて〟テナン公国がしたかったのは何なのか? 目的が必ずや……、
「トリノ」
はっと気づくように目を開くと、バスクス帝はウズの後ろに控える小姓へ顔を向ける。
「コンツ・エトワルトは?」
先程ウズが問うたのと、全く同じ質問。
いきなり言葉をかけられた当のトリノは、驚いたように口を開ける。
「謁見を終えて帰られましたが…」
「それは、城を出る姿を見届けた、ということか?」
「いえ、見たわけでは」
「…見とらんわけだな?」
そのやり取りを見ながら、ウズは片手の甲を額にあてる。
―― やられた。何ということか……!
「…私の落ち度です」
わけがわからない、という顔でこちらを見やるトリノに、ウズは首を振って制止をかける。
「つまりは、」
バスクス帝はその足で仕切り幕へと近づき、金糸で縫われた白い布を掴み上げる。荒々しい動作の向こうには、しん、と静まった廊が続くばかりだ。
そこに居たであろう人物は、もはやこの城にはいない。
「狙いはこれだったのか。奴らは最初から、妹殺しを私に押し付け、敵対させるつもりだった」
〝シアゼリタの首を持った宰相が、皇帝に直に見せにゆく〟
この構図こそが、バスクス帝が主謀であることを裏付ける証拠。これをそのままコンツ・エトワルトに見せたなら、彼は間違いなく頭に血を上らせる。
テナン公国とイクパル皇帝の、対立の縮図のできあがりだ。
「……コンツ・エトワルトを捕らえますか」
「いや。捕らえて〝違う〟と弁明したところで、もう奴は信じぬだろうよ」
トゥールンガを、もっと早く問い詰めるべきだったのだ。策略と見抜きながら、まんまと脚を絡め取られて。
なんたる失敗を仕出かしてしまったのか。
「陛下!」
突如、慌ただしい金具の音が室の前で立ちどまる。こちらからはバスクス帝の背中だけしか見えないが、その彼が何かに目を向けたのはわかった。
金具の音の正体は、どう考えても武装した兵士。この次に起こることを予測して、ウズは顔をしかめて唸った。
「トゥールンガが死んでいます! 毒を煽ったように見られます。が、我々が調べた時点では、そのような物は所持しておらず…!」
監禁されていた身なら、持ち物は着衣を残しすべて取り上げられた状態にあったはず。だがそれでも、いったい薬をどこから、という疑問は口に出ない。
トゥールンガを動かした何者かが、彼に飲ませたに違いないからだ。
バスクス帝がその拳を握り締めるのを見つけて、ウズは止めていた足を前に踏み出した。彼の隣に並び立つと、目前に膝をつく兵の姿がようやく目に入る。
「トゥールンガの遺体は?」
「我々は数人単位で元帥……いえ、元・元帥閣下を監視しておりました。報告に上がったのは自分だけですので、遺体は他の者たちが見張りを。誰も近づけぬよう命令はしてあります」
「そうですか」
ひとつ頷いて、ウズは横を見やった。彼の判断も、自分の判断も、ここまでくれば変わりはないが。一度へまをした身で、これ以上の命令は下せない。
バスクス帝は大きく息を吸って、吐き出すように次の言葉を続けた。
「トゥールンガは自殺した。遺書は無いだろうが、その隣に首があれば一目瞭然。ロカイユの箱を奴の隣に戻せ。状況が揃ったらテナンへ伝令を送る」
我が国の元帥が、独断で公女を殺害した。遺書は無いが、首を持って自殺しているのが発見された。――そう公表するしか、もはや道は無いようだった。
言い逃れにしか聞こえなくとも、これが事実。トゥールンガが死に、彼を裏で操った存在が霞んでしまった以上、もはや真実を提示することはできない。
「そのように手配します」
ウズは頭を下げると、玉座の間をあとにした。トゥールンガの手に、再び持たせるロカイユの箱を抱えて。
テナン公国はおそらく、この弁明に耳を貸さない。トゥールンガが単独の犯人だという主張は、ほぼ間違いなく通らないだろう。
だが、だからといって〝無実〟の態度を崩してしまったら、そこで自分たちは終わるのだ。
なにも成さぬまま、犬死にすることにさえなる。
「トリノ。お前はタブラ=ラサに付き添って、いつも通り動きなさい」
後ろからついてくるトリノに、振り返ることなくウズは告げる。素直さ丸出しのタブラ=ラサに知れては、後々が厄介だ。
何か起こったのだ、という非日常は、単調な毎日をすごすハレムの住人にとって、甘い蜜にも代わるもの。
もし彼女がこのことを知り、何らかの反応を示してしまったなら、敏感な他のジャーリヤたちはすぐに気付く。
寵愛を受ける零番目の妾妃の様子がおかしい。それはそのまま〝皇帝、もしくは皇帝宮で何かが起こったのかも〟という疑念を浮かび上がらせる。
「承知致しました」
すっと衣擦れの音を残すと、トリノは身を返して去って行った。
タブラ=ラサとは仲が良いのか、仕事の合間にもしょっちゅう連れ立つ姿を見かける。しかし――友情と命令、どちらに重きを置くべきか、履き違えるトリノではなかろう。
ウズは考えるまま、歩き去るその背中を振り返った。